01
ひたり、と合わさっていた唇が離れる感覚に、未だに慣れない。
おかしな話だ。
こうして唇を重ねるようになったのはほんの数ヶ月前からで、本来ならば、その柔らかさやあたたかさに違和感を覚えなければならないところなのに。私は、どうにも、この男の熱が遠ざかっていく、その間にある空気の冷たさに、心地の悪さを感じるのだった。
この男と触れ合い、繋がったまま生まれてきたわけでもあるまいに。
「何考えてる?」
間近で目が合う。
お前のことだよ、と答えると、口が悪いなと笑われた。
私の唇を食んでいたはずのその唇が、今度は煙草を咥える。男の胸が上がり、肺いっぱいにその煙を吸い込んだことがわかる。どうしてわざわざ体に悪いと分かりきっているものを摂取するのか私には理解ができないが、男の唇の隙間から白い煙がすうっと流れ出るのを見ていると、なるほど、興味は湧いてくる。きっかけなんてそんなものなのかもしれない。
「職員室の壁がこんなに黄ばんでるのは確実にお前のせいだろうな」
「俺がここの教師になったのはつい最近だ。その頃にはもうこの色だったさ」
「ふうん」
疑いながら体を傾けると、キャスターの付いた椅子同士の背もたれがぶつかってがつんと音が鳴った。
黄ばんだ壁にかかったシンプルな時計を見上げる。まだ二限目が始まったばかりの時間で、うんざりとした気持ちになる。
「東院、三限は授業だよな?」
「三限も四限も授業だな」
「一限もだっただろう、ここの教師はいつか過労で死ぬな」
「なんせ教師が四人しかいないからな、人手が足りなさすぎるんだよ」
男、もとい東院が笑った。ふわりと煙が広がる。それを目で追いながら、三、四限目はどこで時間を潰そうかと考える。東院がいないということは、別の教師が職員室にいるということだ。そんなところに用はない。
「暇なら授業に出たらどうだ」
視線を東院に戻す。ゆらゆらと煙草を揺らされ、眉を潜めた。
「私は天才らしいからいいんだ。授業なんてのは」
「なるほど?」
再び東院が笑い、椅子がきしむ。じろりと睨み付けると、からかうような顔をした東院が顔を寄せてきた。
煙草の匂いが口の中に広がって、鼻に抜ける。正直くさいと思うが、既にこの匂いを東院の匂いだと思い始めているし、そう思うとなんだか少し素敵な匂いに思えてくるから不気味だ。何が不気味って、自分が月並みに乙女チックであったことが、だ。
やわやわと唇を押し付けあって、食んで、舌を吸われて、吸って、頭と体がふわふわし始めた頃にようやく離れていく。先程からこれの繰り返しだ。
「……そもそも授業なんて、出たってつまらないだけだしな」
乱れた呼吸を悟られないように、目を伏せてそう呟く。
「ああ……、まあ、少なくともお前に魔術の授業は必要ないだろうな」
「魔術教師がそれを言うのか?」
「客観的な評価だろ」
「まあ、私は魔術に限らず剣術も体術もできるんだけどな」
「総合演習くらい出たらどうだ? Pクラスはちょうど今じゃないか?」
「小村のばばあの授業には絶対に出たくない」
心底嫌だ、という顔でそう言うと、東院は苦笑した。俺もあの人、得意ではないけどな。その言葉が空気に溶ける前に、職員室の扉が勢いよく開かれた。
「と、東院先生!」
焦ったような男子生徒の声。
椅子から滑り落ちるようにして机の陰に隠れたが、生徒相手なら隠れる必要もなかったかもしれない。
「どうした」
「《奥の森》に魔物が出て……! い、入り口付近だったのに、雑(ぞう)じゃなくて件(くだん)が出たんです! 小村先生が、増援を、って」
「そうか、わかった。すぐに向かう」
立ち上がった東院の、白衣の裾を引く。
「行くのか」
「聞いてただろう。緊急事態だ」
「そんなの……、どうせ小村の自業自得だろ」
口を尖らせてそっぽを向いてみるが、引き留めることは無理だろう。放っておけば生徒に危害が及ぶことは明白だ。
「お前も来るか」
白衣の薄い布が私の手を離れて靡く。
「なんで! 絶対嫌だ」
「咄嗟に隠れるってことは、サボってることに少なからず後ろめたさがあるってことだろう」
天才なのにな、と東院がいじわるな笑い方をする。言葉を返せずにいると、東院は「来い」と端的に言い残して、もう私を振り返ることはなかった。
