どうして、その人の全てが欲しいと望んでしまうのだろう。


「―――なまえ?どうしたの?」


その声にはっとする。見上げた視界に隙間なく埋め尽くされる黄瀬くんに私の心臓はドキマギした。


「なんでもないよ」


それだけを慌てて伝えれば、黄瀬くんは少しだけ疑った様な視線を送りつつも私の言葉を信じて話を再開させた。ちらり、と視線を向ければ黄瀬くんの横顔が見れる。いつ見ても見惚れる程素敵な彼氏だった。だけど、私は黄瀬くんが初めての彼氏だけど、黄瀬くんにとって私は何人目かの彼女。沢山の経験を積んでやってきた彼と、未経験の私。最初こそは付き合えるだけで幸せだと思っていたけれど、それは、勘違いだった。確かに二人きりで幸せだけど、でも、笑った顔、泣いた顔、怒った顔、困った顔、欲情してる顔、全部他の人にも見せて来たのかと思うと、私は……自己嫌悪にどっぷりハマっていた。

胸もない、可愛くもない、化粧気もない。そんな欠陥だらけの私と別の彼女を比べてしまうのだろうか?比べられてしまうのだろうか?目に見えない彼女に私は追い詰められているような気分になって、口が重くなる。だって、これは言ったって仕方がない。過去は代えられない。過去は戻って来ない。過去は過去だ。それ以上でもそれ以下でもない。何も出来ないし、何にもならない。過去って……大嫌いだ。そんな事を思う自分なんてもっと、大嫌いだ。
どうして、自分と同じじゃないと嫌なんだろう。どうして初めてだと聞くと嬉しいのだろう。分かち合いたいのとはまた違うだろうけど、説明の仕様がないこの感情に私は心中を蝕まれていた。

黄瀬くんのモデル活動中の私は決まってどこかの喫茶店で紅茶を飲んで待っていた。あんなきらびやかな世界にいると何だか自分がとても惨めな気分になるから、見学は最初の一回だけで、それ以降行った事はない。元々一人で居るのが好きだったから、苦ではない。読書に勤しもうと本を開くとガタ、と音が聴こえて顔を上げる。背の高い男性が相席いいですか?と聞いてくるから、荷物をどかして「 どうぞ 」と答えた。すると、優しい笑みを向けられて「 ありがとう 」と答えてくれる。綺麗なお兄さんに私は見惚れてしまい頬を紅潮させてしまう。文庫本で必死に顔を隠しながら意識を内容に集中させようにも、出来なかった。諦めようかな、と思った時、そのお兄さんに声をかけられる。


「その制服って、海常?」
「あ、はい」
「実は俺の後輩の友達がそこに通っているんだ」
「そうなんですか?偶然みたいですね」
「本当だね」


柔和な笑みに乾いた心に潤いが満たされていく気がして、私は彼、氷室さんと会話を楽しんだ。そして話は、何故か、彼氏の話題になり……。


「そっか。君はその彼が初めてだけど、彼はそうじゃないのに悩んでるんだね」
「えっと、はい……すみません。何だか身内話で」
「いいよ。悩んで当然だと思うし。俺も、なまえちゃんと同意見だから」
「っそうですよね!やっぱり好きな人とは何事も自分が初めてがいいですよね!それって間違ってる考え方じゃないですよね?」


身を乗り出す様に氷室さんに近づくと彼は、少しだけ驚いていたけど、次第に笑みを宿し私の髪を優しく撫でてくれた。


「そうだね、なまえちゃんって、かわいい」
「ぁッ、えっと…その」


恥ずかしくなって椅子に座り直すと暫く頭を撫で続けられた。氷室さんは初対面なのに、お兄さんみたいでちょっと心が開放的になりすぎていた。階段を駆け上る靴音が響けば店内は少しだけざわつく。


「なまえ!」


その声に振り返ると黄瀬くんだった。私は立ち上がりいそいそと片付け始める。


「君の連れって彼?」


驚いたように呟く氷室さんに頷くと、どこか考え事でもしているかのように数分後。氷室さんは私のトレーを持つ手を制して、半ば強引にそのトレーを持ち、私の手を掴んだ。


「あのっ!」
「うん、ごめんね」


それだけしか言わない氷室さんに連れられて黄瀬くんの所まで行くと。黄瀬くんの視線は私の隣に居る氷室さんに釘付け。しかも手まで繋いでいるにも関わらず、黄瀬くんは何とも思ってない笑みを浮かべた。思わず、その反応に息を呑み。瞳に熱が集中した。


「あれ、確か紫っちの居る陽泉の先輩だったっスよね」
「そうだよ。覚えられて光栄だな」
「どうしたんスか、こんなところで」
「敦とここで待ち合わせててね。席が空いてなかったから相席の彼女と仲良くなって、ね?なまえちゃん」
「あ、はい……」


俯いていた私は僅かに顔を上げるが、黄瀬くんを視界に入れる事は出来なかった。


「そうなんスか」
「ああ、君の彼女を借りてすまなかったね」


爽やかにそう告げる氷室さんは、私と繋いだ手を黄瀬くんの眼前に曝した。それでも黄瀬くんは何とも思ってないように振る舞って、氷室さんと別れてからも「 遅くなってごめんね 」と言うだけで。何だか私は、急に、胸が冷えていった。黄瀬くんと繋いでいた手がだんだん滑り落ちていき、横断歩道の手前では既に手が離れていた。黄瀬くんはそれでも前に進む。私を置いて、前へ進むから、私は人の波にかき消される。


「なまえ?」


居ないことに気がついた黄瀬くんは辺りを見渡す。一個だけ跳び抜けた頭が私を見つけるが、横断歩道が私達の距離を測っていた。すぐに引き返そうとする黄瀬くんだったけど、青のランプが点滅する。彼が名前を呼ぶけれど、私は聞こえないフリをして顔を上げた。その瞬間。黄瀬くんの切羽詰まった顔が露わに成る。


「 ごめんなさい 」
「ッ、なまえ!ちょっと、すみません!どいてくださいっ、なまえ?!」


さようならを告げて私は彼の目の前から消えた。私ばかりが……余裕なんてない。だって、初めてなんだから………。

頬を伝う涙が、風に飛ばされた。