ゼミ 休講 連絡


「ーーってことで今日のゼミは休講です。急な話でごめんね。……悪いのは先生なんだけど。
 今日提出予定だった前回の発表のレポートは先生の研究室棟のポストに。お願いね」

 五月の半ば。すっかり花の季節から葉の季節になった。いつものゼミの教室に集まった三年生に名前が話す。きちんと三年生のゼミ生は五人とも出席しているというのに今日のゼミは突然休講になった。名前の言葉が終わると三年生達はそれぞれ顔を見合わせる。

「……レポート、誰か代表で出しに行けばいいんじゃねぇ?」
「そーだよな。……大倶利伽羅、頼める? 俺たちこの後ちょっと用事があってさぁ」
「あ、じゃあ私たちのもお願い!」
「待て、どうして俺が」

顔をしかめて反論しようとする大倶利伽羅の前にレポートが次々と置かれていく。突然休講になった時間に用事なんて嘘に決まっているのだが。名前は事態を静観している。教室の窓の外には爽やかな色の花々と青々と伸びる草木。今日は無風らしい。

「頼むよ! どっちみちお前も提出しに行くんだからいいだろ。またなにか奢るって! それじゃ、また来週な!」
「ごめんね、またね!」

逃げるように連れ立って出て行く後輩たちの姿に名前は呆れた顔を浮かべる。予定より早く訪れた週末を少しでも早く満喫しようとする三年生達は名前に笑顔で別れを告げて教室を飛び出していく。

 そして教室に残ったのは積まれたレポートの小山と大倶利伽羅、そして小さくため息を吐いた名前だった。

「慣れ合わないから、面倒ごと押し付けられるんだよ」
「……うるさい」

憮然とした表情のまま椅子に座っている大倶利伽羅を気にする様子もなく、名前は彼の前に歩み寄ると乱雑に積まれたレポートを集めてトントンと整えた。そしてそのままレポートの束を抱える。

「これ、私が出してきてあげるから。大倶利伽羅くんも帰っていいよ」

くるりと大倶利伽羅に背を向けて教室を出ようと足を進める名前の背後で椅子の引かれる音がした。

「いい。俺が提出する」
「でも、」

長い足の大きな歩幅で近づいた大倶利伽羅が名前からレポートを奪い取り、彼女の言葉を聞かないままに教室を出ていく。慌てて名前もその背を追って教室を出る。

「ちょっと、ちょっと待って、私が行くよ。図書館に本を返しに行くつもりにしてたし、ついでだから」

名前が大倶利伽羅の隣に並べば歩調を合わせるように歩幅が少し小さくなった。ムスッとした表情の横顔を見上げながら、無愛想でとっつきにくいけど悪い子ではないんだろう、と名前が心中でそっと微笑む。

「研究室棟と図書館はさして近くもないだろう。あんたこそ付いてこなくていい」
「そんな言い方ないでしょう。研究室のポストの場所、わかりにくいんだから」

あとで私がいなくて泣くのは大倶利伽羅くんだよ、と名前は隣の可愛くない後輩の顔を覗き込む。大倶利伽羅は一瞬だけ名前に目を向けるもすぐに前に視線を戻し、「泣くか」と小さく言い返す。付いてくるなと言わないところを見ると同行することは許してくれているらしい。二人は並んで中庭へ出た。研究室棟へ繋がる小道を歩いていく。時間は授業中ということもあり、人影は少ない。爽やかな風が一陣だけ吹き抜けていった。




「せんせ、なんてメールしてきたと思う? 『どうせお前は出席なんだろう。ほかの四年にはメールしたが三年にはお前から伝えてくれ。頼んだ』って。なにが『頼んだ』よね。三年生に一括でメールすればいいのに面倒になったのバレバレだよ。適当すぎる」

 研究室へ向かいながら名前が一方的に大倶利伽羅に話す。教室から研究室棟まで少し距離があるのだ。合間合間に小さく短い相づちがあるため、聞き流されてはいないらしい。

「あんたがあいつのSAだからだろう」

大倶利伽羅にしては珍しく長い相づちが打たれて、先程まで愚痴をこぼしていた名前は少し気をよくする。中庭の小道から校門から研究室棟へ向かう大きな道へ進み、二つ目の別れ道を曲がる。大きな柏の木が傘のよう枝を伸ばす下を抜けると研究室棟はもうすぐそこだ。

