ゼミ説明会


 大学に入学して最初に名前のテンションが上がったのはゼミ説明会だった。ゼミ! 大学生になったら言ってみたかった単語の一つである。桜の舞い散る四月の初旬。一年生には説明が目白押しだ。今日はその数ある説明の一番最初、ゼミの説明会。一年生からゼミがあるなんて。ゼミはイコール卒論を書く、四年生のものと思い込んでいた名前には嬉しい誤算であった。



 大きな講堂に同じ学科の一年生が集められて説明を聞く。

 たくさんあるゼミから一つを選ぶ。一年生と二年生は前期と後期でそれぞれ選ぶ。前期と後期で選べるゼミは入れ替わるから、最少でも二つ、最多で四つのゼミが選べる。そして二年生の最後に、三年生と四年生の、“卒論を書く”ゼミを選ぶ。

 それから、たくさんあるゼミのそれぞれを担当教授から、教授の専門分野、そして一年生のゼミで取り扱う内容が紹介される。三年生以降のゼミについては、再び二年生の後期に説明会があるらしい。

 なるほど、と説明を受けながら名前はもらった資料に目を落とす。十枚近くのプリントに裏表印刷されたそれには一年生の前期と後期に選べるゼミの説明がそれぞれに分けられて載っている。眼前の選択肢の多さにくらくらする。これが大学生! 名前のテンションは上がりっぱなしだ。





 つつがなく説明会は終わった。説明を受けた一年生達はだらだらと講堂から出ながら、同じ高校から進学してきた生徒同士、もしくは学籍番号の近い者同士でどのゼミにしようかと話をしている。

「ねえ、名前はどのゼミにするの?」

資料をペラペラとめくりながら講堂を出た名前に話しかけてきたのは同じ高校だった子だ。

「うーん……、まだちょっと悩んでる。そっちは決めたの?」
「うん、一応説明会の前からなんとなくは決めてたから」
「そっかぁ。私も早く決めないとだね」



 そんな会話をした翌日。名前はとある研究室の前に立っていた。扉に掲げられている名前は“鶯丸友成”。昨日のゼミ説明会の後、彼と話をして流れで研究室を訪ねる約束をしたのだ。

 すぅ、はぁ、と深呼吸をして扉をノックする。

「あの、昨日お約束したーー」
「ああ、待っていた」

扉に向かって話していたらガチャリと目の前が開かれて、昨日会った彼が顔を出す。中へと促されて生まれて初めての研究室に足を踏み入れた。

「適当に座ってくれ」

 研究室の奥は全面が窓になっていて、春のやわからな陽光が差し込んでいる。白いカーテンは全開になっているが、カーテンレールの手前にはブラインドボックスが付いているので、天候によって細やかに光量の調整が可能なのだろう。窓の外は四階ということもあり、桜の木を始め、いろいろな木々が眼下に広がっている。
 左右の壁は腰から下は引き出しや引き違い戸による収納。腰から上、天井まで全面が棚になっている。たくさんの本が並べられたり積まれたりしているところもあれば、プリントらしき紙の束が積んであるところも、小さな置物だけが贅沢にぽつんと置かれているところもある。片方の壁の、つまり片側の棚の前にはホワイトボードが置かれている。
 室内の中心には本が乱雑に数冊積まれたままの大きな机があるが、窓のそばにも一人がけの机もある。教授専用なのであろうその机の横の小さな棚には、なぜかお湯呑みが数個と急須、それから茶筒が入っていた。

 「失礼します」と大きな机の端に座る。扉の近く、ホワイトボードに向き合う場所だ。それを見た鶯丸が名前に「もっとこちらへ来てくれないか」と声をかける。「は、はい」と上ずった声で返事をしながら、名前は彼の指定した位置、大机の一番奥、ホワイトボードのすぐそばへと移動する。鶯丸は名前の前に立つつもりのようだ。

