金曜 お昼休み


 じりじりと照りつける夏の日差し。七月も半ばに差し掛かり、大学生は数週間後の夏休みを心の糧に、授業ごとに提示されては積み上がっていく期末の課題に取り組んでいる。

「うわーん! 名前せんぱーい!」

 二限目の終わりを告げる鐘まであと少し。今日の二限目のゼミは発表と質疑応答が授業時間よりも早く終わったのだ。今日のお昼はせんせに誘われてないしSAの仕事もないしどうしようかな、と時計を見つめていた名前の元へ三年生の女子生徒二人が詰め寄る。

「おお、すごい勢いだけど、どうしたの?」

泣きつくような勢いの後輩に達に苦笑しつつ、名前は話を促す。彼女たちの話とは、昨年に名前が履修していた授業の期末テストについてだった。

「先輩、確か履修してらっしゃいましたよね?」
「お願いします! 過去問、見せてもらえませんか?」
「過去問ね。もちろん構わないよ。あの先生、今も『過去問の通り出題する』って言ってるんだね」

 名前の脳裏に昨年の授業風景が蘇る。教鞭を執るのは期末テストは過去問を何年も使い回していると有名な教授だ。名前も別の授業で知り合った先輩から過去問を教えてもらった。

「言いました! 先輩の時もですか?」
「今週になって『大学はコネを作る練習をする場でもある』なんて言って!」

憤慨する後輩たちは口々に文句を言っている。彼女たちはどうやら過去問を使い回すという噂を聞かずに履修したらしい。その教授の言うことももっともだが、せめて初回の授業で伝えておくべきだとも名前は思う。テストも目前に迫ってから突然言い出すのは何も知らない生徒には酷だ。

「まあまあ。過去問持ってくるよ。いつなら会えそうかな。来週のゼミで渡すより、少しでも早く渡した方がいいよね?」
「いいんですかっ!」
「助かります……!」

 スケジュール帳と時間割とを見比べながら会う場所と日時を決める。「フル単狙ってたので本当に助かりました」と力強く拳を握った彼女らは昼食をとるために教室を出て行った。それを見送り、名前が再び時計を見上げたところで鐘が鳴る。お昼休みだ。図書館か静かな空き教室で本でも読もう、と名前は荷物をまとめかける。教室内には先程出て行った後輩二人以外の三年生と鶯丸、それから四年生が二人ーー名前と三限目に発表予定の男子の二人が残っている。校舎内とは言え、空調のよく効いた教室から用もなく廊下へ出るのも嫌になるような暑さだ。残っているゼミ生はこのままこの教室で昼食をとるのかもしれない。

「……なんですか」
「いや?」

 ふと視線を感じて横を向けば鶯丸が名前を面白そうに見ている。無意識に少し唇を尖らせる名前が問うも、鶯丸は答えないまま表情を変えずにいる。そんな彼を視線で問い詰めようとする名前に、

「なぁ名前、」
「ん? なに?」

隣から声がかかる。珍しく二限目から出席している同期のーー先日とは別の男子だ。

「名前さ、他学部の授業ってなに取ってた?」
「他学部の? いろいろ取ったよ、えっとねー……」
「いろいろって……。二つじゃなくて?」

 この大学では教養や見識を広げるため、他学部の単位を最低授業二つ分取らなければならない。多くの生徒にとって他学部の内容はさほど興味のあるものではないため、最低限の数しか履修しない。たとえ興味があったとしても、自分の学部内の授業で取らなければならない単位だってたくさんある。同期の男子は小さく「さすが知識ジャンキー……」と呟いた。

「そういや名前って体育もずっととってたよな……。体育の単位って一年の必修の分以外必要ないのに」
「それはそうなんだけど、楽しいから。ちなみに今期もとってるし、後期もとる予定にしてるよ」
「ちなみに?」
「去年は合気道と薙刀。今年はゴルフと、後期はまだ悩み中。授業って言っても軽い遊びみたいな感じだから気分転換になるよ。授業によっては女子も男子も混ざってやってるのもあるし。後期一緒にどう?」
「卒論の進捗次第だけど、考えとく。……じゃなくて!」
「ああ、他学部のだっけ」

