繋ぎたかったこの手について


「昔とずっと同じでなくちゃ好きでいられないなんてこと、ないと思うの」
優美な仕草でカップを持ちあげて、彼女は微笑む。
わたしたちをここに招き、わたしたちに新しい世界を見せてくれた力を持つ、鏡士の少女。
彼女は今はここにいない大好きな人を思い浮かべて。一度全部区切りをつけてから、新しい関係を築いていけると思った時、とても嬉しかったのだと、愛らしく笑う。
「好きだから。大好きだから。たとえ始まりが植え付けられたもので、嘘だったとしても。本当に、大好きだったから。だから一度、手を離したの。そして私たちは、今の私たちとして、新しく関係を築いていく。そう決めたのよ」
愛おしそうに彼女は言うけれど、カップの中で揺れる水面に映るわたしは、浮かない顔をしている。
知らない世界に来ることは、恐ろしいだけじゃないことを知っている。関係に区切りをつけて、覚悟して、新しい関係にならなくてはいけないことの大切さも、もちろん知っている。
でも、わたしのそれらはとても苦しい気持ちが最初にあったから。知らない世界に放り出される心細さも、かつてと違う関係にならざるを得ないことの悔しさも知っているから。
だから、たおやかに微笑む彼女に、そうだね、とすぐに笑って返すことができない。
「……新しく始めること、怖くなかったの?」
願う通りにはならないかもしれない。あの時のように笑い合えないかもしれない。また、この手を取りあえない悲しみを味わうことになるかもしれない。
そう思ったら、穏やかな気持ちではいられないのだと、そう言えば。
彼女は、やっぱり。とても綺麗に笑った。





ぼんやりと草原に寝そべって見上げる空は、わたしの知らない空だ。
空に違いなんてあるのと問われると、上手な返答はできないけれど。実際、ここはわたしがもともと住んでいた地球でも、シルヴァラントでもテセアラでもないのだから、ぼんやりとした違和感を覚えるのはむしろ自然なことだった。
ティル・ナ・ノーグと呼ばれる世界について、わたしは正直、あまり詳しくは知らない。知らない間に具現化されたわたしは他の事情を知る人たちとなかなか合流できなかったこともあり、この世界で起きていた事件に巻き込まれることもなかったのだ。
気付いたら別の世界にいた、ということを、すでに一度経験してしまっていたことも原因だろう。わたしは寂しさとか悲しさとかを抱きながらも、こうなったら戻る方法がわかるまではここで暮らすしかないのだと早々に覚悟を決めてしまった。
幸い、使っている文字や言葉がそれまで使用していたものと同じだったので安心して、とりあえず近くの町で暮らせるようにといろいろ頑張って。それなりに馴染んで。離れたところでは帝国に反乱した人たちとの戦いが起きているらしいと聞いては、どうかこの町の人達が戦火に巻き込まれませんようにと願ってはのんきに生活していた。
ただ。その帝国の皇帝が斃れて。大きな戦いは終わって。その後も続く小さな諍いのためにあちこち飛び回っている救世軍という人たちに出会って。資料で見たことあるけどもしかしてこの世界じゃないところから来た人かと問われて。あれよあれよという間に、一緒に旅をしていたロイドたちに再会しては、ここにはいろんな世界から人がやってきていて、自分も彼らと同じように、この世界に具現化されていたのだという事実を知った。
いわばエピローグも終わった後の番外編。ダウンロードコンテンツとかで配信される後日談とかそこらへんの時間軸でようやっと主要メンバーと合流するという、あまりにも遅すぎる参戦となったのである。
戦時中に役に立てるとは思えないから、そこは別にいいけれど……どうにも、ここにいるわたしたちは、あの世界を旅していたわたしたちとは厳密には違っているらしい。そして、周りも前提も全部違うからと、元の世界では手を取れなかった人たちとも手を取る人たちが多くいるのも、このふわふわと落ち着かない夢見心地の原因の一つだ。
だって、その中に、わたしがどうしても手を取り合いたくてたまらなかった人もいる。
その子と、ロイドが。この世界では真正面から手を取り合って協力した。ジーニアスとも仲直りして、彼以外にも年の近い友達ができたと聞いた。そして、なにより……彼の大事な姉であるマーテルさんもこの世界の技術と具現化の力によって、生きて、存在している。
それらの事実があまりにも都合が良すぎて、わたしは夢を見ているのかなあ、なんて。今日もそんなことを思いながら、ぼんやりと空を眺めていた。

