別に、ここが理想郷になるのだと期待して来たわけじゃない。
6年付き合った彼氏が田舎に行きたいのだと、自給自足で暮らしていくのが夢だったのだと語ったとき、私は理想よりも先に現実を見てしまったし、一緒に来てほしいと手を差し伸べられたときも、とても夢を見る気分にはなれなかった。むしろ、その逆で。
けれど、反対する気持ちにもなれなかった。
私は早くもオフィスレディに疲れていたし、お局様の顔をもう見なくて良いのだと思うとほっとしたし、代わりに彼氏の顔を毎日見ることになるのだとわかってはいたけれど、それはそれ、いつかはそうなるものだと思っていた。
つまりは、不便な離島で、私たちは素朴な夫婦になるのだと。そうしてゆっくりと老いて、死んでいくのだと、思った。
それが一番安易で、一番楽な選択肢だったから。
深く考えず、ほとんど迷う素振りもなく、私はその手を取った。
私の彼氏はとても調和のとれた男で、前向きで楽観的な性格と周囲の人に恵まれ続ける運を足し合わせて、そこから足りていない知識や能力を引くと、丁度人類の平均値になりそうな人間だった。
何の平均値かというと、魅力とか、幸福度とか、そういう。
平均以下の私にとってはとりあえず優良物件で、死んでも側にいたいと思うほどの情熱はなかったけれど、きっと死んでも側にいることになるんだろうな、という予感と諦念があった。それを愛と呼ぶのかどうかはわからないけれど。
とにかく、その男の側にいることは、私にとっては呼吸をするのと同じくらいの日常だったのだ。空気のように、必須で希薄な関係だった。
だから、よくわからない人脈で離島の家を借りたと聞いたときも、地元の農家に弟子入りして野菜の作り方を教えてもらうんだと言われたときも、お前は近所の商店で雑務(つまりはアルバイト)をやって小銭を稼いでほしいと頼まれたときも、私はただただ頷いた。
この人についていけば間違いないという信頼があったわけではない。誰かに見えない糸で引っ張られているかのように、そちらに行くことしかできなかったのだ。今思えば、あれは糸などではない。私の怠惰だ。私は少し、疲れていた。
入社二年ちょっとの会社に辞表を出して、最低限の服や荷物をまとめて、電車とバスを乗り継いで、船に揺られて。辿り着いたのは、まあまあ古くて、そこそこ広い(あるいはそこそこ狭い)木造の一軒家だった。
どちらかのアパートは暫くそのまま置いておくべきだと思ったけれど、もう使わないだろと笑った彼氏に流されて、元々住んでいた部屋は二人とも引き払ってしまった。つまり、もう帰れる場所はどこにもない。ここしかない。
頭ではそうわかっていたけれど、玄関先に大きな蜘蛛を見つけたとき、私は帰りたくなった。
荷物を下ろして、畳の匂いと埃の臭いの混ざった部屋をうろうろしていると、ご近所さんに挨拶しに行くぞ、と彼氏が言った。曰く、こういう狭いコミュニティでは最初が肝心なのだと。
都会でぬくぬく育った男が何故知った風な口を利くのか、とうっすら思ったが、正論だとも思ったので黙ってついていく。
元より大きな島ではないが、その面積の半分弱を森だか畑だかが占めているため、人が暮らしている範囲は思ったよりも狭かった。
役場と、学校と、交番と、小さな商店。あとは、農家と民家がいくつかずつ。この島にあるのは、それで全てだった。
最初に役場へ行った。家を借りる手助けをしてくれた、彼氏の友達が役場勤めであるらしい。美人な彼女さんじゃないか、羨ましいねえとお世辞を言われた。
その次に、彼氏が弟子入りするという農家のおじいさんのところへ行った。田畑を見せてもらって、軽い説明を受けた。俺は優しいが自然は厳しいからなあ、軌道に乗るまではつらいと思え、とおじいさんは笑った。
あとは、道行く人々、近くの民家に挨拶をしていく。お前が世話になる商店にも挨拶に行かないとな、と思い出したように彼氏が言ったのは、島をそれなりに回り終え、日が陰ってきた頃だった。
その商店は、昔の漫画に出てくる駄菓子屋のような外観だった。飴色の古い木造、煤けたような黒ずみ、白い紙テープでひび割れを隠すガラスの引き戸。開け放されたそこから足を無遠慮に踏み入れると、入り口付近には本当に駄菓子が並んでいた。
「すみませーん、今日この島に引っ越してきた入谷です。えっと、樫村の紹介で、ここでアルバイトさせてほしいって話の」