学校を出て城壁に沿うように北上し、川を渡って森に向かう道中、男子生徒は私の方にちらちらと視線を送りながら、東院に状況を説明した。簡潔に纏めると、雑を狩る演習をしていた最中、突然件が森の奥から飛び出してきたらしい。
「あんなに浅いところに件がいるなんて……、魔物が再び凶暴化してきているという噂は本当なのでしょうか」
「どうだろうな。その辺りの分析は国属の研究者に任せるしかない」
森がだんだん近付いてくる。土は僅かに湿って柔らかくなり、圧倒的な緑が存在感を放つ。夏が終わってなお何色にも染まらない、恒久に泰然とした樹木たち。それと同時に、何者かの息遣いがその気配を濃くする。
足早に先頭を歩く東院と、その後ろを歩く男子生徒との距離が徐々に開いていく。ちらり、と男子生徒の顔を窺うと、不安と畏怖が入り交じった表情を浮かべていた。
わかるな、と思った。美しいはずの自然と、敵意蠢く不気味な気配との間に横たわる違和感。見えない何かが世界を隔て分けているかのような空気。湿り気。私もそれを、怖いと思った。
確かに思いはするのだ。けれど。
「雑を大量に殺されて、件が怒るのは当然じゃないのか。何が凶暴化だ。魔物のテリトリーを踏み荒らしてるのは、人間じゃないか」
森へ入る直前に低い声でそう言うと、男子生徒は怯んだような目で私を見たが、東院はやはり振り返らなかった。男子生徒は自分が叱られていると思ったのか、もごもごと口を動かし、恐る恐るといった様子で言葉を返してきた。
「た、確かにそうかもしれないけど……それは魔物側から見た話であって……、僕たち人間は、やっぱり、魔物に襲われると困るじゃないか。自分が襲われるのも困るし、大切な人が襲われるのも嫌だから……、だから、僕たちは戦士を目指してるわけで」
真面目な男だな、と思った。きっと、高い志を持ってこの学校に入学し、日々勉学に励んでいるのだろう。
「魔物にも大切な仲間がいるんだ。それを守るために、魔物は人間を襲うんだ。そもそも《奥の森》は、魔物の家なんだから」
「! でも、実際、十三年前に魔物は人間の暮らしを脅かそうとしたじゃないか! また同じことが起こって、魔物が侵略してきたら……! 僕たちはその時に備えて訓練をしておく必要があるんだ!」
「殺されるのは嫌なのに、『訓練』で殺すのは平気なのか。そもそもあの時は――」
「おい。その辺にしておけ」
東院の制止の声に、男子生徒がはっとする。私はふいと顔を背けた。
「東院先生! 来てくださったんですね」
妙に明るい小村の声。十数名の生徒が、小村の近くで塊になって談笑しているようだった。
「すみません、遅くなりました。それで、件は?」
「ああ、件でしたら、私が追い払ってしまいました。生徒を守りながら戦うだなんてもういい歳の私には難しいかと思ったのですが、案外やればできてしまうものですね」
おほほ、と小村が笑う声を、憎々しい気持ちで聞いていた。思わず舌打ちが出る。隣に立つ男子生徒が、びくりと震えた。
「そうですか。流石ですね。怪我人は?」
「いませんよ」
「それはよかった」
にこりと微笑んで見せる東院もまた、憎らしかった。女はいくつになっても女だ。か弱いふりをして、騒いで、そのくせ自分は優秀だということを相手に認めさせたがる。優位に立っていたがる。それに振り回されながら反論の一つもしない、できない教師も、その光景をピクニックの余興であるかのように眺めている生徒たちも、全てが腹立たしかった。
そんなことのために弄ばれて、殺される魔物たちは、一体何なのだ。
「あら、上条さん、どうしていらっしゃるんですか?」
最初から見えていただろうに、さも今気付いたかのように声をかけられる。
「どうしてって、生徒だからじゃないのか?」
「サボってばかりでろくに授業にも出てこない人は、果たして生徒と呼べるのでしょうかねえ?」
「……除籍になるまでは生徒なんじゃないか?」
こんなところ、いたくているわけじゃない。下らない。私は何も望んでいなかったのに。怒りと共に次々と頭に浮かんでくる言葉を、口に出るぎりぎりのところで押し止める。言ったって仕方がないことだ。嫌いな人間に感情任せに怒りをぶつけることほど、馬鹿馬鹿しくて虚しいことはない。