「おわっ?」
ぼうっとしていると、急に視界が色鮮やかになる。
別に視界がおかしくなったわけではない。急に顔の上に花弁が落ちてきたのだ。それはもう、色とりどりの花弁が視界を埋め尽くすものだから、わたしはびっくりして思わず起き上がる。
はらりとなおも頭から落ちる花に目を白黒させていると、隣からくすくすと笑う声がした。
わたしの上に花弁を散らした犯人はひょっこりと顔をのぞかせると、悪戯っぽく目を細めた。
「起きた?」
「……ミトスくん、ずいぶん集めたねえ」
いきなり人の頭上に花弁を散らせた犯人であるミトスくんはまあね、とだけ答えて隣に座る。
その仕草は、以前アルテスタさんのところでお世話になっていた「ミトス」よりも堂々として、でもちょっとだけ、自棄になっているようにも見えた。
「それで? 姉さまがウキウキで夕飯に招待したのに、キミはこんなところで何をしているのさ」
「うーん……大地を感じてた?」
「なにそれ」
夕飯に招待してもらったと言っても、今はまだ午後の穏やかな時間だ。まだ日は高いところにあるし、早くおいでと急かされるほどの時間ではない。
まあ、だからって、早く訪れてはいけない理由もない。むしろマーテルさんはわたしといろんな話をしたがっているみたいだから、早く訪れて、食事の前にお茶でも飲みながら、ゆっくりと過ごした方がいいのだろう。
それはわかる、のだけれど。
たぶん、嬉しくて泣いちゃいそうだから、早めに行くのはまだやめよう、と思ってしまっていた。
だって、死んでしまったと、もう会えないと思った人がそこにいて、元気に笑っていて、わたしのために何かをしてくれている光景とか、そんなの感極まって泣いてしまうに決まっている。もう見れないと思っていた大好きな笑顔を向けられたら、きっと話をするどころじゃない。
そう思うとちょっと恥ずかしいと言うか、抵抗があると言うか。あまり早くに行って泣いて困らせるのもなあと思ってしまうのだ。
でもそんなことを言ったら、別に今さらだしいくらでも泣いていいんじゃないと言われそうなので、わたしは特に答えず、再びぽすりと横になった。
「ここも、綺麗だよね」
「……そうだね。姉さまも好きだって言ってた」
柔らかな風が頬を撫でて、先ほどまでわたしの上に落ちていた花弁をさらっていく。
ひらひら。ゆらゆら。涼やかな風が連れていく色は、陽光を浴びてさらにきらきらとまたたく。綺麗だ。本当に。優しくて、穏やか。

「……キミは、やっぱり、ボクのこと許せない?」
ぽつりと。
問いかける言葉は、風に紛れてしまいそうなほど小さな声だった。
「ずっとぼんやりしてるでしょ。姉さまと会った時は嬉しそうだったけど、あんまり一緒にいてくれないし。……避けられる理由に心当たりがありすぎるから、そんなことないなんて言葉は求めてないんだけど」
「つまり適当な言い訳はするなってこと?」
「そうだよ」
視線を合わせないまま続く言葉に、避けているつもりではなかったんだけどな、と小さく息を吐く。

