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この村の東端には、眠りの森と呼ばれる森がある。
とても暗い場所で、危ないから入ってはいけないよと、小さい頃から言い聞かせられている深い森。その手前にあるのが、あたしの目的地である湖だ。湖底にある水草の姿もはっきりと見えるくらいに透き通った水は、数か月前に来た時と同じようにきらきらと光を反射している。それを見るたびに、あたしはわあ、と気分が高揚するのがわかった。
ここは他の場所より少し気温が低い。それでいてどこか呼吸もしやすいから、好き。でもここまで歩いてくるだけですごく疲れてしまうから、本当に体調がいい時にしか来れないのが難点だ。シオも楽しそうに周りを駆け回り出したのを見て、あたしは思わず笑い声を零した。
「……あれ?」
ふと、湖のほとりに、誰かがいるのが見えて首を傾げる。別にここはあたししか来ないわけでもないし、村の人が訪れることも多いのだけど。その人は見たことがない、知らない人だから、誰だろうと純粋に不思議に思った。
長い、綺麗な茶色の髪。前の開いた青いケープを羽織る女の人は、湖の中心の方を見ながらぼうっと風に吹かれている。誰だろう。何故だか目が離せない。話しかけてもいいのかな。そう考えている間に、ばう、と楽しそうにシオが走り出したのが見えて、慌てて呼び止めた。
「あっ、シオ!」
でも、もう遅い。あたしが名前を呼んだ時にはとっくに女の人の近くにたどり着いてしまっていて、そのまま楽しそうにその人に向かって飛びつく。
……シオは、結構大きい犬だから。突然とびかかられて、おねーさんはぱちりと目をしばたたかせて。そのまま、どぼんと大きな音を立てて一緒に湖へと落ちた。
「わーっ!」
慌てて駆け寄るけど、もちろんあたしは泳げないので中には入れない。どうしよう、どうやって助けよう。人を呼びに行く前に自分が倒れてしまいそうだ。
おろおろと、ただシオを呼ぶことしかできずにいれば、ざばりとシオとおねーさんが顔を出す。どうやらおねーさんの足はちゃんと底につくらしい。楽しそうにハッハッと舌を出て、ぶんぶんと大きく尻尾を振るシオを片手で撫でながら、その人はこちらへとゆっくりと移動してきた。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
「はい、大丈夫です。思ったより浅かったので」
元気な子ですね、と。どこかぎこちなく笑う表情に、気を使わせてしまっていると直感してあわあわとうろたえる。ぎゅう、と軽く絞るだけで水が落ちる長い髪に、なんだか泣きそうなくらい申し訳なくなってしまった。
足元でぶるぶると水を飛ばすシオは、たぶんまったく反省していない。尻尾なんてもう残像しか見えない。いつもなら「こら!」と叱るだけで申し訳なさそうにするのに、今日はぐるぐるとおねーさんの足元を回るだけだ。何かが嬉しいらしい。一緒に遊んでもらえたとでも思っているのだろうか。
「あ、あの、本当にごめんなさい。いつもは人に飛びついたりしないんだけど……」
「気にしないでください」
「いいえ! 気にします!」
「風邪、ひいちゃうといけないし……あの、お詫びにタオルとか貸します。その、ええと、」
こんな風に迷惑をかけることは初めてで、何を言えばいいかわからない。せめて濡れた服をどうにかしたくてそう言えば、その人は少し困ったように眉を下げて。ぐいぐいとケープを引っ張るシオの頭を撫でながら、やんわりと目を細めて微笑んだ。
「わかりました。では、お言葉に甘えて、タオルを貸してもらいますね」
それはたぶん、あたしに気を使ってくれたがゆえの言葉のだろう。優しい人だ。さっき慌てて、心拍数が上がったせいだろうか。未だにドキドキとしたままの心臓をぎゅっと抑えて、あたしはおずおずとおねーさんの手を引いた。
「家はこっちで……あ、あの、そうだ、お名前……」
「名前……は、秋帆と言います」
「あきほさん」
「ここからずいぶんと離れたところの出身なので、あまり馴染まない響きかもしれないですね」
呼びづらかったらごめんなさい、と謝れられて、慌ててぶんぶんと首を横に振る。確かに、少し聞き慣れない響きだけど、呼びづらいなんてことはない。それに、すごく素敵だと思う。どう素敵なのか説明しろと言われたら難しいけれど、あたしはとても好きだと思った。
それにしても、ここが田舎とはいえ、世界の情勢的にも地理的にも世界の中心と言われる本土にある村だ。それなのに「ずいぶんと離れた場所」という表現を使うなんて、秋帆さんは帝国の外の出身なのだろうか。でも外国って言ったら、あまり交流がないというオラシオンくらいしか知らない。あそこはほとんど鎖国状態って聞くから、いまいちピンとこないけど。
