ゼミ 朝 準備


「せんせ、早く行きましょうよ。きっともうゼミの子待ってますよ」
「ああ。すぐに行く。この茶を飲み終わったらな」
「それってすぐじゃないですよー」

 今日は朝から鶯丸の研究室でゼミの資料を作っていた。と言ってもプリント数枚をゼミ生の人数分準備をするだけで、当然とっくに準備は終わっている。天気は曇り。今にも雨が降り出しそうな暗い空が研究室の窓の外に広がっている。

 この大学の敷地は広い。今名前と鶯丸のいる研究室棟から教室まで移動するにも少し時間がかかる。特に鶯丸ののんびりとした歩では授業が始まるのには間に合わないだろう。

「あっ! せんせ、ほら、鐘鳴っちゃいましたよ! 早く早く」

授業開始の鐘が鳴っても鶯丸はどこ吹く風でお茶を飲んでいる。

「まあまあそう急かすな。それに少し遅れて行った方が生徒は喜ぶ」
「だからって遅れすぎちゃ質疑応答の時間が減っちゃいますよ」
「いつも時間が余る程度しか質問も出ないだろう」

軽口を叩き合いつつ、鶯丸はいつの間にか最後になっていたらしいお茶を飲み干す。ふう、と一つ息を吐き、お湯呑みをデスクに置いた。

「行くか」
「行きますよ!」

名前が自分の鞄とプリントの束を掴んで研究室を出る。研究室の扉の鍵を鶯丸が閉める間に名前がその斜向かいにあるエレベーターの下りボタンを押しに走る。もう他の教授たちは教室へ向かったのか、エレベーターは一階からすぐにやってきた。無人のエレベーターに二人して乗り込む。

「今日は四年生は名前だけみたいだぞ」
「え、みんな休みなんですか? 三限目は?」
「昼からは来る。今日卒論の進捗発表のやつだけだが」
「そっかぁ、就活が忙しいのかな」
「だろうな。名前は早々に内定を取ってきて偉いな」

チン、と音がしてエレベーターの扉が開く。名前は飛び出すようにホールへ出るが鶯丸は相変わらすマイペースな足取りだ。

「それって『都合のいい手下が手に入って嬉しい』って意味ですよね」

のんびりと研究室棟の玄関を抜ける鶯丸に、すでに外で待っていた名前がくるりと振り返りながら口を尖らせて反論する。晴れた日には鮮やかな木々や花が目を楽しませてくれるというのに、今日のような曇天の下では彩度が下がって見える。研究室棟から伸びる小道の脇に植わった大きな柏の木の下に一歩入ると、世界の暗さが一段と増すようだ。名前は早々に歩を進めて曇天の下へ出る。

「まあ、そうだな」

フッと笑いながら悪びれもせず答える鶯丸に名前は脱力した。就職が早々に決まったのは偶然だ。SAの業務は楽しいのでありがたい。しかしSAの仕事にお茶汲みや、教授の行動の催促や、その他細々とした雑務は含まれるのだろうか。あくまで授業の補佐が業務のはずだったのだが。

「怒ったか? しかたないな、今日の昼は俺が奢ってやろう」

軽口の応酬が途切れたのを鶯丸は名前が怒ったからと判断したらしい。いつのまにか名前の横に並んでいた鶯丸が名前の頭をぽんぽんと撫でる。

「もう、怒ってませんけど! でもお昼はご馳走になります。けど、子供扱いはやめてください」

名前が笑って鶯丸の手を払う。彼のSAになったからには覚悟はしていた業務内容だし、大こうしてたまにお昼も食べさせてもらえる。なんだかんだと軽口を言い合うのが楽しいだけで、特筆すべき文句はない。鶯丸もそれを分かった上でこのじゃれ合いに応じてくれているのだ。



 ゼミの教室のある校舎に入る。教室は一階、今歩いてきた中庭に面した小さな教室。少人数のゼミだからそれでちょうどいい。今日は名前以外の四年生がいないので少し広く思えるくらいだ。名前が中庭を抜けながらちらりと室内を見た限りではやはり三年生のゼミ生はすでに勢揃いで待っていた。梅雨という気の滅入る時期だというのに感心だ。

「そうか、怒ってないか。名前が俺に泣かされたなんて燭台切に告げ口をしたら俺はしばらく雑務まで一人でやらされてしまうからな。よかった」
「他の先生方はご自分でしてらっしゃいますよ? あーあ、私光忠先輩に泣き付こうかな」
「やめてくれ」

今は院生になった懇意にしている先輩の名に名前は悪い笑みを浮かべる。「それじゃ、自分で配ってくださいね」と今朝まとめたプリントの束を鶯丸に手渡す。肩をすくめながら受け取った鶯丸は教室の扉を開けた。


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