薄雲の切れ間に出逢えました。


端整な顔立ちの人の隣にはやはり同等の価値を持つ人が似合うと思う。

普段通りの練習風景を見るために、いや、彼という存在をその目に焼き付けるために今日も女子たちが歓声を巻き起こしその募る乙女心を抱えながら見つめる。その熱視線の先にいる男たちの中でそんな女子たちの気持ちを知ってか知らずか、愛想を振りまく男がいた。東堂尽八である。自他共に認めざる負えない美貌の持ち主。私も皮肉交じりに綺麗な顔立ちだと思う。棚の上に寝そべり、三階の文芸室から今日も眺めていた。あの中に混ざるなんてとてもじゃないが出来ない。自信がないのもあるが、多勢になんて思われたくない。まああんな勇気がないだけの女なだけで、伝えることも自分から動くことも出来ないただの負け犬根性で部室から眺めているだけだ。成就するなんて思っていないし、そもそもそんな妄想をしたこともない。甘い夢を見れる程、私は努力をしていない。

目の保養。目の保養ですよ。そうそう。これは私の疲れ目のために見ているだけの栄養補給なだけですよ。

言い訳だけが一丁前になってきていた。いいのいいの。平凡顔な私が名前すら同じクラスの男子に憶えてもらえないくらい陰湿だと陰口たたかれる程度の身分の私がそんな、シンデレラみたいな事望む訳ないじゃないか。阿呆だ。


「苗字。文集に載せる原稿だせ」
「はぁい」
「なに?お前また東堂みてたの?」
「まあ眼福するから」
「好きだね。女はみんなああいう男が好きなのかよ」
「まあ、顔が9割重要ですから」
「女なんて嫌いだ!」
「男だって見た目で決めるじゃん。同罪でしょ。こっちだけ悪いとか言わないでくれる?尻の穴の締まりがよさそうな男だね」
「ケツの穴の小さい野郎だなって罵って」
「また部長と副部長が言い合いしてる」
「早くまとめて帰りましょうよ」

部室が賑わっても、私の心はあのグラウンドに置き去りだった。





授業の合間の休憩時間。友人はトイレに行ってしまったので本を開き読み始める。
恋愛小説だが、一風変わっているとすればほぼ失恋ばかりを集めている短編集ってところだろうか。あまり理解出来ないけど。だって不倫とか浮気とか、そんなの失恋決定じゃないか。どうして他人のものを欲しがって自分が選ばれると期待するのだろう。期待を持たせる方も悪いが、そんな風に相手を大事に出来ない男に選ばれても嬉しくないと私は思う。そしてそれは自分のことのように思えてますます落ち込んだ。自虐的な趣味でも持ってたっけ。


「東堂くんよ」
「どうしたの東堂くん」
「すまんね。新開に用向きがあってな」


騒々しくなる教室内に明瞭に耳に届く単語。思わず反応してしまう。本を目線まで掲げて隙間から覗き込むと東堂くんがいた。うぅ……本当に綺麗だな。男かよ。再び本に沈み火照る頬を冷まそうと仰ぐ。東堂くんが新開くんを見つけるその右側の耳に全神経を集中させた。


「新開。すまんな、突然訪ねてしまって」
「どうした尽八。珍しいなおめさんが訪ねてくるなんて」
「古語辞書を忘れてしまってね。借りに来たのだ」
「悪いが尽八。俺は持ってないな」
「置き勉をしているお前が持っていない訳なかろう」
「実は靖友に貸しちまってね。因みに寿一のは寮にあるがここにはないぜ」
「なっ」
「宛てにならなくて悪いな」
「いいや、忘れた俺が悪いのだから気にしなくていい」


東堂くんが忘れ物をするなんて珍しい。古語辞書ならロッカーに置いているから貸せるけどでも。そんな考えを持っている女は大勢いる。委縮して文字を追うことにした。東堂くんならそこら辺の女に借りればいいんだから大丈夫。万事解決だね。よかったよかった。


「名前ちゃん」


近くにいた女子が声をかける寸前で新開くんの声が教室に反響した。
私の苗字は大勢いるが、その名前を所有しているのはこの学校で私だけだ。新開くんに呼ばれて驚きのあまり本を落とし、言葉を失う。そんな私の驚く顔を見ながら新開くんは続けた。


