――まただ。
私の部屋の壁はそんなに薄くないのに、隣の部屋から何かが聞こえる。今までは気づいていなかったのに、半月前に一度大きな壁を殴るような音が聞こえてから過敏に気にしてしまう自分がいる。
(男の人が、住んでいたと思うんだけど)
隣に住んでいると思っていた男は、近所のコンビニで見かけることもある、大柄で強面の男の人だった。とはいえ隣の家から迷惑を被ったこともないので、外見でどうと言うつもりもない。
……この部屋に私が引っ越してきて一年。比較的コンパクトで掃除のしやすい、このアパートが気に入っていた。のに。
壁から漏れ出す音は、昨日聞こえた音と同じようなものだった。
――嬌声だ。男の。
女性ほどキンキンと響かない、でも妙に艶めかしい喘ぎ声が、壁の向こうで踊り狂っている。
いつもならニュースを見終えて歯磨きをする時間だが、隣の情事に気づいてテレビは既に消してしまった。ただ白い部屋明かりの下、ヒタ、と床についた己の足のやけに小さな小指の爪を見つめながら誰かも知らぬ男の色づいた声に神経を集中させる。
時折ごにょごにょと、こちらは何を言っているのか聞こえぬほど低い音が混ざっている。コンビニで見た隣人は、こっちだろうか。
ただの気持ちよさそうな声なら、このまま好きなときに聞いて、好きなときに辞めればよかろうと思った。男性の部屋へ文句を伝えに行くのは、女性の一人暮らしには少々リスクの大きい行動だ。不動産に問い合わせて間接的に伝わったとしても、いつこちらに怒りの矛先が向けられてもおかしくは無い。……が。壁の向こうの嬌声は、時々嫌悪や恐怖の色を乗せていた。
次の日の昼過ぎ。お昼ごはんを食べた食器を洗い終え一息ついたところで、チャイムが鳴った。インターホンを覗くと、見知らぬ男性がそこに立っている。
「はい」
「あの、すみません、隣に住んでるものなんですが……郵便物が間違って入っちゃってたみたいで。……竹中、さんですか?」
「あ、ありがとうございます……! ちょっと待って下さいね」
彼だ。隣で叫んでいるのは、彼だ。
そっと扉を開けると、そこに立っていたのはコンビニで見かけた男性ではなく、ヒョロっと背の高い、さっぱりとした顔の男性だった。へら、と笑っているが、口の端が切れ、左頬を大きなガーゼで覆っていた。
「すみません、いきなり」
「……いえ。わざわざありがとうございます」
大きめの封筒を受け取る。確かに受け取り主も住所も私のものが書かれていた。
「……じゃあ、これで」
スッと頭を下げ横を向いた彼の、首筋に細い痣がくっきりとついていた。
「あ、あの、」
「……はい?」
「よかったら、お茶でもいかがですか?」と問うた自分は、ただこの男性のことを助けたかっただけなんだろうか。
§
「なんだ……じゃあ、彼にはお会いしたことがあるんですね」
同棲していらっしゃるんですか?と尋ねると、暫しぱちくりと瞬きした後に彼はこう言った。
「え、ええ。出入りしている方を、すぐそこのコンビニで何度か見かけたことがあるだけですけど」
「……なるほど」
少しの間沈黙が訪れて、私は手に触れたカップから温かいアールグレイをぞぞ、と口に入れた。
(そりゃ、そうだ。)
隣人に男性同士で同棲しているのですか、と聞かれたら、恋人なんですか、気持ち悪いですね、隣に住んでほしくないです、まで最悪のパターンとして続く言葉が予想できる。返答に困るのは致し方のないことだ。
喉元を過ぎた熱を追ってカップからか、香りを伴った蒸気が胸へ降りていくと、目の前の、馬場さん、はようやく口を開いた。
「実は、数週間前からあまり外に出させてもらえてなくて」
自分のカップを見つめたまま、薄ら笑いを浮かべて続けた。……きっとこれは彼の癖なんだろう。
「昼の間は一人でいられるんですけど……言われたことをやっておかないと、夜、殴られたり、蹴られたりして……」
……また、黙りこくってしまった。
「あの、ばばさん、」
「いえ。……でも、もう大丈夫そうです」
「……え?」
不意に馬場さんが顔をあげた。先ほどの気味の悪い表情ではなく、まっすぐ、ニコッとこちらを見て笑う。……大きな木の下で雨宿りをしている、少年のような目をしている。
「この紅茶、美味しいですね。……何ていう紅茶ですか?」
「ああ……アールグレイですよ」
「アールグレイか……。また、飲みに来ますね」
え?、と応えるより先に、馬場さんはずずいっとそれを飲み干し、立ち上がった。
「ご馳走様でした。……明日は、家にいらっしゃいますか」
「……え? いえ」
「……そうですか。では、おじゃましました」
またあの笑顔をこちらに向け、彼は隣の部屋へと戻っていった。去り際に、二度も大きく笑った口の端から、切れてしまったのか血が滲んでいるのを見送った。
そのまた次の日に、隣人は殺された。
事情聴取で警察に何度か話を聞かれたが、大きな音も聞いていない、コンビニで見かけたことがあるだけだ、と伝えるばかりで、馬場さんのことは遂に口に出せなかった。あの夜の喘ぎ声も、間違って届いた郵便物も、彼が口付けたティーカップも、全てを胸の奥に仕舞って二度と引き出すまいと思っていた。
一ヶ月後、昼過ぎに私の部屋のチャイムが鳴った。インターホンを覗くと、以前と比べて雰囲気の変わった馬場さんがいる。一呼吸置いて、扉を開けた。
「こんにちは」
「こんにちは……あの、お隣さんのことは、ご愁傷様で、」
形式として、言わなくてはと口が勝手に動いた。
「いえ。もう全く気にしていないんです」
馬場さんの口の傷はすっかり言えていた。やはりさっぱりとした、綺麗な顔をしている。
「もう、次を見つけましたから。」
また飲みに来ますと言った彼が、その時の笑顔で笑っていた。
Fin.