えっとね、と名前が指折り履修した授業を羅列していく。

「ーー以上七つかな」
「名前、いや名前様!」
「うわっびっくりした」

名前の手を同期の男子がガシッと握る。先程の後輩と同じ雰囲気だ。そんな名前の予想の通り、

「どんな感じのテストだったか教えてくれ……!」
「他学部だから、テストの点数そんな関係ないと思うよ……?!」

 専門にするわけではないため、実は他学部のテストの合否ラインというのはとてもゆるいのだ。テストで三割以下の点数でもちゃんと出席さえしていれば単位がもらえるなんて噂のある授業さえある。呆れる名前に、予想していなかったところからも声が上がる。

「名前先輩!」
「き、きみたちも?」

教室でパンをかじっていた三年生の男子二人も立ち上がっている。

「レポート見てください!」

 確かに他学部の授業の期末レポートは大変だろうが、授業内容をまとめてほんの少し考察を添えればそれで単位をもらえることがほとんどだ。他学部生は参考文献無しでも大丈夫と明言している教授もいる。しかしそれを説明しても同期と後輩の男達は納得しない。

「もう、仕方ないな……。テストの傾向は三限のあとに教えるから。それからレポートは来週のゼミの後のお昼休みに見るからちゃんと書き上げてくること。いい?」

根負けした名前がそれぞれに指示出す。なんだかんだと言いながら、頼られるのは嫌いではないのだ。大きくガッツポーズをしている三年生の男子の少し横、大倶利伽羅が静かに席を立つのが見えた。

「名前、俺はテストのこと今からでもいいんだけど。よかったら昼一緒に食わない?」
「あー、」
「悪いが」

同期からの誘いに名前がどう返事をしようかと一瞬言い淀んだ隙に、名前の背後から声が割り込む。

「鶯丸先生」
「名前はこの昼休みもSAの仕事があってな」
「他人事みたいに言ってますけど、それって先生が名前に下働きさせてるだけですよね……」
「人聞きの悪いことを言うが期末だからな。いろいろと忙しいのさ」

 教室に残っていた鶯丸が方便の助け船を出す。名前もそれに便乗して曖昧に笑う。そんな二人に同期は呆れたような顔をしてため息を吐いた。

「じゃあまた三限にな」
「ごめんね」
「いや、いーよ。早く帰ろうかと思っただけで特に意味もないから。むしろ授業後よろしくな」

うん、と頷いて名前は鞄を手に持つ。鶯丸に促されて名前は席を立った。





 教室を出て、話しながら歩く。

「せんせ、ありがとうございます。今日のお昼は本を読もうかと思って」
「構わないさ。それにしても名前は教職は取っていないのか? 今の様子だと教員も目指せるんじゃないか」
「うーん、考えたことなかったので取ってなかったです。教員、向いてますか、私」

名前が問いつつ隣の鶯丸を見上げる。彼は自分で言い出した事ながら、「さあな」と言うように肩をすくめた。そのまま少し廊下を歩いたところで鶯丸が立ち止まる。その隣を歩いていた名前も彼に倣う。このまま校舎を歩いていけば食堂に向かうが、鶯丸は中庭へ抜ける扉へ向かうらしい。一度研究室へ戻るようだ。

「じゃあまた三限にな」
「SAの仕事はないんですね?」
「ああ、お前を連れ出す方便だ。ーーそれより、名前、モテ期が来たんじゃないか?」
「モテ期?」

笑みを含ませた鶯丸の言葉に名前は首を傾げながら、いつの間にか自分から逸れていた鶯丸の視線の先を見やる。

「ーーあ、大倶利伽羅くん」

と、不機嫌そうに目を細めた大倶利伽羅と目が合う。驚いた顔のまま名前が鶯丸に視線を戻すと、薄く笑った鶯丸がひらりと手を振り中庭に出ていった。扉が閉まる直前に差し込む夏真っ盛りの眩い光に目が眩む。名前が焼きついた光を払うように瞬きを繰り返すうちにそばに寄っていた大倶利伽羅が、扉と名前の間に立つ。その気配に名前は彼を見る。

「大倶利伽羅くん、どうしたの? 大倶利伽羅くんもテストかレポートのこと?」

彼の作る影の中に入り目が少し楽になるが、見上げた彼は逆光だ。返事は返ってこない。

「……行くぞ」
「えっ、うん……」

大倶利伽羅の手が名前の腕を掴んだ。彼に腕を引かれるまま歩き出した名前から器用に鞄が奪い取られる。大倶利伽羅がそれを彼女と反対の手で持つと腕を掴んでいた手が名前の手首に下りてきた。彼から解放されることはないようだ。

「あの、私、ちゃんとついて行くよ?」
「……」

名前の慌てたような声にも返事は返ってこない。そのかわりに手首を握る大きな手に込められた力が少し強まった。


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