水を愛せ


今度の演劇部の演目は『 人魚姫 』を現代風にアレンジした題材を使用してという部長の命の元。橘くんにプールサイドへ入る許可を得て、私は参考にしようと水泳部の練習中のこの時間にお邪魔する事になった。
メモ帳とペンを片手に邪魔にならない場所へ移動しながらそこで、彼らの練習風景を眺めていた。水飛沫が太陽の光に反射して煌びやかに輝くその雫にでさえ、心が躍った。やっぱり水は必須かもしれない。水槽とか借りられないかな?
メモを取りながら人魚姫に会う様な構図や構成を練っていた。そんな風に走り書きをしていると、泳いでいた橘くんがプールサイドへ上がり、濡れた雫を垂らしながらこちらへやってきた。


「苗字さん、来てたんだね」
「お邪魔してます。今日はありがとう橘くん。練習で忙しいのに見学なんて…なるべく邪魔をしないように気をつけます」


ビシっと敬礼をすると橘くんは、穏やかに微笑んだ。


「別に大丈夫だよ。それに邪魔なんてするような人じゃないでしょ?」
「……ありがとう」


こちらも笑みで返して、持っていたフェイスタオルで橘くんの流れるカルキの水と汗の交った雫を拭った。


「水分補給しないと駄目だね」
「っ……、うん、ありがとう。あ、でもタオル濡らしちゃったね」
「いいよ。これよかったら使って?」
「……、ありがとう。じゃあちょっと待ってて!」


差し出したタオルを受け取ってくれた橘くんはそのタオルを丁寧に持ちながら、別の方向へと向かって行ってしまう。紳士的な橘くんの後姿を眺めながら、王子役にぴったりだと想像しながらメモ帳に走り書きをする。理想の王子像が出来上がる中。練習を続けていた七瀬くんの泳ぎが視界に入った。彼の泳ぎはまるで人魚のようで、瞳が揺れる。

水の中を自由に泳ぐ、人魚姫。陸に恋焦がれながらも水の中を楽しむ。だけど、ある日溺れている王子を見つけて助けてあげるために陸に上がった彼女は、運命を感じたのだろうか?それは幸せの運命?それとも不幸の始まり?彼女にとってこの結末は幸せへ続くための布石だったのだろうか……。


「はあ」


この題材を指定された時、正直戸惑った。これは完全なる悲恋だ。この人魚姫には悲恋の淡い恋の行方を見せ場としているのだから、やはりオリジナルがいくら介入されたとしても王子との決別は欠かせない用途となる。

気が重い……。現実でだって恋を叶えられる確率は低いと言うのに……。

好きな人に好きな人がいて、それを近くから見守りながらひっそりと死んでいく彼女は、そんな結末だと知っても、王子に恋をするのだろうか?
ぼんやりと、七瀬くんが自由に泳ぐそのプールの波を見つめていた。澄みきった水の透明感が何故だかひっそりと泣きだした子供のような姿を見せられている気分になった。
止まったペン先に影が出来る。見上げる途中で私の頭上からタオルが緩やかに降りてくる。そこからふんわりと香ってきた柔軟剤の匂いは、花が綻ぶような香りだった。


「あんまり太陽の下に居ると熱中症になるよ?」


気をつけて、と橘くんは内緒話でもするかのように小首を傾げて私の頬を掠めた。


「俺が君のタオル使っちゃったから、俺の代わりに使って」
「そのために取りに戻ってたの?」
「うん」
「ありが…って、結局邪魔してるね。ごめんなさい」
「ああ!いいよ!これは俺が勝手に行動してるだけなんだからっ。苗字さんは気にしなくていいよ?」


王子様が笑う。優しい言葉をかけて、人魚を翻弄させる。助けてくれてありがとう。感謝の気持ちが彼女の心を縛っては外さない鎖となって、甘い蔓に絡みつかれる。


「……酷い人」
「え?」
「ッ!?なんでもない。から……橘くんも早く練習に戻って!七瀬くん辺りに怒られちゃうよ?」
「あ、ああ……うん」


腑に落ちない感じで橘くんは戻っていく。その後で軽い溜息を溢した。妄想と現実がリンクしてきている事が私の脳内を危うくさせている気がする。熱中症になったのかな……?
頭にかぶさっているタオルに指先を伸ばして、少しだけ掴む。そろそろ帰ろう……。設定も構成もなんとなくだけどイメージが湧いたからと様々な理由をつけて、この場を速く去りたかった。立ち上がり帰ろうと黍しを翻した所で、声が聴こえた。