わかっていても、腹は立つけれど。
東院を呼びに来た男子生徒が、生徒の群れへ帰っていく。「なんで上条さんも来たの?」「なんか話した?」「怖いよねあの人」ひそひそと、いそいそと生徒が囁き合う。そうだ、所詮。所詮、こんな。その程度の。
「東院先生もねえ、上条さんに甘すぎるのではありませんか? まあ、年上に憧れてしまう年齢だというのもわかりますが……、そういうところは教師側からしっかりと線引きをしておかないと、生徒が勘違いをしてしまってもねえ、ほら、困りますし」
わざとらしく頬に手を当てて、困ったように笑いながら小村が言う。あまりに見当違いなその言葉を、普段なら一蹴できただろうけれど今はあまりに気が立っていた。噛みつくように口を開いた私が、けれど何か言葉を発することはなかった。それよりも早く、落ち着いたテノールが空気を緩める。
「上条は優秀な生徒ですよ。サボり癖は確かに良くありませんが、自分に必要なものを取捨選択できる能力も重要ですからね」
「しかし――」
「実際に上条は、私の授業はサボりますが、小村先生の授業にはこうやって出てきていますし。彼女は彼女なりに、自分に足りていないものを理解してるんだと思いますよ」
まるで優男のように微笑む、その東院を反射的に胡散臭いとは思ったけれど、それは確かに私に向けた慰めであったし励ましであった。
「もちろん、教師が導いてやる必要は大いにありますから、小村先生の仰る通り私も精進しなければなりませんね」
落ち着け。大丈夫だ。俺がいる。俺ならわかってやれる。そうだろう?
東院はそう言っているようだった。何故かはわからないが、この男は最初からこうだった。腹の立つことも多いけれど、この男は、出会ったときからあまりに大人らしく、揺るがず、強く、優しかった。私に対して、ずっと。
深呼吸をひとつ。そうだ。小村に怒ったって仕方がないんだ。本当に。東院は私のものだし、私を認めてくれている。ただの嫉妬だ。生き遅ればばあの嫉妬だ。私が若くて可愛くて優秀だから。そうだろう?
「まあ、東院先生には東院先生のお考えがあるのでしょうけれど――」
小村が手癖のように反論の言葉を探していた、その時。突然茂みががさりと音を立てた。咄嗟に戦闘態勢をとる東院。振り向く小村。身をすくませる生徒たち。
咆哮と共に飛び出したのは、三匹のワイルドウルフだった。それも、大きい。森のこんな入り口付近に棲んでいるはずのない、件だ。きゃああ、と生徒たちが悲鳴を上げる。
「落ち着いて! 生徒の皆さんは結界の中へ!」
言うが早いか、小村は結界形成の魔術を唱え始める。東院は生徒を庇うように前に出て、フレイムでウルフたちを牽制した。草木を燃やさず、魔物を傷付けもしない正確なコントロールだった。
「先程追い払った件……!? まさか、仲間を連れてこんな場所まで……、私たちへの報復を……!?」
「小村先生、生徒たちをお願いします。私が始末します」
生徒全員が結界に収まり、東院が本格的に戦闘に入ろうとしたとき、私は声を上げずにはいられなかった。
「待て!」
東院が視線だけで振り返る。
「し、始末……? 始末ってなんだ、東院、狩猟はウルフの本能だろう、そもそも先に手を出したのはこっちで、それを」
「上条さん、あなたは何を言っているのですか!? 東院先生お願いします、討伐を!」
「黙れ! ふざけるな! 東院、殺すな! 殺す必要なんてない、そうだろう!?」
独りだけ結界の外に立っている私を、それを不思議と思うこともない生徒が、教師が、冷ややかな目で見ている。
体の芯が燃えるように熱い。血が頭まで上っているのがわかる。耳の内でごうごうと音が鳴り、掌から汗が吹き出す。
「殺すな……!」
その懇願に、けれど東院は目を逸らした。庇ってくれたのに。慰めてくれたのに。わかってくれてる、はずなのに。それでも。
「こうなった件は、下手に逃がしてもまた仲間を連れて戻ってくるだけだ。殺すしかない」
それが、最善だ。東院の背中は教師の背中だった。それが世界の総意であることを、私はわかっていた。わかっていた。それでも。それでも。それでも!