あたしもシオと一緒に名乗れば、彼女はやっぱり柔らかく笑ってくれる。笑うのに慣れてないのか、ぎこちなさはなかなか抜けないけど。それでも、シオと三人で歩く道が楽しいと思うくらいには、秋帆さんの隣は安心するような気がした。
「秋帆さんは、旅をしているんですか?」
「はい。このユークロニア帝国の全領土を回る予定です」
「全部を? すごい……!」
あたしの住むこのユークロニア帝国は、この本土を中心に東西南北に四つの領地が広がっている。本土と合わせて五つの領土でできているユークロニア帝国は、当然とっても広いから、歩いて旅をするのはとってもとっても大変だ。だから、それをあっさり、当たり前のようにすべて回るつもりだと言われてあたしはただひたすらに驚いた。
全国を回る人なんて、各地に派遣されている騎士団の人とか、それぞれの地にある精霊たちの王様や神秘が祀られている遺跡を巡礼する人くらいしかいない。でも巡礼者は多いようで少ないんだよね、とアーリィが話していたし、やっぱりとても珍しいのだ。さらにこんな村にまで立ち寄っているなんて、ものすごい根性だ。
秋帆さんはなんだか落ち着いているというか物静かで、先ほどまでいた湖みたいに穏やかな人に見えるから、とても意外だ。あたしはうわあ、と思わずはしゃいだ声を零すことを止められない。
「ファルファッラさんは、旅に興味が?」
「う、うん! 村の外にも行ったことないから、気になる」
自分の体の貧弱さは自分が一番よくわかっている。たまにお仕事でママが帝都に行くこともあったけれど、あたしは一緒に行けたことなんて一度もない。馬車の中で酔ってしまうのは間違いないし、そもそも外に行けるという期待で熱を出してしまうのがオチだ。
あたしは、この村から外に出ることなんてきっとない。少しでも環境が変われば寝込んでしまう自信もある。だから旅をするなんて夢のまた夢だ。こればっかりは、仕方ない。
「……ここに寄ったのは、眠りの森に興味があったからなんです」
入れませんでしたけど、と話し出した秋帆さんは、きっと話題を変えてくれたのだろう。あんまり表情豊かな人ではないけれど、ずっとこちらを気にかけてくれているのがわかる。
優しいな、と思って。じゃあその話題にあたしも乗らなきゃ、と思って。いったい何の用事があったんですかと問いかけようと口を開いた時だった。
「うわあ!?」
急に眩しい光が辺りを包んだかと思うと、ドォンッと大きな音がして地面が揺れる。思わずしゃがんでシオを抱き寄せたところで、バリバリと雷みたいな音が響くのがわかった。
でも雨なんて降ってないし、空だって雨雲一つない。興奮して吠え出したシオの背中を撫でながらきょろきょろと辺りを見回すと、あたしたちが歩いていた道の先。あたしの家の方から、もくもくと煙が立ち上っているのが見えて、目の前がくらりとした。
「な、なに……?」
「ファルさん」
青くなって震えるあたしを慰めるように、隣で膝をついた秋帆さんがそっと肩を抱き寄せてくれる。少しだけ強張った顔で、心配そうにあたしを見つめて。優しく背中を撫でた後、安心させるようにゆるりと表情を緩めた。
「様子を見てきます。ここで待っていてください」
「ま……まって、いく。あたしも、いく。たぶん、その、家の方、だから、」
行ったところで何ができるわけでもないけれど、ただ不安でうずくまっているよりは楽になれる気がして、秋帆さんにそうお願いする。
振り払うのは簡単だけど、彼女はそんなことはしないという確信があった。それに、もう今にも倒れそうなくらい顔色が悪くなっている自覚がある。ここに置いて行っても、行かなくても、勝手に倒れる可能性がある。
だからついていきたい、と袖を握れば、秋帆さんは迷うように瞳を揺らしていたけれど。やがて、ぎゅ、と手を握ってくれた。
「……手を」
「う、うん」
ゆっくりと立ち上がって、秋帆さんと手を繋いで家へと向かう。シオも、興奮して吠えていたわりには、あたしの傍から離れずぴったりと横について歩いてくれた。
歩くたびに、なんだか変な感じがする。胸騒ぎどころじゃない。体がぴりぴりと痺れているような気がする。目の前がたまにちかちかとして、秋帆さんの手を握っているはずなのに、その感覚すらわからなくなるような気がした。
それでも必死に歩けば、やがて家へとたどり着く。あの雷が落ちたのだろか。壁の一部が吹き飛んでいて、中の様子が見える。その中で、ママがぐったりとしたパパを守るように抱きしめているのが見えた。
「パパ、ママ!」
思わず飛び出そうとして、秋帆さんとシオにぐっと手とスカートを引かれて立ち止まる。それでも目を離せずにいれば、二人の近くで、まるで庇うようにアーリィが両手を広げて立っていることに気付いた。