「尽八。彼女から借りるといい。確か持っているから、持ってるよね名前ちゃん」


も、ってはいるけどお願いだから私のファーストネームを呼ばないで。なんとも思っていない新開くんであっても心臓が驚いてしまうから。
落ちた本を拾いながら震える唇が言葉を告げる前に他の女子が続く。


「わたしの貸してあげるよ」
「そうだね。ミキから借りなよ。あの子、昨日古語辞書持ち帰っていたから持ってないよ」


うわぁ……そう来るか。自分をアピールするために蹴落としにきたか。獲得権を*ぎ取ろうとしてくる女たち。確かあの子達っていつも東堂くんの傍に行こうと陣取りしている子達だよね。所謂過激派か。うわぁ関わりたくない。


「実はもちか「すまないが貸してもらえるか」


東堂くんに言葉を遮られてしまう。ええ、うそぉ……瞬きを繰り返しながらその場は静けさに包まれる。女たちの刺すような嫉視に背中をぐさぐさ刺されながらそこまで言われてしまったら貸すしかこの場を収集できないと思い立ち上がりロッカーから辞書を取り出し東堂くんの目の前まで歩いた。


「あの…どうぞ」
「ありがとう。今日中に返しに行く」
「いえいえ、部活も忙しいと思うのでお気になさらず。今日は古文の授業はないので。お時間があるときで構いません」
「気遣い屋さんだな君は。困るのは君なんだ返しに行くよ。待っていてくれ」


東堂くんはそう言って教室から颯爽と出て行く。それとすれ違いに友人が戻ってきて「どうしたの」と事情を聴いてくるが何も答えられそうになくて唇に指先を乗せた。アカン……喋ってしまった。どうしよう。絶対にヤバイ。喋ったらダメだったのに。叫びだしそうな唇を押さえつけるように添えた指先。押し黙る私の前に影が差し覗き込まれる。この元凶を作り出した新開くんに。


「悪いね。苗字さんの名前を気軽に呼んじまって」


そっちかい。この際名前を呼ばれたことはどうでもいいんだよ。ああ、もうどうしよう!気持ちが溢れてしまうじゃないか。
両頬に手を添え熱を帯びるものを沈静化させる。視界が歪む所為で雲散できなくても。
心臓が痛い。肉を掻き分けて薄い皮膚を破って零れ落ちてしまいそうになる。そんな気持ちを押し殺していたのに、こんな単純に崩壊してしまう。あんな日常的なやり取りだけで私にはあまりの幸福すぎて心臓止まりそう。


「苗字さんってかわいいな」
「新開くん。お願いだから口を閉じて。これ以上は耐えられないからこの嫉妬に」
「ああ、悪い。何かあれば言ってくれ。何とかしてみるよ」


新開くんは席に戻る。薄っすらと瞳の端に溜まった涙を拭いながら席に戻る。落とした本にしおりを挟むがある一文に目が留まった。

“巻き戻せるものならそうしている。感情に待ったなんて出来ないのに私はいつも待ったと言ってしまうんだ。彼が私の元から去ったあとでも”

本当にそうだね。






「あの女ほんとっ地味な癖に」
「わかる。ミキの方が可愛いよね。数百倍」
「あいつ男になんて言われてるか知ってる?根暗女だよ?」
「うわあまんまじゃん」
「パッとしないし可愛い訳でもないのに譲れっての」


まあ、こうなるわな。教室で待ってようかと思ったけどやめておこう。火種になるだけだ。教室を通り過ぎ、職員室から借りていた部室の鍵で開ける。今日は部活ではないけど忘れ物をしたと言えば顧問は快く鍵を貸してくれた。扉を閉めて窓へと向かう。

窓を開けて下を覗き込むと練習風景が視界に広がる。今日も激しい練習を繰り返している。そしてこの歓声もまた繰り返している。こんなに忙しいのだから返しに来れる訳ないか。期待してしまったが、それが半分だけでよかった。そんな無理に返しに来るものではない。辞書だ。単なる。辞書。いつでもいいさ。そんなもの。彼の練習を妨げる程の用事ではない。