「そんなこと言うな!」
私だけは、それを認めてはいけないのだ。
地を蹴る。東院を止めようとする。ウルフを庇おうとする。それよりも早く、東院が魔術を放つ。得意の炎魔術。避けるウルフ。焦げるウルフ。そのにおい。雄叫び。
手が震えて、涙が滲んで、私も叫び出したくなる。やめろ、殺すな。殺さないでくれ。
伸ばした手が東院に触れるその直前、拘束型の結界が私の胴を掴んだ。こんなもの、と結界を壊すその僅かな時間で、東院が残りのウルフを燃やして、殺してしまう。ぎゃう、と鳴いていたウルフ。やがて声も消える。灰が残る。静寂が残る。森の木々が、さわさわと揺れる。
「な、んで、止めたんだ!!」
結界を組んだ小村を振り返り叫んだ。小村はその気迫にほんの一瞬怯んだものの、努めて冷静に言葉を返してきた。
「それはこちらのセリフです。どうして東院先生を止めようとしたのですか? どうして件を庇おうとしたのですか?」
「件じゃない! ウルフだ! ワイルドウルフだ!」
「何を言ってるのですか、件ですよ」
「違う、そうじゃない、そうじゃないだろ……! ウルフは群れでの行動を基本としていて、情に厚くて、小村お前、最初に追い払ったときにウルフを傷付けたんだろう! だからウルフはこれ以上侵略されないように私たちを追い払いに来たんだ! そもそもウルフには狩猟本能があって、だから――」
「それが何ですか?」
一瞬、息が止まった。
「上条さん、あなたは優しさのつもりかもしれませんが、その思想は危険ですよ。人間と魔物は相容れない存在、共存なんてできないのです。かつてそれを履き違えた人間がいました。みなさんご存じですね?」
解かれた結界から出てきた生徒たちが、小村の言葉に顔を見合わせる。生徒のうちの一人が呟いた。
「十三年前の……」
「そうです。魔王が君臨した、魔の三年間。小鳥遊《たかなし》様のお話によれば、かつての魔王も今の上条さんのような考えだったらしいじゃなありませんか」
小村がやれやれと、芝居がかったような顔で言葉を紡ぐ。生徒たちはぴりぴりとした空気に緊張しながらも、何事かをぽそぽそと友達と話し合っている。
なんで。
「だから……」
なんで、今、まさに目の前で、生き物が死んだのに。なんで。
「だから、その魔王も、人間だろう。人間の都合で魔物が死ぬのを、なんで……」
なんでお前たちは、平然として。さも当たり前であるかのように。
「お前たちは魔物を、生き物を、一体何だと思っているんだ!!」
叫んだ言葉が、森に反響した。鳥がばさばさと飛び立ち、生徒たちは首をすくめ、小村が驚いたような呆れたような顔をし、そうして私の言葉は、誰の心にも響かない。
「上条さん……、まるで、魔物に心があるかのような言い方ですねえ」
小村が赤子を宥めるような声色で言った。
生徒たちは、びっくりしただの怖いだの言い合い、やがて、東院の炎魔術の正確さや小村の結界形成の迅速さについて議論をし始める。
東院は、何も言わなかった。
- チョコレートの快楽 -