四年生のゼミは担当者の進捗状況の報告と前回の報告から進んだ部分の発表、それに対する質疑応答が終われば授業時間内であっても終了する。今日の発表は卒論が前回からあまり進んでいなかったため、相対的に早く終了した。
出席者がそれぞれ帰る準備を進める中、「最終面接とかとかぶっちゃってさぁ……」と今日担当だった四年生の男子がぼやく。「そんなときもあるよ。むしろそんななのにちゃんと出席して発表するの偉い」名前が少し丸まった彼の背を少し強めに叩く。叩かれた男子は元気が出たのか表情が明るくなった。
「よし、俺ももうちょい頑張るわ。就活も卒論も順調な名前様に喝入れてもらったしな。ご利益ありそうだ」
「ご利益って」
クスクス笑う名前に荷物をまとめた男子も豪快に笑う。単純な男だが他人を僻んだりしないイイやつだ。「じゃあな!」と教室から出て行くその背を見送ってから、名前は鶯丸に向き直った。
「せんせ、もうーー」
「ああ。待っているだろうな」
「じゃあ早く行きましょうよ!」
名前が目を輝かせる。よいしょ、と今日も重いのであろう鞄を持ち上げる。鶯丸はまだ席に着いているままだ。急かす名前の後ろから、
「わっ?!」
名前の鞄が取り上げられる。振り返れば大倶利伽羅だ。
「びっくりした。あの、ごめんね。このあと私、用事があって」
「お前も来るんだろう?」
「……ああ」
「え? 大倶利伽羅くんも?」
昨日のようにまた鞄を持ってくれようとしているのかと名前が断ろうとするも、鶯丸が割り込んで大倶利伽羅に尋ねた。大倶利伽羅の短い返答に名前は首を傾げる。名前がどういうことかと問おうとするのを遮るように鶯丸が椅子から立ち上がる。
「せっかく早く終わったんだ。早く戻ってやろう」
スタスタと歩き出す鶯丸の背を名前と大倶利伽羅が追う。名前の鞄は相変わらず大倶利伽羅が持っている。名前はどこから誰になにを言うべきか決めかねているまま歩く。外に出ると今日も暑い。大倶利伽羅に指摘されて名前は日傘をさした。今日も鞄を返す気はさらさらないらしい。
「戻ったぞ」
ガチャリと研究室の扉を開いて鶯丸が言う。ホワイトボードの前、大机に数枚の紙を広げていた光忠が「おかえりなさい」と受ける。
「早かったですね。もうちょっとかかるかと思ってました」
「発表内容が少なくてな」
自分の机にまっすぐに向かう鶯丸の後ろから研究室に入った名前と大倶利伽羅も光忠はにこやかに迎える。名前は光忠と大倶利伽羅の間でどうお互いを紹介するかと頭を捻っていた。
「お疲れ様、名前ちゃん。それに伽羅ちゃんも」
「ありがとうございます。……え、“伽羅ちゃん”?」
光忠に手で促され、大机の奥側、鶯丸に近い位置に名前が座る。大倶利伽羅も一つ席を開けて隣に座った。光忠の発言に名前の視線が二人の間を行き来する。
「あれ、伽羅ちゃんから聞いてないかな。僕たち昔馴染みで今は一緒に暮らしてるんだ」
「え、いえ……そんなことは全然……」
名前がハッとして鶯丸を見る。
「せんせ! 知ってましたね! 知ってて言わなかったでしょ!」
「ふ……どうだったかな」
「だから大倶利伽羅くんに『来るんだろう』って言ったんですね!」
「まあそう怒るな」
茶でも飲め、といつものお茶のセットを差し出される。飲めと言うが、淹れて来いという意味だ。今日は光忠がそれを受け取る前に名前が受け取った。
「先輩、今日は私が淹れてきますから! せんせの、しっぶいのにしてきます!」
「はは、勘弁してくれ」
蓋を開けてみれば一人蚊帳の外だった名前がプリプリしながら給湯室へ出て行く。扉が閉まりきったところで、光忠がずっと黙っている大倶利伽羅に話しかける。
「よかったね、伽羅ちゃん。名前ちゃんのお茶だって」
「……うるさい」
にこにこと笑っているのは光忠だけではない。鶯丸も面白そうに笑っている。そんな二人に大倶利伽羅は心底嫌そうに顔を歪めて顔を背けた。
「僕、やっぱり名前ちゃんのお茶、好きだよ」
「俺は光忠の淹れる茶のが好きだな」
