日が変わった、夜更け。桐生はちょうどつけ終えた帳簿をリビングの棚へ戻すと、一度うんと伸びた。今日はここまで。子どもたちはすっかり眠りについて、明かりがついているのはこの部屋だけだった。その明かりを消して廊下に出ると、光に慣れていた目が暗闇でぼやぼや、と焦点を合わせた。

「……志郎か?」

 寝室の外へ出て縁側に腰掛けているのは、志郎だった。外の月明かりに照らされて、後ろ手をついて夜空を見上げている。

「おじさん」
 潜めた声で少々申し訳無さそうに呟く。
「眠れないのか?」
「……うん」

 絶え間なく聞こえる波の音と虫の声。静かとは言いがたい外気に、桐生も脚を投げ出した。マメの小屋から鼻先だけが見える。
「……おじさん、星の光って、すごい昔から来てるんだって知ってた?」
「……ん?」
 青白い強い光を放つ星がある。……すごい昔? 残念ながら、何のことかはわからない。遠くから来ているということだろうか。
「今見えてる星の光は、何億年も前の光なんだって」
「……そうなのか」
 志郎は物知りだな。そう伝えると、志郎は小さい身体を少しだけ揺らした。
「そんなに遠くなくていいからさ、もしあそこに僕のお父さんとお母さんがいたら……何年前かの映像を僕はここから見られるのかな」
 志郎は何でもないように呟く。
「……おじさんは、お父さんとお母さんに会いたいと思ったことはなかったの?」
「そうだなあ……」
 あったか。なかったか。志郎くらいの歳の自分を思い出そうとしても、もうパズルの断片のように切り取られた瞬間しか思い出せそうにない。子どもの頃、悲しかった思い出があるだろうか。

「もちろん、思ったさ」
「……ほんと?」
「ああ。……時々どうしても会いたくなることもあった」
「……そっかあ」
 志郎が安心したように、ふーっと息を吐いた。
 桐生の思い出は、こんなにも楽しいものに塗り替えられている。ヒマワリで過ごした毎日。兄弟と、過ごした時間。
「きっと皆そうだ」
 この屋根の下にいるものは、全員そうだ。

「……志郎、まだ起きてたの」
 背後からひた、という足音と共に囁き声が聞こえた。振り返ると、綾子が眠そうな顔のまま立っている。
「明日起きれなくなるよ。おじさんも寝るんだから、」
 ふぁあ、と、そのまま大きく息を吸った。それを見た志郎も、ふぁあ、と続く。
「うん。……おじさん、おやすみなさい」
 眼鏡を外しながら、志郎が立ち上がる。おやすみなさい、と繰り返した綾子がその手を引いて、二人は寝室へと向かった。
「おやすみ」
 その背中に既視感を覚えて、桐生は暫く〈昔の光〉を見つめていた。



 障子から漏れる明るい光に起こされた。……否、起きることになった原因は光でもアラームでもなかった。

「……」
「……太一」

 下半身をタオルケットごと何かに押さえつけられていた。足の甲がぐん、と伸ばされ、人間の温かみを感じる。
「起きちゃった」
 起きたばかりの桐生より更にとぼけた声で太一がぼやく。こんな戯れ方をする歳は、もう卒業したと思っていたんだが。
「おきちゃったじゃないだろ……も……どけっ……」
 脚を思い切りあげようとすると、太一の身体が持ち上がった。……手加減なしでは怪我をしてしまう。キャハハハ、と太一が楽しそうに笑って、こら、と桐生も頬を上げる。と、
「えー、太一何してるの! 私も!」
 すぱーん!と音がして、外から小型動物が飛び込んだ。遠慮を知らない勢いで桐生の腹筋へ飛び込む。うへえっ!っと腹を押された衝動で野太い悲鳴が漏れた。上に乗った泉はその反応を楽しんでいる。
「い、泉……どうしたんだ」
 寝起きに太一、泉。部屋に侵入してくることも珍しい子どもたちが、二人揃って遊びに来ている。そんなに遅起きだったか……? 時計を見たが、まだいつものアラームが鳴る前だった。
「準備してるの」
「あっ、こら、泉」
 太一が優しく咎めた。外では何事かとマメが吠え始めている。
「あっ……マメが吠えてるからお外行ってくるね」
 焦った泉が桐生の肋骨に手を置いてぐいっと起き上がった。ふ、とそこからまた空気が押し出される。
「……おじさん」
 すっかり落ち着いた太一は、それでも桐生の脚を離そうとしなかった。
「昨日、ありがとう」
 ゆっくりと上半身を起こして、やっと太一を見据えた。
「……何の話だ?」
「志郎だよ。なんか悩んでただろ。……俺、よくわかんなくてさ。何もできなかったんだよね」
「……」
 太一は果たして本当に何もできなかったのか。……少なくとも一つ、心配してあげることはできていた。
「わ、おじさんすごい寝癖」
 そう伝えようとした矢先、本人から茶々を入れられて、アラームがようやく鳴り出した。



 ちょっと釣りをして、街にでかけて。買い出しをして。

 そろそろ帰ろうかとモノレールの駅に行く途中、理緒奈とエリ、三雄の同級生組が立っていた。
「あ、おじさん」
 三雄が元気よく腕を振って呼ぶ。
「三人共、どうしたんだ」
「お出かけしてたの。今度学校でグループワークすることになってて、下見」
「……そんなことしてるのか」
「おじさん、重そうだね。一つ持つよ」
 手の空いているエリがトイレットペーパーの袋を指差した。
「あ、ああ」

 三雄はモノレールに乗車すると、運転席の後ろにピタリと張り付いて窓から流れる景色を見ている。
 ゆっくりと日が傾き、モノレールを降りた頃には海だけがその光を湛えていた。

「あ! おじさん! きたきた!」

 あさがおの看板の前に立っていた宏次が、四人を見つけるなり玄関に向かって走り出した。調子を合わせて歩いていたのに、三雄が俄に駆け出してシーサーの間を走り抜ける。

「……どうしたんだ、みんな」
 立ち止まって桐生が呟いた。理緒奈が右腕を取って愉快そうに笑う。
「おじさん、まだ気が付かないの?」
「気が付かない……? 何だ」
「みんなのパーティーだよ」
 エリが柔らかな掌で左手を掴む。
「はやくはやく!」
 宏次が再び顔を出して、走り出した女子二人に引っ張られるように桐生も足を速めた。サンダルと指の間にサラサラと砂が引っかかる。

「お誕生日おめでとう、おじさん」

 あさがおで年に一度、一番大きなお祝い事。
 リビングには料理と今しがた三雄が持ち込んだケーキが並んでいた。出掛けている間に飾り付けられたのだろう、リビングはいつもより華やかになっている。

「おじさん、それから、これ」
 食器を運ぼうとしていた遥が急いで何かを掴むと、パタパタとこちらに駆け寄った。その手には、小さなひまわりの花束が握られている。
「……これは」
「皆が準備してるときに玄関においてあったの。みんなじゃないのって聞いたんだけど、違うみたい」
 ざざん。海の音が大きく響いた気がした。
「……誰だろう」
「……ひまわりだもんね。……誰だろうね」
 誰でもおかしくないな。桐生は困ったように笑う。

「さ、食べるか。待ちきれない奴もいるみたいだしな」
「あ、こら、太一! つまみ食いしちゃだめ!」
 綾子の叫び声をきっかけに、あさがおは笑い声に包まれた。
「お誕生日おめでとう、おじさん」
「ああ。ありがとう」

 この家で、己の誕生日を自信を持って言える者は少ない。○月○日。全員にとって一番大切な誕生日のお祝いが始まった。