木曜三限 休講


 研究室に差し込む午後の光。夏を思わせるそれは梅雨明けが間近であると告げている。つい先日、ゼミの前期後半の発表日程を決めたばかりだと思っていたがもうすぐ授業の期末のテストについて考えなければならいな、と鶯丸はぼんやりと思考を巡らせる。三十分ほど前に三限目の授業開始を告げる鐘が鳴り、すっかり授業時間中になった研究室棟は静かだ。この鶯丸の研究室では、分厚い専門書のページをめくる紙の音だけが聞こえている。

 その静寂を破ったのは軽い足音とコンコン、と研究室の扉をノック音する。聞き慣れたその音とリズムに続いて、「せんせー、失礼しまーす」と、これまた聞き慣れた声がする。「ああ」短く応えた鶯丸の声を受けてから開かれる扉。毎度のことながら律儀なやつだ、と彼は思う。

「せんせ、っ光忠先輩!」

研究室へ入るなり、目を輝かせた名前が大きな声をあげる。呼ばれた人物は読んでいた専門書を静かに閉じて彼女にニコリと笑った。思わぬ人がいた驚きと喜びから名前は満面の笑みだ。

「名前ちゃん。久しぶりだね。元気にしてた?」
「お久しぶりです! 一ヶ月以上ぶり……ですね。元気でしたよ。せんせのマイペースさに振り回されっぱなしの毎日ですけど」
「あはは、先生、SA扱いが荒いもんね。お疲れ様」
「二人とも俺の前ってこと、忘れてないか?」

あっ忘れてました、と名前が軽口を叩きながら研究室の真ん中に置かれた大きな机の端に鞄を置く。今日も本が詰まっているらしいそれは重たい音を立てる。

「それよりどうしたの? いつもはこの時間に研究室に来ることってなかったのに」

光忠が尋ねつつ机の上に広げられた本やプリントを端に除けている。鶯丸の専門にしている分野であり、光忠が大学院で専攻している分野の専門書。それから配布資料と発表原稿、質疑応答のためか箇条書きの文章が並ぶ紙の束。名前はそれらをまとめて手渡しながら「聞いてくださいよ」と口を尖らせた。鶯丸はいつも通りお茶を飲みながら自身の生徒たちの会話に耳を傾けている。

「私、木曜の授業は三限だけなんですけど、先週に今日休講って聞いてたのにうっかり来ちゃったんですよ! それでまっすぐ帰るのもなんだか癪で、図書館寄って、それからここに来たんです」

でも先輩に久しぶりに会えたから今日来てよかった、と笑う。ころころと表情の変わる名前の頭を光忠が「お疲れ様」と優しく撫でた。机の一番奥に座って二人のやりとりを見守っていた鶯丸がそっと立ち上がり、研究室の一番奥、窓際に置いてある彼個人用の机のすぐ隣の棚からお湯呑みを二つと急須と茶筒を取り出してお盆に載せる。さらにそこに先程飲み干した自分のお湯呑みも合わせ、光忠によって広げられた机の上に置いた。名前がそれに手を伸ばそうとするのを光忠がそっと制して「僕が行ってくるから、名前ちゃんは座ってて」とお盆を持ち上げた。「でも、」と食い下がる名前の頭を再びぽんぽんと撫でながら「ここは僕に甘えてほしいな」と言えば名前は素直に頷く。

「じゃあ、お願いします」
「オーケー。少し待っててね。先生も」
「さっきから俺の扱いが雑じゃないか?」
「そんなことないですよ」

爽やかに笑って光忠が研究室を出ていく。この研究室棟には各階に一部屋、小さい給湯室があるのだ。彼の背を見送って名前は自分の置いた鞄の前に座った。鞄の向こうには、きれいにまとめられたプリント。

「……せんせ、もしかして私、邪魔しちゃいました?」
「ん? なにがだ」
「先輩となにか打ち合わせしてたんじゃないですか?」
「ああ。別に構わない。夏の学会のことだから急ぐ話じゃない。……それより」
「? なんですか、ニヤニヤして」