名前の淹れたお茶を四人で飲む。光忠の発言に顔を輝かせた名前だったが、その直後の鶯丸の言葉に唇を尖らせて不機嫌そうに目を細める。その意見に同意はするけれど喜ぶタイミングを奪わないでほしい。
「もう先生。ーー伽羅ちゃんも名前ちゃのお茶、おいしいって思うでしょ?」
光忠が大倶利伽羅に尋ねる。名前の窺うような視線が大倶利伽羅に向けられた。それを一瞬だけ見返した大倶利伽羅が手元のお湯呑みに目を落としながら小さな声で答える。
「……まあ……うまいな」
「だって。よかったね、名前ちゃん」
名前に笑みが戻る。光忠に「はい」と明るい声で応えた。が、すぐに眉を寄せて大倶利伽羅に顔を向ける。
「でも大倶利伽羅くん、知らないだけでしょう。先輩のお茶ってすっごくーー」
「光忠のなら毎日飲んでいる」
「あ、そっか……」
「その上で、あんたのもうまいって言ったんだ」
大倶利伽羅に詰め寄るような勢いの名前を制するように言葉を挟んだ。勢いの削がれた名前に大倶利伽羅は再び視線を向けて言う。そっけない口ぶりだが名前の顔はまた笑顔に戻る。
「……ありがとう」
嬉しそうな名前と照れ隠しのように視線を逸らした大倶利伽羅の二人を光忠は微笑ましく見守り、鶯丸も変わらず面白そうに見ている。暫くその沈黙が続いたが、それを破ったのは鶯丸だった。
「そういえば、しっぶい茶を淹れてくれるんじゃなかったのか」
「あ! うっかり普通のお茶にしちゃった……。せんせのだけ長く抽出しようと思ってたのに……」
途端に悔しそうな顔をする名前。それに喉の奥で笑った鶯丸が「そろそろ始めるか」と話を変える。すると名前の表情がパッと変わった。大倶利伽羅によって彼と名前との間の椅子に置かれていた自身の鞄から筆記用具と本を取り出す。光忠は名前がお茶を淹れに行っている間に準備していたプリントを鶯丸、名前、大倶利伽羅に手渡した。
「今日は昨日の質疑応答の続きのつもりだったんだけど、伽羅ちゃんも来てくれてるから、もう一度僕の発表内容について一から説明しようと思うんだ。……あ、もちろん終わったら質問も受け付けるからね」
光忠が名前に向いて補足する。「早速その本借りて読んだの?」と名前の取り出した本を指差した。「先輩に教えてもらった箇所くらいですけど……難しくて」と眉を下げる名前に鶯丸が「さすがだな」と笑う。
「さすが知識ジャンーー」
「さ、先輩、お願いします!」
名前と別れた大倶利伽羅と光忠が帰路を歩く。夏目前の今、なかなか空は赤くは染まらないが、傾き始めた陽は容赦のない熱気ですべてを刺している。二人は大学近くの商店街で「買うものがあるから」と言う名前と別れたところだ。
「名前ちゃん、電車通学のはずなんだけどな」
商店街は大学から駅までの途中にある。そしてその辺りで駅とは別方向に曲がれば大倶利伽羅と光忠の暮らす部屋へと向かう。
「僕たちの部屋の場所を知ってるから遠慮してるのかな。昨日も商店街に用事があるって言ってたんでしょう?」
昨日も大倶利伽羅から鞄を受け取り名前は商店街へ向かって行った。今日は光忠と二人、いくら付いて行く、待っていると言っても固辞されてしまった。うーん、と首を傾げる光忠に大倶利伽羅が小さく尋ねる。
「……光忠は、あいつを送って行ったことがあるのか」
「名前ちゃんを? ううん、ないよ。電車通学って言うのは本人から聞いただけ」
光忠の方を向くことはない横顔が少し安堵の色を滲ませる。
「まあ本当に用事があるのかもしれないし、無理強いもかっこわるいよね。ーーところで伽羅ちゃん、今日はどうだった?」
「別に……」
話を変えた光忠に大倶利伽羅は素っ気なく答える。
「そう? 僕は楽しかったよ。名前ちゃん、あんな顔するんだね。先生から聞いてはいたけど、実際見るのは初めてだったから」
「なにがだ」
思わせぶりな光忠の言葉に大倶利伽羅の目が鋭くなって彼に向けられる。行動だけは素直なんだから、と光忠が心中で笑う。
「名前ちゃんって伽羅ちゃんの、後輩の前ではあんな風なんだね。なんて言うか……お姉さんぶっててかわいい」
今度は大倶利伽羅は顔を逸らす。そんなかわいい弟分に気づきながらも光忠は口を噤む。二人の部屋はもうすぐそこだ。