いってきますと伝えたくて


インターハイ三日目。一日目からもう涙腺はボロボロだった。それでもまだ閉まっていたけれどもういいよね。そう思うと決壊するみたいに涙が溢れた。
幼稚みたいに泣く私を見て巻ちゃんは「鼻水まで垂れるショ」と笑っていたけど彼に勢いよく抱き着き地面に押し倒した。


「ちょっ!俺、今お前を支えられねえのに…しかも汗だくでお前も濡れちまうショ」
「泣かせろぉおおっばかあああ!!我慢したんだからいっぱい泣かせろぉぉおお!!」
「あーはいはい」


お祝いの言葉を永遠に口をついたけどそれ以上に私はその意味を知らずに馬鹿みたいに「ありがとう」なんて言い続けていた。本当に。馬鹿みたいに。それしか言えない人形のように。その言葉を繰り返した。でも本心だ。意味の深さを知らずともその言葉は本心だったんだ。
でもね……このしょっぱい味は他にも含まれていたんだよ。





暫くして巻ちゃんの海外留学が知らされる。表面上では驚く演技をしたけど坂道くんみたいに素直になれたらよかったな。でもそんな勇気なかった。距離が全てを物語ることもある。六年間も共に過ごしたのだからそれは猶更だ。我慢など出来ない。きっと距離の所為にして酷い醜態をさらしてしまう。なら友達のままでいよう。それなら別に連絡を頻繁しなくとも、携帯を気にすることもないだろう。

君を中心に回る世界などやはり、私には覚悟がないよ。

図書館で自分の受験勉強をしていると「前をいいかね」と尋ねられ「どうぞ」と勧めた視線の先に東堂くんがいた。少し驚く。椅子を引き向かい側に座った東堂くんは何処か怒っているような雰囲気で肘をつくと身体を斜めにして、こちらを見ずに口を開いた。


「巻ちゃんが留学すると聞いた。君はこんなところに居ていいのかね?」
「凄いよね。ずっと行きたがっていたんだって。私なんて海外って聞いておっかなびっくりだよ。とてもじゃないけど行けないかな」
「事情もあるし、己の意思だけで行ける場所でもないからその辺りは責めるつもりはないが。名前ちゃんはそれでいいのか?本当に後悔はしないか?」
「東堂くん。私は誰かの将来まで背負える自信ないよ。自分の事で手一杯な人間なんだよ」
「そんなものは普通だよ。名前ちゃん。普通だ。俺だってそうだ。だが名前ちゃん。感情というものはあまり押さえつけるものではないのだよ。少しは吐き出してもいいのではないか?この東堂が聞いててあげよう」
「ええー?東堂くんは軽薄なんだから。誰にでもそんな事言うんでしょ?優しいと下心はイコールで繋げちゃダメなんだよ………っ」


言葉にしない代わりに頬に一滴が流れた。どちらも抑え込むなんて出来ないんだな。つつくなんて酷いや東堂くん。どうにもならない事なんてこの世には幾らでも蔓延っている。こんな些細な事で一々反応するなんて馬鹿みたいだ。額に掌を乗せて顔を隠す。鎖骨まで切った髪が顔にかかる。ああ、こんなものは後悔だ。思い出が酷く痛めつけてくる。それでも手放せない。なかったことにしたくない。抱え込めばこむほど溺れていく。沈んでいく。どんなにもがいても水面にたどり着くことができなくて…また溺れる。


「さぁ…しぃ……さみ、しい……!」


言葉にしてしまえば簡単な事なんだ。心にもうすぐ開いてしまう空洞に怯えた。ふわりと髪に触れ、頭皮に接触する温かな感触。巻ちゃんとは違う少し肉のついた指が頭を撫でる。


「ああ、そうだな。俺もさみしい」


東堂くんがそう呟きながら落ち着くまで頭を撫でられ続けた。





見送られるのは性に合わない、と彼は言った。だから私は峰ヶ山の山頂にいた。空を眺める。澄み切った空気と青空に腕を伸ばすと、ここまで連れて来てくれた東堂くんもまた空を見上げていた。


「本当に忍者みたいだった」
「その異名で呼ぶのはよしてくれ。眠れる美形とか山神とか」
「山伏?」
「や・ま・が・み!にしても名前ちゃんもバイクを持っていたのは驚きだ」
「いや、これ巻ちゃんから誕生日プレゼントに貰ったんだ。でも私はあまり乗らなかったんだけど」
「ほお……(巻ちゃん。意味が通じていないみたいだぞ)」
「そろそろかな」


