朝の電車は好きじゃない。会社員や学生たちがそれぞれを押し合い、詰め合い、窮屈で息も出来ないくらい。小さな箱に入るから潰れてしまいそうになってしまう。だけど、その時間帯の電車に乗らないと学校に遅刻してしまうので、仕方なく今日も窮屈な箱へと足を進める。
吊革が空いてなくて、仕方なくドア越しに控える。けれど、一駅一駅ごとに停車していくに連れて入ってくる人々の波に押されドアへ押し出される。ガラスとキスが出来る程の押し込み具合に苛立ちが募る。だけど、その前に…酸素供給を申請します。
心の中で挙手をしながら、電車内が揺り籠のように揺れる。揺れようによっては身体がステンレスのドアと抱き合うことになる。
顔だけはくっつけまいと悪戦苦闘していると、急にあることに気がついた。先程から誰かの肘がわたしの背中を押していたのに、今はその痛みや感触がなくなっている。
揺れのおかげかと思ったけれど、現在わたしの方面へ押し出されるカーブ地点。
疑問に思ったけれど、息苦し差がないことに胸を撫で下ろした。顔を上げてガラス越しに映った自身の顔とその真上に微笑みを称えている幸村精市くんの姿を捉えると、驚いて肩を跳ねあがらせた。

「やっと気がついてくれた」
『ゆ、幸村くん!!』
「おはよう」
『お、おはよう…』

朝の満員電車だと言うのに、何て爽やかな事でしょう。尊敬に似た眼差しで彼をガラス越しで見つめる。
ステンレス製のドアに片手をついて、何も感じさせない笑みを称えている。けど、この満員電車の中、人々がせめぎ合うそんな怒涛の中で、朝露の幻想的な雰囲気のまま立って入れるわけがない。多分。わたしを庇ってくれているんだろうな。
だから、ステンレスに幸村くんの手痕がくっきり残っているんだろう。
振り返る事は出来ないけれど、声を届けることは出来る。聴こえるかどうか少し不安だったけれど、口を薄く開く。

『ありがとう』

少し俯いてガラスさえも避けるように観ない。だけど、届いたか不安だから、少し顔を上げてガラスを恐る恐る覗く。
そこには、どんな美人にも負けないくらい、絵画の如く柔和な微笑みがあった。
見惚れていると、幸村くんは少し自由に動けるスペースを作り、態勢を変える。

「みょうじ」

名前を呼ばれる。誘われるように顔を上げる。彼の顔を今度は瞳に映せるように斜め上へ上げると、しっかりと彼の姿を捉えられた。少し屈んだ体勢のままわたしへ降り注ぐ藍色の髪が頬にかかる。瞳を閉じた彼の瞳が、唇が軽く触れ合う。
一瞬の出来事。いつのまにか彼の両腕に身体が挟まれ動けなくなっている。だから動けないというわけじゃない。動こうと思えば動けるのに、出来なかった。自分の心が少し混乱して、ざわめいている。
離れる君の薄い唇と甘い香り。呆然と彼を見つめていると瞳が合う。

「どういたしまして」

心臓がもたないくらいの笑みがわたしへ注がれる。彼の口から遅い、返事が返ってきた。