あの赤いスーツ、目立つな――。


 春日さんと私の関係は、私が一方的に見かけるところから始まった。

 それもその筈で、春日さんは私のアルバイトしている居酒屋のすぐ隣のお店によく出入りするお客さんだった。うちの向かいに煙草屋があるので、寄りやすいのかよくその店前の喫煙所で一服している。オープン前。閉店間近。他のサラリーマンやチンピラに混じり赤いスーツで立つ彼はあまりにも目立った。
 あんなスーツを着てもじゃもじゃの髪の毛。髭まで生やしている人だ。初めのうちはここいらを取り仕切っているヤクザかと思った。うちの店にも出入りしている、近江連合、とかいう。あの人たちは横暴でいい噂を聞いたことがないから、できるだけ近づかずに生きていきたい。それでも神室町でアルバイトをしているのは、その不安を抱えながら経営している叔母の店を手伝うためだった。


 そんな「赤スーツさん」が、やっとそこによく居る理由を知ったのは、非番の日のことだった。

 神室町近辺で一緒に遊んでいた友人に美味しい焼き鳥が食べたいと言われ、それならばと叔母のお店に連れてきた。最近は近江のせいかボッタクリも多いから、そうでなくて美味しいものをと思えばよく見知ったお店の方が安心だ。味は当然お墨付き。

 友人はやたらとつくねをお気に召したようで、たらふく食べて外に出たのはすっかり時計の針が重なろうとしている頃合いだった。

「あ、あの人」

「え? どの人」

 店を一歩出た瞬間、赤いモノが視界の端に写った。見遣ると、案の定例の男の人だった。思っているよりずっと、背が高く威圧感がある。

 ――ああ、なるほど。

 彼は隣の店、「Spica」からキャストの女のコに見送られ出てきたところであった。ふらふらとそのまま歩き、どこかへ向かっている。

「え。あの人?」

 友人が顎で示しながら顔を顰めている。

「うん。よくそこでタバコ吸ってるんだよね。……キャバクラ行ってたのかぁ」

 やっぱりちょっと厳つい人なのかな。

 その時隣の友人がぎゃっと短く悲鳴をあげた。

「終電!! やばい!」

「えっ、嘘でしょ」

 そのまま駅へ駆け出した友人を追って、私はまたその男のことを頭の隅へ追いやったのだった。


 それから今までのように赤スーツの男を見かけると、やはりSpicaに来ているとわかった。
 同伴でお店に入っていくところも見た。それから、出たあとアフターの約束をしているのか、所在なく喫煙所で何かを待っている様子の彼も見かけた。「赤スーツさん」は「キャバクラ通いの赤スーツさん」となった。女性は毎回同じ人というわけでもないようだ。

 しかし格別だからどうということもなく。赤いから目立つだけで、少し動向を見守っては私は店の仕事を手伝う、そんな数ヶ月が続いた。




 §





 春日はその夜、いつものようにこの育った街をぷらぷらと歩いているだけだった。塀の中にいた十数年は春日の故郷を大きく変えていたが、なんのことはない、そこにいる人は温かな人たちばかりだった。ただ、近江を除いては。

 ふと天下一通り、通りがかった店の前で口論が聞こえた。思わず足を留めて聞き耳を立ててしまう。
 みかじめ、今日まで、そんなの、うるせえ、出るとこ出てもいいんだぞ……。

 近江連合だった。春日は深くため息をつくと、口論の方へ向かった。……こういうことは警察にしてほしい。尤も、警察もいまはろくに機能していない。しかしこの街を見捨てられない気持ちは、痛いほどわかるのだ。


「おい、そんくらいにしとけや」

 難癖をつけている奴らは、思っているより若いチンピラのような外見をしていた。この様子だと近江と名を出していたのは虎の威を借りていただけかもしれない。

「おう、兄ちゃん……て、春日やないか!」

「おう。なんだよ、流石に知ってんだな」

「あ? おい、春日だ! 殺して兄貴のところ連れてくぞ!」

 まったく。いつもどおりじゃねーか。
 くるくると気持ちだけ手首を回し、春日は彼らの攻撃に備えた。





 おかしい。彼らの強さはそこまでではないが、援軍を呼んでいるのか、倒しても倒しても終わりが見えそうになかった。ただのチンピラだと高を括っていたが、もしかしたらその「兄貴」にまで連絡が行ってしまっているかもしれない。それだけ喧嘩は変に長引いていた。