「苗字」


小さな囁きにも似たその声に私は導かれるように振り返る。すると、端まで来ていた七瀬くんが私を手招きする。何が何でもプールから出ない辺り徹底しているなと思いながらクスリと笑ってプールサイドまで歩みを進めて腰を屈める。


「今日はありがとう。邪魔しちゃってごめんなさい」
「別に邪魔じゃない。それより苗字」


そう言ってまた手招きをする。もっと屈めと言いたいのだろうかと思い、手に抱えていたノートやペン、橘くんから借りたタオルを濡れない位置に置いてから声が聴こえるように身を屈ませて七瀬くんの方に耳を傾ける。すると、七瀬くんは水の含んだ腕を水面から出して、そのまま私の腕を掴み。


「っ?!」


息を呑みこむと同時に、私は強い力に引き寄せられてプールの中へと落下した。
沢山の水飛沫と泡が私の視界を暗くさせる中、七瀬くんの逞しい腕が私を抱えて、支えてくれる。そして、その力強い引力によって引き上げられる。


「ぷはっ!」
「大丈夫か?」
「これが大丈夫視えるなら、眼鏡を奨めるよ?」


笑みを浮かべて嫌味を言えば、七瀬くんは大丈夫そうだなという表情をした。それでも、私の腰を支える腕は解かれなかった。


「何でプールになんて……」


制服がびしょ濡れになったこの悲惨な状況を嘆きながら、理由を問い詰めると。七瀬くんは少し考えながら、プールサイドへと視線を走らせる。気になって後ろへ視線だけを投げると、そこには私が濡れないようにと置いたノートとペン、それから…橘くんが貸してくれたタオルが置いてあった。


「特に理由なんてない」
「ないのに、落としたんかい」
「ただ……」
「ただ?」
「……飛び込まなければ何も知れなかった、と思って」
「……それって」
「……うるさい。上がれ」


七瀬くんは恥ずかしそうにそっぽ向いた。頬を少しだけ紅潮させて。だけど、七瀬くんの言いたかった言葉は私があの時、人魚姫に問うていた答えだったことに何だか、安心してしまった。


「大丈夫苗字さん!!?」
「ずぶ濡れになっちゃったね名前ちゃん」


橘くんが慌てる中、葉月くんは笑いながら「 お揃いだね 」とか言って手を取られる。服が水気を含んで重たい中、苦笑しか生まれなかった。


「渚」
「なにぃー?ハルちゃん?羨ましいの?」
「だまれ」
「こんなに濡らしちゃって…ハルちゃんって本当にムッツリだよね」
「うるさい」


そう言って七瀬くんが近くに置いてあった七瀬くんのタオルを私の肩にかける。それを不思議に思って居れば、葉月くんが私の胸元を指さすのでそちらへ視線を向ければ、急いでタオルを前に這わせて隠した。顔中が赤くなる。
二人の視界に入っていることでさえ、今は羞恥心しか生まれず居た堪れない気持ちになり、私は彼らの視界から外れようと背を向ける。そこへ橘くんが大きめなタオルを持ってやってくる。


「これ、俺のバスタオルだけどまだ使ってないからよかったら使って」
「ありがとう…橘くん」


恥ずかしくて死にそうな程真っ赤になった私は、橘くんが差し出してくれるバスタオルに手を伸ばすと、背後から大きなタオル生地に覆われた。その生地から香ってくる家庭的な香りにそれが誰のだかすぐに見当がついた。


「俺が貸すから真琴は自分に使え。それから服も俺が用意するから何もしなくていい」


捲し立てるようなその言い方に、この場にいた皆は驚きを隠せない。水色のタオルから顔だけを出せた私は肩に腕を回されてそのまま七瀬くんに連れ出される。
何も出て来なかった。何の言葉も出て来なくて……私は、ひっそりと微笑む。ああ、人魚姫もこんな気持ちだったのかもしれない。出会った事を後悔するのではなく、この一瞬一瞬の時間を幸せに思ったのかも、しれない……。
そうしたら、人魚姫の噺も案外素敵な恋物語に思えてきて、私は七瀬くんにお礼を言った。


「ありがとう、人魚さん」


そう言ったら、七瀬くんは顔を顰めて肩に回した腕に力を込めて「 急いで歩け 」と急かされた。