「まあそうなんだろうけど」
「あいつの研究室に入り浸ってるんだろ」
「『入り浸って』って……うーん、確かによくせんせのところにはいるけどSA業務のためだよ。……いやでもSAというか、お茶汲み係が待機してるくらいに思われてるかも……。
 でも他のゼミ生へのメールはきちんとしてるのにSA相手だからって雑な感じのメールはどうなのって、……あ! 待って待って!」

 研究室棟の扉をくぐり、四階にある研究室へ向かうためにホールの中心にあるエレベーターへ向かおうとする大倶利伽羅の服の背を引いて名前が引き止める。引かれるまま足を止め振り向いた大倶利伽羅に、名前はエントランスの脇を指さす。そこには柱の陰に隠れるようにしてマンションにあるようなポストがひっそりと並んでいる。

「ほら、各研究室にポストがあったら郵便物を配達するの大変でしょ? ……でもなかなかみんな気づかないんだよね。この棟に用があるときって研究室くらいだから、みんな研究室に直行しちゃうのかな」

確かにこれは一人で提出に来ていたら研究室までの上り下りが無駄足になっていただろう、と大倶利伽羅は納得する。名前は慣れた様子で“鶯丸友成”と書かれたポストの口を指先で開いた。

「さ、入れちゃって」
「ああ。……あんたは慣れてるんだな」

レポートの束をポストに入れながら拗ね言のようなことが口から滑り落ちる。言うつもりのなかった言葉に大倶利伽羅はハッと口を押さえ、眉間に皺を寄せた。それに気づいた様子もなく名前は笑って答える。

「まあね。せんせに郵便物の回収を命じられたりしてるから。……でも最初はどこにポストがあるのか知らなくて、私も先輩に教えてもらったんだよ」

その時のことを思い出しているのか名前は遠くに投げた視線を楽しげに和らげた。仕切り直すように大倶利伽羅が小さく咳払いをする。眉間の皺はまだ寄ったままだ。



「さ、帰ろっか。私は図書館に寄るけど、大倶利伽羅くんはどうするの?」

あんたには関係ないと突っぱねられるだろうと思いながらも名前は尋ねる。研究室棟のホールには二人だけだ。

「……あんたについて行ってやる」
「え?」

せいぜい良くてこの後の行動を教えてもらえるくらいか、と予想していたが、予想よりも遥かに優しい答えが返ってきて名前はぽかんと大倶利伽羅を見上げることになった。見上げた表情は冗談を言っているようには見えない。名前をじっと見返してくる視線は無愛想だがまっすぐだ。

「俺の用に付き合ってもらったからな。……返却する本があるんだろう」

言いながら大倶利伽羅が手を出す。まさか手を繋ごうというわけではないだろう。その意図がわからず大倶利伽羅の手と顔を見比べる名前に痺れを切らしたように大倶利伽羅が口を開く。

「本を出せ」
「え、ああ、本……。いや、本くらい持てるよ、今までずっと持ってたわけだし」
「いいから出せ」

少し苛立ちの混ざったような声音に名前は仕方なく返却予定の新書を一冊、鞄から取り出して渡す。

「じゃ、行こうーー」
「待て。一冊じゃないだろう」
「……えっと」
「あんたが図書館で本を一冊しか借りてないとは思えない。いつもゼミにも本を抱えてきているだろう」
「う……」

確かにゼミの内容に関係のありそうな本を借りていったことは何度かある……いや、毎回だっただろうか? ゼミで鶯丸に名前が図書館ハードユーザーであることを冗談めかして話された記憶もある。そして大倶利伽羅の指摘の通り、返却する本は一冊ではない。

 つまり、大倶利伽羅は図書館内まで同行してくれるようなので、ここで偽り続けたとしてもいずれはバレるのだ。

「……はい」

諦めて本を渡す。分厚い専門書が二冊、ハードカバーが一冊、そして新書がさらに二冊。

「これで全部か」

ひょいひょいと受け取りながら大倶利伽羅は静かな声で尋ねた。鞄の内容量の半分以上を占めていた大量の本を彼は軽々と持っている。

「さすがにそれで全部です……。ごめんね、重いでしょう。私も持つよ」
「問題ない。行くぞ」

軽々と持っている、ように見えるがその重量は先ほどまで持っていた名前自身がよく分かっている。大倶利伽羅に言われて渡したとは言え、さすがに申し訳ないと名前が本に手を伸ばすもそれを避けるようにスタスタと大倶利伽羅が歩き出した。

「あっ、待ってよ!」

名前が大倶利伽羅を追えばすぐに追いつくように歩調を緩めてくれる。本を渡してくれる気はなさそうだ。
やっぱり大倶利伽羅くんは優しい。柏の柔らかな青い葉が二人の上に木漏れ日を落としていた。


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