 一人で相手にするには、少々面倒くさい敵を引いてしまったらしい。

 逃げるも勝ち。
 春日は一区切りつくかという若者のパンチを右へ避けるとそのまま左面を殴り飛ばし、駆け出そうとしたその時だった。

「あぶない!」

 やけに高い叫び声が後方から聞こえたかと思うと、いつの間に後ろに回っていたのか、すぐ背後で男がズシャっと転んだ音がした。

 驚き見遣ると、そこには側面から思い切り倒れた男と、何やら硬そうな金属を持った女がいた。

「これ……姉ちゃんがやったのか?」

「危ないから気を抜かないで」

 いくら鉄パイプで叩かれたといえど、女の手で男一人を薙ぎ倒すことなどできるのだろうか。男は肩を強打したのだろう。脚と肩を抑えて蹲っていた。

「へへ。ありがとうよ」

「別に。」

 強気な女だ。しかし、のんびり礼を述べている暇もなさそうだった。

「姉ちゃん、走れるか」

「え……え?」

 助けてくれたせいでこの子まで追われてはいけない。春日は逸れないよう彼女の手を引っ掴むと追手のいない方へ走り出した。

「ちょっ、ちょっと!」

「わりぃな。安全なところまで行くから付いてきてくれ」

 走り出してすぐ足音を気にしたが、どうやらヒールではないようだ。速度はそのまま、二人は天下一通りを駆けていく。
 空気は美味しくないがひんやりと心地よい。空は徐々に明るんできているようだった。




 §




 すっぽん通りの方へ曲がり、路地裏で一息つく。ほんの少しの間だが、こんなに速く走ったのはいつぶりだろう。――最後に全速力で走ったあのときも、誰かに手を引かれていたような気がする。


「大丈夫か?」

 少々息を上げているだけのスーツの男は、やっとこちらの手を離しこちらの様子を伺っていた。
 私はといえば、仕事終わりにこんなに走るとも思っておらず、ただはあはあと息を荒げながら膝に手をついていた。……しんどい。

「だ、大丈夫です」

 できることならもう少しスピードを落としてほしかったが、安全のために致し方なかったことなのだろう。泣き言を言っても仕方ない。

「ちょっと待ってろ」

 そのまま彼はどこかへ行ってしまった。彼奴等が追ってきていないか見ているのだろうか。待ってろと言われたって、暫くは動くのがしんどそうだ。どこへも行けない。

「ほら、飲めよ」

 すぐに戻ってきた彼に、そのまま何かを手渡された。
 ひんやりとしている。水だった。

「ありがとうございます」

 ひとくち、ふたくち飲むだけで、身体の熱が幾分か楽になった気がした。やっと落ち着いて、息をする。

「お金……いくらでしたか」

「あ? いらねえよ。姉ちゃんが助けてくれたおかげで俺も助かったしな」

 ぽりぽりと頭をかく男の人を、初めて間近で見上げた。
 格好こそ近寄り難いが、毒気のない顔をしている。真っ直ぐに見つめてくる瞳に、ぼんやりと、「この人を好きになってはいけないな」と感じた。