彼とわたしは、具現化されたタイミングが違かった。
ううん、正確には、わたしだけが遅い。みんなはこれから救いの塔に行くところで具現化されたと言っていたけれど、わたしはその救いの塔で起きることを知っている。その戦いを終えた後、オリジンの封印を開放しなければとトレントの森に行く前。そこが、わたしの具現化された時間だ。
だから、わたしは彼が手を取ってくれなかったことを知っている。わたしやジーニアスではなく、マーテルさんを選んだことを知っている。
だから、確かに……確かに少しだけ、気後れしてしまっている部分は、あったかもしれない。だからって避けているつもりはないが、その微妙な態度を、そう受け取られてしまっても仕方ないだろう。
「……二人に会えたことは嬉しいよ。もう戦わなくていいんだなって思うと、もっと嬉しい。知らない間に結婚式してたのは一生許さないけど……それはまあ、後で写真見せてもらったからいいや」
「姉さまも言ってたけど、どうしても見たいならドレスもまだあるよ」
「そうだね。どこかで着てもらおうかな。ただ、うーん、なんだろう……なんか、ぽやぽやしてるっていうか、夢心地っていうか……そっかあ、状況がそろえば、戦わないって選択肢、本当に選んでもらえるんだなあ、って。なんか、気が抜けちゃってぼーっとしてる感じ?」
四千年の積み重ねにはどうしても勝てなくて、手を握り続けることができなかったことが悔しかった。そして、この世界にいたわたしたちよりもっと未来のシルヴァラントとテセアラから来た人達の話を聞く限り、やっぱりわたしたちは手を取り合えなかったみたいだったから、悲しかった。
だからこそ、こうして、ぼんやりと二人で過ごす時間というのが、奇跡みたいでなかなか飲み込めない。
嬉しいと思う。
よかったって思う。
わたしの大好きな人たちと、わたしの大好きな仲間たちが同じ世界で同じ方向を見て過ごしている。
戦わず、ありのままで、一緒に過ごしている。
泣きたいくらい嬉しい世界だ。泣きたいくらい、喜ばしい状況だ。それなのにぼんやりとしてしまうのは未だに夢見心地であるのと、たぶん。それならもっと、と。さらに欲張ってしまう心が理由だ。
「どちらかというと、マーテルさんはすぐに会いに来てくれたのに、君はなかなか会おうとしてくれなかったから拗ねているのかも……」
「その後ロイドたちのせいでわりとすぐに会ったでしょ」
「そうだけどさあ」
最初にこの世界の情報を教えてくれたのは見知らぬ世界の人達だったし。ロイドたちが気をまわしてくれなかったら、ミトスくんはいろいろと理由を着けて会いに来てくれなさそうだったし。どうせ迎えに来てくれるなら、一番に来てくれるくらいしてほしかったなあ、なんて冗談交じりで言えば、彼が気まずそうにしているのが背中だけ見ていてもわかった。
「……会いづらかった気持ちもわかってほしいんだけど」
「それはわかるよ。だから脱力中。心配かけてごめんね」
「別に……そうだね。心配してるよ。キミの仲間も、姉さまもボクも」
元気がないみたいだって、みんな言ってる。
その言葉にきっと嘘はないだろう。みんな優しい人達だ。だからこそ、わたしとミトスくんがもう一度会えるように、話せるように、いろいろと気をまわしてくれたのだと知っている。
ちゃんと目を見て話していいんだって。この知らない世界でなら、この手を取ることができるはずだからって。そう笑っていたロイドを思い出して、わたしはいつも心配をかけているなあ、とこっそりと笑った。

「ほら、そろそろ行こう。姉さまが待ってる」
座っていた彼がよいしょと立ち上がって、こちらを振り返る。
まっすぐわたしを見て、手を差し伸べて。行こう、と言う彼の向こうに太陽が見えて、なんだかまぶしい。それでもその手を取れば、なんだかその手が熱くて、思わずじっと見てしまった。
見た目は繊細そうなのに、皮膚が硬くて剣を持つ人の手をしている。だから熱いのだろうか。それとも、わたしと手を繋いだからかな、なんて。さすがにそれは自惚れすぎか。
「……ふふ」
「なに、急に笑って」
「んー……」
手を引かれて立ち上がった時に笑ってしまえば、彼は怪訝そうに首を傾げる。
視線が近い。すぐ近くにいる。手を握って、目の前にいる。

──新しく始めること、怖くなかったの?
少し前。そう問いかけたわたしを見るミリーナのことを思い出す。
かつてのような関係になれるとは限らない。またこの手は離れてしまうかもしれない。大好きだって、そばにいてって言っても、それ以上に大切なもののためにわたしの手を振り払って、遠くへ行ってしまうかもしれない。
そうはならなかったとしても、環境が違いすぎる。どうしたって、わたしたちの関係は別のものになってしまう。あの頃のままではいられない。それは恐ろしいことだと思わなかったかと、わたしにいろんな事情を説明してくれた彼女に問いかける。
不安でいっぱいの言葉を聞いた彼女は、けれどとても綺麗にほほ笑んでいた。
怖かったわと、泣いてしまったわと、そう言って目を伏せて。
でもね、と。次の瞬間には、まっすぐな目で、わたしを見ていた。

──手を繋いだら、そんなもの、どこかへ行ってしまったわ
──だって、好きな人と手を繋ぐって、それだけですごく幸せな気持ちになるもの

あなたは違うの、と問いかけてきた彼女を。ミリーナのことを、思い出して。わたしは、じっと繋がれた手を見る。
そうだね。すごく、嬉しいな。あの時繋げなかった手を繋いでいると思うと、なんだか抱えていたはずのいろんな気持ちが、どこかへ飛んで行ってしまう。
たったこれだけで、勝手に表情が笑顔になってしまうくらい、幸せな気持ちになってしまう。
それになにより、表情をゆるゆると緩めるばかりのわたしを不思議そうに見るミトスくんの目は、今日もまっすぐにわたしを見ているから。
わたしは素直に手を握り返して、うんと気持ちを込めて笑った。
「ちょっと、嬉しくなっちゃっただけだよ」
君の手を握っていいのだと、そう思ったら。
この世界でまた新しく頑張るのも、きっと素敵なことだろうなって、思えたから。




index.