窓際に設置してある棚の上に乗り膝を抱えて頬を寄せる。緋色が差し込む。それが眩しくて目を刺激するから頬を伝う。
世界が綺麗だと私は惨めだ。彼が綺麗だと私は醜い。鼻水が零れそうになってすする。ポタポタと重力に従って水滴をスカートが呑み込む。
廊下を駆ける音がした。廊下を走ることは禁止されているのに堂々とした音だ。見回りの先生もいないからかもしれないけど。僅かな息遣いと共にどんどん迫ってきていた。こちらに用でもあるのだろうか。角だけど。ぼんやりとそう思っていると遠慮なく扉が開閉された。


「苗字さん!」


突如苗字を呼ばれて驚いて顔を上げる。滲む視界の奥に誰かがいた。彼の声にそっくりだけどそんなまさか。と思ったけど呼吸を乱しながら男は近寄り目の端に溜まっている水滴を指先で拭う。片方だけクリアになった瞳に映ったのは、彼そのものだった。


「と、ぅどうくんっ」
「苗字さん。気にするな。あんな人を蔑むことしか出来ない人間の言葉などに君が涙を流す必要などない。君が傷つく必要などないのだ。君の優しいところを、親切なところを、可愛らしいところを知らぬような、見えぬようなそんな奴らの言葉に翻弄されることはないんだ。君は綺麗だ。三年間、君を想っている俺が言うのだ。君は素敵な人だ。誰よりも美しい人だ」


東堂くんの穏やかな瞳が語りかけてくる。彼の優しい声が耳に届いてくる。顎に伝う汗が床に落ちていく最中、東堂くんは夕日に負けないくらいの色味を映していた。何も言葉が出てこなくて、代わりに感情の籠った涙が止めどなく溢れ、流れ、伝っていく。言いたいのに言葉が出てこない。膨大な感情が、歓喜が、心を震わせて唇が言葉を忘れてしまったみたいに戦慄くだけ。そんな私を東堂くんは涙を拭いながら待ってくれていた。


「ぅ…ぅす……きぃ……すっ……す、き……すき………!」


馬鹿みたいにそんな言葉しか出てこなくて。お礼が言いたいのに私もあなたと出会ってからずっと好きでした、とかもっと気の利いた返しがしたかったのにそんな事言えなくて拙くて幼稚で、情けない程に酷い告白だった。なのに東堂くんは背中に腕を回して抱きしめて。


「俺も好きだ。君が好きだ。本当にっ本当なんだな!俺はずっと君だけが好きだったんだが、本当にっ三年間君だけだったんだ。だが君も、そうだったと。俺だけだったと思っていいんだな。そう受け取っていいんだな。もう返却出来ないぞ。俺は耳が良いんだ。記憶力がいいんだ。今日という日を刻み付けて離す事なんてしないぞ。本当にっ好きなんだ。君も俺を好きだなんて最高だ!こんな素晴らしい日があったなんて知らなかった。ほんとっに……俺は最高に、嬉しいぞ。ありがとう……ありがとう。俺を好きになってくれて」


歓喜に震えている彼の声に、私は彼の早鐘を鳴らす服を掴んだ。ああ、東堂くん。ごめんなさい。私は肝心な事を忘れていたね。君だって私と同じ、恋に臆する男の子だったんだね。
こんな奇跡みたいな事私に降りかかるなんて思ってもみなかった。一生分の運を使い果たしてもいい。私を見つけてくれてありがとう。









「東堂さん遅くないですか?」
「まあ…今日だけは見逃してやってくれ。尽八も漸く勇気出したからな」
「女の子にチヤホヤされてんのにここぞってときはヘタレだよナァ。相手に同情するぜ」
「へえ……東堂さんの好きな人ってどんな感じの人なんです?」
「可愛かったよ。自分の気持ちに正直で」
「へぇ―じゃあ今度見に行くか」
「いいですね。荒北さん。その時は俺も同行しますよ」
「愛されてるな尽八」
「いや、それはどうなんでしょう新開さん。物見遊山って感じでは」
「何の話をしているんだ」
「寿一にはまだ遠い春の話さ」