時刻を確認していると携帯が震えた。ディスプレイに表示された相手の名前に少し驚く。肩口から東堂くんに覗かれ「出てはどうだ」と勧められる。いや、まあ出ますけど。通話ボタンを押して耳に当てると歯切れの悪い巻ちゃんの声が聞こえた。


「 よぉ…その、なにしてる? 」
「電話をかけておいて世間話?今日は旅立ちではないのかな巻ちゃん」
「 人が折角流れを作ろうとしているのに壊すなショ 」
「今更流れなんて気にするの?変な巻ちゃん。緊張しているの?」
「 そうだな。緊張してるんだと思う……お前に電話するなんて、本当はする気なかったショ。でも……声、聴きたくなっちまったんだから仕方ないショ。悪いな 」
「ずるくない?巻ちゃんは本当に後出しじゃんけんがすきだよね。見送りいらないって言ったくせに声が聴きたいなんて我儘だね」
「 自覚はしてるショ……ああ…その 」


口ごもり決めかねているような巻ちゃんの様子がわかる。どうしたの?と尋ねようとしたところで携帯をするりと東堂くんに取られてしまった。


「やあやあ巻ちゃん。まだ空港かね?搭乗手続きは済んだのだろう?電話などかけてどうしたのだい。心残りでもあるのか?」
「 東堂が何でいるんショ 」


東堂くんは私に「少し借りる」と耳元で囁き、私から距離を取る。内緒話をするほどのことだろうか?と思いながら新鮮な空気を吸いながら天気がいいなとのんびりすることにした。


「何でと言われてもつまり巻ちゃん。己の道を選べばこういう事もあるとわかっていただろう?それが少々早まっただけであって特段驚くことはないだろう。巻ちゃん。もしや何か勘違いをしてはいるまいな。山神は欲しいものは必ず手に入れるのだよ」
「 初恋を拗らせてるヤツが何言ってんショ。お前に手を出す勇気はないショこのヘタレ 」
「まままま巻ちゃんっ!?ヘタレではないぞ!!断じて!!現に今共にロードで峰ヶ山の山頂までサイクリングをしてきたところだ!!」
「 ……あ゛あ゛? 」
「ドスが聞きすぎだぞ巻ちゃん。何処かの素行不良青年を思い出したではないか」
「 何勝手に連れ出して距離を縮めてんだ東堂(ヘタレ) 」
「俺の名前のルビをヘタレと読むのはやめないか!しかしだな巻ちゃん。俺は思うのだ。ここで言わないのは聊か卑怯ではないか?とな」
「 ……わかってるショ。代わってくれ 」
「好敵手の背中を押す俺もかっこいいな!」
「 いいから代われ 」


東堂くんが高笑いをしながらこちらに振り向き私に携帯を差し出す。耳を指先でさしながら笑う東堂くんの誘導のまま携帯を耳に当てると「名前」と名前を呼ばれる。思わず赤面してしまった。


「な、なんですか」
「 何で敬語? 」
「ちょっと不意打ちアッパーをくらったからかな」
「 はあ?ったくお前は表現が面白い奴ショ……行ってくる 」
「え?」
「 だからァ!行ってくるって言ってるっショ!!意味くらい解れ 」


行ってくるって……返す言葉はえっと……そこで再び私は顔中に熱が集中してしまった。ぐわって一気に温度が上がってしまったから足元がふらついてしまう。でも手すりにつかまり踏み止まる。心臓の音が五月蠅くて息遣いが聞こえない。待ってくれている君の為に絞り出した声で叫んだ。


「いってらっしゃい」


そう言うとあのニヤけた笑い声が耳に届く。ふと浮かぶ巻ちゃんの顔に私もつられて笑う。
電話は切れてしまった。それはお互い同時だったと思う。空を見上げてあの雲の先に彼は行ってしまったのだ。でも置いて行かれたと思うまでには至らなく、受け取ったあの言葉と共に送り出した言葉の通りここで待っているよ。巻ちゃん。


「むむむ…巻ちゃんメ。我が好敵手なだけあって中々に手強いな。だがそうでなくてはな。俺が唯一認めた好敵手なのだから」