 その瞬間だった。
 何か大きな音が背後からした。私は振り返る隙もなく、ただ見上げたその人の、驚いた顔を最後に、意識を失った。





 §






 頭が痛い。
 ジンジンと、熱く疼いている。

 なんでこんなに痛いんだ。
 無意識のうちにぐっと眉間に力を入れるが、より突っ張って痛みが増した。思わず呻いてしまい、ぐっとシーツを手繰り寄せた。

 知らないシーツの匂い。それに、懐かしい……。

 そこで私の意識は完全に覚醒した。
 ガバッと起き上がると、反動でまた頭が痛む。

「ッツ……」

「おお。起きたか」

 声のした方を見ると、薄暗いライトに照らされ、ソファでタバコを吸っている先程の男がいた。
 ここは。……ここは。

「わあああっ!!」

「ウワアアアアアアッ!!」

 明らかにラブホテルであった。


「何だ! 何だよ!! 急に叫ぶなよ、びっくりしたじゃねぇか!!」

「ひっ……」

 私の叫び声で驚いたらしい男がそのままの勢いで語気を強めた。

 ――服は、着ている。私も彼も着ている。

「す、すみません……」

 ただ頭だけがどうしようもなく痛く、討論をする気も起きなかった。

「はぁ……。いや、すまねぇ、俺も声を荒げちまった。……相当痛むみたいだな」

「はい……」

「後ろから殴られたの、覚えてるか?」

 思い出した。そうか。この頭の痛みは偏頭痛とかではなく、単純に殴られた痛みなのか。
 そっと一番痛いところに触れると、ズキン!と強く痣を押したような痛みが走った。

「ああ……今思い出しました」

「すまん……俺のせいだ。俺がもっと注意しておけば姉ちゃんは痛い目合わずに済んだのにな……」

 バツが悪そうに彼が俯く。
 本当に悪いのは殴ってきた奴だと思う。

「気休めだが、頭痛薬買ってきた。飲めるか?」

「はい。……あの、ここは」

 気遣いに感謝しつつ、しかしここは……やはり彼の家という訳でもなさそうだ。内装がラブホのそれである。

「あ……ああ。姉ちゃん一人寝かせられるところを考えたら、こういうところしか思いつかなくてな。……何もしてねえから安心しろ」

「そうです、か……」

 何となく分かってはいたが、理由がわかりやっと深く息をついた。
 しかし、彼が薬と水を持ってこちらに近づいてくると、何か変な心地がする。……部屋が暗いからだろうか。それとも、久しぶりにこんな場所に男の人といるから、頭でわかった瞬間に落ち着かない気分になっているだけだろうか。

「ほらよ」

 差し出された水と薬を、ありがたく受け取り、一口で飲み干した。先程の水といい、薬といい……追加でこのお部屋の代金。後でちゃんと借りを返さなくては。

「あの……お名前聞いてもいいですか」

「あ? ああ、俺か。俺は春日一番だ」

 春日一番。
 独特の名前だが、見た目にしっくりくる。

「姉ちゃんは?」

「竹中伊織です。……あの、ありがとうございます」

「ん? ああ、いいっていいって。気にすんな。さっきも言ったが、最初に助けてもらったのは俺の方だからな」

 赤スーツのもじゃもじゃさんは、春日一番さん。近江の人と戦ってたから、悪い人じゃない。
 頭の中で認識を変えていく。こわい人じゃなかった。

「あの、私春日さんのことよく見かけてます。私が働いてる店、Spicaの隣で」

「マジかよ。隣ってことは……」

「隣の焼き鳥屋です。煙草屋の真向かいの。」

「あちゃー。なるほどな。するってぇと、伊織ちゃんは俺のこと知ってるのか」

「はい……。あの、良かったら、今度お礼をするので、いつも一緒にいるお姉さんとでも、飲みに来てください」

「あ……ああ。二人で行くかはわからねぇが、今度寄らせてもらうかな」

 どこか落ち着いた会話のテンポに、安心したからか、薬を飲んだからか、少しずつ眠気が増してきた。
 耐えきれず、そのまま横になる。体を動かすと、他にも痛みを訴えているところがあるようだった。倒れたときかな。
 春日さんは遠くに行かず、近くでこちらの様子を伺ってくれているようだった。

「春日さん、お父さんと同じ匂いがする。……煙草かな」

 眠気に乗じて、思考が奪われていく。
 ぽつりぽつりと、思ったことを口に出してしまっていた。

「お父さんか……。そうかもな」

 そういえば、さっき手を引かれて走ったとき。
 お父さんを思い出した。
 遠くへ行ってしまった背中が、目の前に戻ってきた、そんな感覚がしていたんだ。

「親父さん、もしかして亡くなったのか?」

「……うん。もう何年も前だけど」

「そうか。変なこと聞いちまってすまねえな」

「……ううん。久しぶりに、思い出した」

「……」

「ごめんね……眠いの。起こしてね……」


 そっとかけられた毛布に、ありがとう、と口に出せただろうか。懐かしい匂いに包まれながら、私はそのまま急速に深い眠りに落ちていった。

 それが、春日さんと私の出会いだった。






continued?