彼氏がきょろきょろと中を見回しながら、軽い調子で声を出す。潮風でべたついた髪を撫でながら、ふらりと奥へ進んでいくその背中を黙って見つめる。
衣擦れ音をさせて店の奥から出てきたのは、中学生か高校生くらいの女の子だった。うっすらと日に焼けた、健康そうな……、もしかしたら男の子かもしれない。
「あ、どうも、入谷醇です。こっちが葉流麻網って言って、ここでアルバイトさせてほしいってお願いしてたんですけど」
「ああ……」
その少女(少年?)は小さく声を漏らした。
「とーさんが言ってた人か。今ばあちゃんがちょっと出てて……、バイト……、明日からだっけ? 働くのはそっちの人?」
「あ、そうです」
目線で促されて、浅く頭を下げる。
「葉流です。よろしくお願いします」
「ハルさんね。私は海影迫。この店やってるのは私じゃなくて私のばーちゃんなんだけど、あと一時間くらいで戻ってくるじゃないかな、多分。待つ?」
「え、っと……」
どうしようかと彼氏を見ると、んーと首を傾けて、うん、と頷いた。
「特に予定もないし、待たせてもらったら?」
「じゃあその辺座ってて。椅子……、どっかにあるでしょ。客が来たら挨拶だけはしてね」
「あ、はい」
「俺はもうちょっと散策してくるわ」
「えっ?」
一緒に居てくれるのではないかと見上げると、彼氏はにっこり笑った。
「や、さっき船着き場みたいなとこあったじゃん。釣りとかできるのかなと思ってさ」
わくわくしたようにそう言われて、ダメだとも言えず曖昧に頷いた。
「道具があれば釣りはできるよ」
「あっ、そうなんすか。じゃあ下見してきます。すぐ戻るんで」
へらりと笑って出ていった男に、恨みがましい気持ちにすらなれず、近くににあったボロボロのパイプ椅子を引き寄せた。ゆっくりと腰を下ろすと、ぎいいとパイプが軋んだ。
店内には、駄菓子や、野菜や、日用品や雑貨がほとんど無秩序に置かれていた。冷蔵庫らしきものの中には、ラムネ瓶と肉のようなものが隣り合わせに並んでいる。
「ハルさんは、入谷さんの妹? ではないよね?」
急に声をかけられて内心びくつきながら視線をやると、海影さんはカウンターに頬杖をつきながらこちらを見ていた。
「えっと……、恋人、です、一応」
「だよね。なんか兄妹みたいに見えたから。っていうか、新婚じゃなかったっけ?」
「結婚はまだ」
「ふーん」
じろじろと海影さんが私を眺める。嫌な感じの見方ではなかったけれど、居心地の悪さを覚えて目を伏せる。
「なんでこんな何もない島に来たの? ハルさん都会の女ーって感じだし、ここにいたら髪も肌もどんどんぱさぱさになっていくんじゃない? そういうのいいの?」
「え、っと……」
何て返せばいいのかわからずに口ごもる。そうですね、とも、そんなことないですよ、とも言うわけにいかず、笑って誤魔化せるだろうかと考える。
「彼氏が……、さっきの人が、行くって言うから」
なんとか笑みの形を浮かべながら海影さんを見返す。
「えっ、それで黙ってついてきたの? 嫌とか思わなかった?」
「……、別に、嫌とかは……」
愛想笑いが崩れそうになって、やっぱり目を逸らしてしまった。ああ、嫌だな。これからここで働かせてもらうんだから、きっと死ぬまで付き合うことになるんだから、ちゃんとしないと。気に入られるまではいかなくても、嫌われないように。
「ふーん」
沈黙が訪れてしまった。
そうだ、こういうときは自分から質問をしないと、他人に無関心な人間だと思われてしまうんだった。
頭にいくつかの質問を浮かべて、どれを聞くべきか目星をつけていると、再び海影さんが口を開いた。
「ハルさんみたいな、相手の顔色窺って黙っちゃう人、こういう田舎には向いてないんじゃないかな」
「……えっ」
「ここは結構ズケズケ喋る人が多いし。入谷さんはすぐ馴染めそうだけど……。まあ、私が口を挟むことじゃないか」
黙り込むと、それ以上何かを言われることはなかっ
た。そこから彼氏が戻ってくるまでの数十分間、客が来ることもなく、私たちが会話をすることもなかった。
波の音がわずかに届いてきていた。
「ただいまー!」
ようやく帰って来た彼氏は、片手に釣竿を持って満面の笑みを浮かべていた。
「いやー、船着き場で釣りしてたおじさんがさ、余ってるからくれるって言ってさ。この島の人ってほんといい人が多いよな」
「……よかったね」