名前のじとりとした視線を事も無げに受け止めながら鶯丸が楽しそうに言う。

「いや、最近はSAをしている名前しか見ていなかったからな。そんな顔の名前は久しぶりだなと思っただけだ」
「へ、へんな顔してます?!」

鶯丸の思わぬ言葉に名前はバッと両手で顔を覆う。「いや、そういう意味じゃない」笑みを深めた鶯丸の声に名前の両手が顔の前から両頬へ移動する。

「なんというか、後輩の顔をしているのが面白くてな」
「……なんですか、それ」
「観察のし甲斐があるということだ」

名前は照れ隠しのように「意味わかりません」と口を尖らせた。





「やっぱり先輩のお茶はおいしいなー」

 お湯呑みを両手で持った名前が満足げなため息を吐く。「名前の腕も上がったと思っていたが、やはり燭台切には負けるな」とからかうような鶯丸の言葉にも名前は「そうですよねぇ」と素直に同意する。それに苦笑しつつ反論したのは光忠だった。

「もう、先生、そんな意地悪なこと言っちゃいけません。ねぇ、僕、名前ちゃんの淹れるお茶、好きだよ」
「でも先輩のお茶のがおいしいですよ」
「じゃあ僕好みのお茶を名前ちゃんは淹れてくれるってことだね」
「じゃあじゃあ先輩のお茶は万人好みです」

埒が明かないやりとりにも鶯丸は何も言わずにお茶を飲んでいる。どう言っても主張を変えるつもりのない名前に光忠は再び苦笑した。

「また僕にお茶淹れてくれる?」
「それはもちろん!」

名前が間髪を容れずに答えると光忠の笑みから苦みが消える。

「ここ暫くちょっと忙しくしてたんだけど、それもひと段落したんだ。それに先生と打ち合わせることもあって、これからは研究室に出入りすることが増えるよ」
「じゃあそのときにはきっと淹れますから!」
「ありがとう。嬉しいな」
「その打ち合わせって、夏の学会ですよね」
「あ、先生から聞いたんだね」

そうそう、と光忠は肯定しながら端に除けていた資料のようなプリントを手に取った。それを名前に渡しながらもう一方の手を原稿に伸ばす。鶯丸のそばにあったそれを鶯丸は光忠に手渡しながら、

「燭台切が発表するんだ」

とサラリと告げた。それに名前は目を丸くして光忠を見つめる。光忠は少し困ったように眉を下げて「そうなんだ」と笑った。

「発表するの、せんせじゃなくて先輩なんですね」
「ああ。ここで名前相手に発表の練習をしてみたらどうだ?」
「そうですね。名前ちゃん……いいかな?」
「わ、私はいいですけど、もう完成してるんですか? 夏の学会なのに」
「一応の形だけは、ね。まだまだプロットから少し進んだ程度なんだけど」

名前の驚きと尊敬の眼差しを浴びつつ光忠が謙遜する。

「ふ、『プロットから少し進んだ程度』で資料も原稿も完成しているやつなんて燭台切くらいだろうな」
「先生。ハードル上げないでくださいよ」

 お湯呑みを脇に除け、空いた椅子に置いていた鞄から名前は筆記用具を取り出す。そんな名前の様子に「知識ジャンキーがお待ちかねだ」と鶯丸が光忠を急かす。聞き慣れない単語に「知識……?」と聞き返す光忠に名前が「せんせ!」と慌てて声を上げる。

「あまりに名前を端的に表現したものだと思ってな」
「なんか恥ずかしいからやめてください!」
「先生、女の子の嫌がることをするのはかっこよくありませんよ」

光忠の援護射撃に名前も調子づく。

「そうですよ、セクハラ!」
「セクハラ……ではないと思うが。まあいい。光忠、始めてくれ」

喉の奥で笑いながら鶯丸は光忠を促す。名前と机を挟んで向かい合って立つ光忠が原稿を持った。

「えっと、スクリーンがないからプリントの資料だけなんだけど、できるだけわかりやすいように説明するから」
「わかりました」
「質疑応答は発表のあとだ。院レベルの内容だから質問をするのも難しいかもしれないが、わからないところは全部質問すればいい」
「そうそう。僕の勉強のためにも、たくさん質問してほしいな」
「頑張ります」
「じゃあ始めるね」
「よろしくお願いします!」

 淀みなく話し始める光忠の言葉を聞き漏らさないように集中する名前の横顔を眺めながら、鶯丸の手元にも渡された資料に目を落とすふりをしてそっと笑う。くるくると変わる表情から一変して、どんな知識に対しても貪欲に食らいつく彼女の姿は知識中毒ジャンキーと形容するに相応しい。なんと観察し甲斐のある生徒だろう。


ALICE+