「では説明を始めようか」
「お願いします!」

鶯丸がホワイトボード用のマーカーペンを手に取った。





 コンコン、とノックの音がして、鶯丸と名前は研究室の扉へ目をやった。「先生、失礼します」と男の人の声がして、鶯丸が「ああ」と返す。ガチャリと開かれた扉の向こうから背の高い男がーー光忠が入ってきた。彼の片側だけの視線が、ホワイトボードに向けられた体を捻って振り返る名前に向けられる。

「あ、こんにちは。ーー邪魔しちゃいました? 僕、後にしましょうか」
「いや、……どうする?」

 名前ににこりと柔らかな笑みを向けた光忠が鶯丸に視線を移して尋ねる。それに答えかけた鶯丸だったが、目の前にいる名前の緊張した様子に気づいたのか彼女に答えを委ねた。

「あ、いえ、大丈夫です……というか私の方が、お邪魔してます、か?」

光忠の来訪の意図も分からず、なによりまだ大学生活に慣れていない名前は精一杯考えて返答する。きっと彼もなんらかの理由でここに来たはずなのだ。ぺーぺーの一年生がその邪魔をしてはいけない。

「ううん、大丈夫だよ。あ、ごめん、自己紹介がまだだったね。僕は燭台切光忠。三年生で、先生の、鶯丸先生のゼミ生だよ」

よろしくね、と綺麗な笑顔を浮かべた光忠が名前のそばに寄って手を差し出す。名前も慌てて立ち上がり、自己紹介をする。そしておずおずと手を出すと、光忠の大きな手がその手をしっかりと掴み、優しく握る。

「それで、名前ちゃんはどうしたのかな。先生は一年生向けの授業はなかったですよね」

 暖かな炎のような光忠の左目が名前から鶯丸へと向かう。

「昨日、一年生へのゼミ説明会だったんだ。そのときにちょっとした問題を出してな」
「ああ、それで『答えが気になるなら俺の研究室へ』、って言ったんですね。それ、僕のときも言ってましたよ」
「同じ説明でも聞くやつは毎年変わるからな。ここ暫く同じ説明ばかりしている」

少し呆れたような光忠の声にも鶯丸はけろりとしている。「聞き手に合わせた話し方を考えろって先生言ってたじゃないですか」光忠のそんな反論にも「大人数すぎるとそう簡単にはいかないさ」と笑う。新米大学生の名前はそんな二人のやりとりを息を潜めて見守ることしかできない。

「でもこうして本当に研究室に来たやつは初めてかもしれないな」
「す、すいません、でも知りたくて……」
「いや、別にいいんだ」
「そうだよ、『研究室へ』って言ったの先生だからね。名前ちゃんはまったく悪くないよ」

 鶯丸の言葉にぴんと名前の背筋が伸びる。その眉は下がっている。光忠が「素直な女の子をいじめるなんてひどい先生だよね」と名前の頭を宥めるようにそっと撫でた。鶯丸は軽く肩を竦める。

「仕方ない。残りの説明は燭台切に任せようかと思ったが俺が続けよう」
「じゃあ僕も一緒に聞こうかな」

鶯丸が置いていたペンを再び持った。光忠は名前の向かいの椅子を引いて座る。

「さて再開しよう」





「ーーっていうのが僕と名前ちゃんが初めて会ったときのこと。僕、てっきり名前ちゃんは先生のゼミに入るものだと思ってたんだけど、まさかゼミに来るのが二年越しに入るとはね……」

 食後のコーヒーを飲みながら光忠の話を聞いていた大倶利伽羅は心中であいつらしいな、と思う。光忠の手にあるマグカップからはとうに湯気は消えているもののコーヒーはまだ残っている。光忠は冷えたそれを一口飲んだ。大倶利伽羅のマグカップはすでに空だ。

「俺のときにも言っていた」
「『研究室へ』っていうの? そろそろ変えるように言おうかなぁ……」

苦笑する光忠を横目に、大倶利伽羅はマグカップを手にキッチンへと立つ。光忠もマグカップをあおり残りのコーヒーを飲み干した。マグカップを洗う大倶利伽羅を優しい目で見ながら光忠が声をかける。

「明日のゼミのあと、先生の研究室で名前ちゃんと会う予定なんだけど、伽羅ちゃんもよかったらおいでよ」


ALICE+