「何? 置いていったから怒ってんの? ていうかずっと沈黙だった感じ? ごめんね海影さん、こいつ無愛想で」
「いや、私も、楽しく盛り上がれるタイプじゃないから。静かでいいんじゃない? ハルさん」
もはや嫌味にしか聞こえなかったが、何も言い返せない。言い返す場面でもないと思った。
丁度その時、海影さんのおばあさんらしき人が店に帰ってきた。
「なんだ迫、電気もつけずに。もう暗くなってきたよ」
「ああ、そろそろつけようと思ってた。ばーちゃん、この人たち、越して来た人」
海影さんが雑に私たちを指で示す。
「入谷醇です。こっちが葉流麻網。今日この島に引っ越してきました。よろしくお願いします!」
「おお、おお、よく来たね。本土からは遠かっただろう。息子から話は聞いてるよ、そっちのお嬢さんがここで働くんだろう? 私はもう見ての通りばばあだからね、手が増えるのは助かるよ」
「それならよかったです。人見知りなやつなんですけど、根は真面目なんで、ちゃんと働くと思いますよ。働かせてくれなんて急なお願いですみませんでした」
「いやいや、いいんだよ。こんな若い人間が興味を持って外から来てくれるのはありがたいもんだ」
社交的な人間同士話が盛り上がっているのをぼうっと眺める。
お節介そうなおばあさんだな。しかも噂が好きそうなタイプだ。苦手な人種だけれど、これから上手くやっていけるだろうか。
何より、孫の方が。何で初対面で、それも年下の子供に、あんなふうにお説教みたいなこと言われなきゃならないんだろう。合わないからさっさと出ていけってこと? もしかして、あの子も毎日店番してるのかな。
やだな。上手くやっていける気がしないな。
もやもやとしているうちに、何故かこの店で一緒に夕飯をとる話にまとまっているようだった。島で採れた野菜をたくさん使った、お野菜ごろごろカレー!
ああ、料理を手伝わないと。店の奥に台所があるんだろうか。商店兼住宅なんだろうか。話に耳を傾けている振りをして頷きながらご飯を食べないと。美味しいって笑わないと。
なんて面倒なんだ。帰って一人で布団にくるまって寝たい。泣きたい。
違う、帰っても一人にはなれないんだった。私の布団の隣にはこいつの布団があるんだ。へらへらと笑う、この男の。
そんな考えが絶対に表に出ないように押し止めて、店の奥に上がろうと靴を脱ぐ。靴を揃えようと屈むと、上から海影さんの声が降ってきた。
「今日は帰ったら?」
一瞬、何を言われたのかが理解できなかった。
帰る? 私が? 私だけ? 家に? 本土に?
「何を言っとるんだ、迫」
「だってハルさん、凄い疲れた顔してるし。今日来たばっかりなんでしょ? 家でゆっくりしたほうがいいんじゃない」
見上げると、海影さんは私の方は見ていなかった。まるで私を庇うように、彼氏とおばあさんに向かって立っている。
「なんだ、体調悪いのか? 早く言えよな、お前はすぐ一人で我慢するんだから」
「…………、ごめん」
「カレーの気分じゃないかい? 元気な野菜いっぱいだから、食べれるだけ食べて帰りな。残したら包んでやるからね。何も食べないのが一番体に悪いんだ」
「あ、じゃあ俺手伝いますよ。麻網は座って休憩してろ」
「なら先に麦茶を入れよう。この島はむしむし暑いからね、それでやられたのかもしれない」
何も言ってないのに勝手に話が進んでいって、しかも結局カレーは食べるらしく、差し出された麦茶を受け取って私は畳に座り込んだ。コップの中で氷が音を立てる。
黙って氷を見つめていると、同じように麦茶を持った海影さんが隣に座った。
聞きたいことはあった。私から話しかけないといけない場面だと思った。お礼を言わなければならないかとも考えた。でも、そのどれも声にはならず、私は黙って氷を見つめていた。
台所からは楽しげな話し声と、水の音や包丁の音が聞こえてくる。
暫く無言でいて、けれど段々と気まずくなってきて、横目でそうっと海影さんを盗み見ると、コップに口をつけている海影さんと目が合った。逸らすのも気まずくて、麦茶を飲む海影さんを見つめる。小麦色の喉がごくごくと動く。
ふう、とコップから口を話した海影さんは、じいっと私の顔を見て、それから、ちょっと意地悪そうな顔でにやりと笑った。
「私ならああいう男とは付き合わない」
その言葉で、救われなかったというと、嘘になる。
- チョコレートの快楽 -