その日は目の前がぐらぐらした。
貧血だと医師に診断されたことがあるから、軽く目眩が起こっても「血液が足らんのか」程度であまり重々しく受け止めたことがない。
幼いときから丈夫に頑丈に育った私は、病に屈したことなどただの一度もなかった。
けれど、どうだろう?
20歳を過ぎたときから、仕事に携わるようになり、ストレスを身体に受け、負担を軽減させることもできなくなったら、人は……脆くも屈してしまうらしい。

「……はぁ、大将。布団で寝てな」
「いや、でも。この書類を片付けないと…」
「そんな焦点の合ってない眼で何を片付けるって?いいから俺っちの言うことに従ってくれ」

白衣の裾を揺らして薬研は髪をかきあげる。呆れられているとわかっていても譲れないものがある。提出物の期日は守らなければ、社会人としての勤め。まるで私はどこかの社蓄のようだった。
書類から手を離さずにしわだけを刻む。そんな私のなけなしの意志に薬研は長い息を吐き出した。

「大将がやらんでも長谷部の旦那あたりならやってくれるさ。だから大将は大人しくこっちだ」
「っ、」

黒い布に覆われた彼の手が私の手首を掴むと、力を込めて引き寄せられる。その引力と来たら外見とは想像もつかないほどの男らしさを実感してしまう。
薬研の腕の中に納まると書類は、ひょいっと取られて片腕で抱きこまれる。ジタバタと暴れても視界が揺れるだけで、私にしかダメージがふってこない。

「大将」
「ひゃっ」

耳元に唇を寄せられて、甘く囁かれる声と吐息に背筋にぞくりと駆け上がる。真っ赤な顔を隠すように肩口に埋めて抗議のうめき声をあげても、薬研は喉で笑うだけで、まるで私は子供みたいだ。
書類を適当に机の上に置いて、薬研は大人しくなった私の膝裏と脇腹に腕を通して軽々と抱き上げる。所謂、お姫様抱っこをされると、体のバランスを保つために薬研の体にしがみつくと気を善くしたのか、薬研の口調は何処か弾んでいた。

「いい子だ」
「うっ……、子供じゃないんですけど」
「まあ、そうだな。大将は立派な女性だな」
「なら女性のように扱っても、いいじゃん……」

頬を膨らませてふいっと視線を逸らす。こうなってしまってはもう仕事はさせてくれないので諦めたことは彼もわかっているけれど、まさか矛先が自分に向けられるとは露程思っていなかった、という顔つきだった。

「何にもわかってないな」

やれやれ、と薬研は首を左右に振る。何だか莫迦にされている気分に陥り「んだと」とやや喧嘩腰に薬研の瞳を見つめた。灰色の深淵はゆるりと波紋する。まるで深海のような彼の瞳に飲み込まれそうになる。

「俺はいつだって大将を女として見てるぜ。ただ今は勤務中だから抑えているだけだ。それが信用ならないってんなら、証明してもいい」
「え……、あ、いや…や、薬研サン?」

廊下をドカドカと足音をたてながら寝室に向う。片足で襖を器用に開けて、引きっぱなしの布団の上に私をゆっくりとおろした。すぐ上に薬研が手を着いては馬乗りに私を半ば押し倒すような姿勢でいる。居た堪れない気持ちが増幅していく私は、右往左往しながらもその深海に吸い寄せられる。柔らか気味に微笑まれるので、美人だと心臓が一鳴きした。

「どうした?熱でも上がったか?」

原因が判明しているというのに、それをわざと暈しながら問われるというのは、羞恥心を煽られるものなんだと今まさに経験していた。頬に熱が帯びて、視界には薬研が溢れる。香り、温度、布の擦れる音にすら心臓が過敏に反応して、もう爆発寸前だった。輪郭を確かめるように滑る薬研の指どおりに、耐え切れなくなり堅く目を閉じる。まるですっぱいものでも食したみたいにぎゅっと力を込める。そんな私に薬研はくすっと笑って弾んだ声が上からふってくる。

「俺が起こすまで寝てな」

額に少しだけ表面がざらついた皮膚が触れた。小さなリップノイズで唇だと解る。
薄っすらと瞼をあけると前髪から手をどける薬研の余裕のある笑みが見えた。そのまま頭を撫でられてかけ布団をかけられ、背を向けて薬研はその場から立ち去ることはせず、この場に留まった。
してやられてばかりで、何だか悔しく思うのに……何だか心地よい気分になってしまう。かけ布団を口元まで覆っては二、三度瞬きをして瞳を閉じた。