その、視線の先。敵意をぶつけられているはずのその人。ううん、きっと害意をぶつけてきただろうその人の背中が、あたしの視界に入る。きっちりとしたジャケットにあまり似合わない黄色いマフラーが、風に揺れているのがやけに目に映った。
「っ、ファル! 来ちゃだめだ!」
「おや、娘さんですか?」
アーリィの声につられるように、ちらりとこちらを見た目は、何故だかその色がわからない。見えないのではなくて、とても薄暗く感じられて、ぞくりとした。こわい、と、思った。
きっと状況からして、彼がこの騒動の原因なのは間違いない。彼があの雷を落として、パパに怪我をさせて、アーリィを怒らせている。どうして。何が目的で。でもそれ以上に、その目がたまらなく怖くて、あたしは思わず秋帆さんにしがみついた。
「……うちの夫だけでなく、娘まで怪我をさせるつもり?」
「必要とあらば」
「必要なことのわけがないでしょ」
「必要ですよ。貴女を脅すための道具になるなら」
あたしから注意をそらすためか、ママが挑発的に笑って声をかける。それに謎のおにーさんはどこかわざとらしい笑顔を返した。やたらと綺麗な所作で腰を折ると、ダンスか何かに誘うみたいに、ママに向かって手を伸ばす。
「私が欲しいのはあくまで貴女の魂ですよ、ドクターアーロス。光の獣に出会ってなお帰還することのできた、稀有な魂。私にはそれが必要なのです。ですからどうか、私の役に立ってはくれませんか」
「人の魂が欲しいなんて言われて、はいいいですよって言うわけないじゃない」
魂って、何の話をしているのだろう。いったい何が起きているのだろう。
ただ怖くて秋帆さんにしがみつく力を強くすれば、彼女は片手でぎゅ、と抱きしめてくれて。それからゆっくりと手を解くと、あたしを隠すみたいに前に出た。
「その強い雷……あなたはアネストの者ですね」
秋帆さんの静かで力強い声に、おにーさんがすうっと目を細めてこちらを振り返る。
あのわざとらしい笑みも引っ込めて、表情を落として。じっとりとした目で秋帆さんを視界にとらえた彼が何を考えているのか、何もわからない。
「貴女は?」
「その方の魂を使っても、代わりになんてなりませんよ。それくらい、わかっていると思いますけど」
相手の質問に答えないばかりか、蔑みを含むような秋帆さんの言葉に、彼はにっこりと笑う。そうしてどこからから取り出した、何かの角みたいな形をした杖を軽く振った。
「雷霆」
「ひぅ!」
彼の言葉が聞こえると同時に、閃光が目の前を白くする。こちらに向かって攻撃を仕掛けてきたのだ。そう理解して、ぎゅうぎゅうとシオを抱きしめる。
でも、いつまでも経っても痛みも何もなくて。恐る恐る目を開けば、杖のようなものを持って立つ秋帆さんの背中が見えた。どうやら彼女が守ってくれたらしい。彼女の背中越しに見えるおにーさんは、珍しそうに目を丸くしていた。
「それは……ああ、なるほど。そういうことか」
くつくつと肩を震わせる彼の後ろで、アーリィたちがじわじわと後退していることに気付く。今なら。秋帆さんに意識を向けている今なら、あっちに行けるかもしれない。
そろり。すっかり震えている足を動かそうとする。けれど立ち上がる前に、再び閃光が目の前を走って、当たってもいないのに思わず痛い、と目を閉じた。
「どうやらやっと運が味方してくれたみたいだな!」
先ほどまでの紳士ぶったような声ではなく、歓喜を堪えるような声と共に、ぎらぎらとした目で笑みを浮かべる。バチバチと周りに火花が飛び散って、まるでおにーさんの感情がそのまま漏れ出しているみたいに、笑い声に合わせて爆ぜる音に耳を塞いだ。
「わ、わわっ……!」
「ああ、安心してください、お嬢さん」
零れた悲鳴に、急に優しそうな声色が落ちてくる。
怯えさせている張本人なのに。この事態の原因なのに。急降下する態度はさらに恐怖を煽るだけなのに。まるであたしを巻き込まれた可愛そうな子供として憐れむみたいに、綺麗な笑みが向けられる。
それがたまらなく、ざわざわした。
「貴女のお母様よりも役に立ちそうな人を見つけたので」
次の瞬間、おにーさんの魔法と秋帆さんが魔法で作ったらしい障壁がぶつかり合う。目が悪くなりそうなほど点滅する光の中で、紫電がバリバリと音を立てて秋帆さんに襲い掛かってくるのが見えた。
けれど、秋帆さんはまったく動じることなく杖を振るう。杖の先に届く前に、何かに吸い込まれるみたいにして稲妻が消えていく。代わりに名残惜しそうに風だけが強く吹き付けてきて、理屈はわからないがおにーさんのすべての魔法を消しているらしいことだけがわかった。
初めて見る魔法のぶつかり合いは、純粋に怖い。けれど、あたしがいくら怖がっても二人には関係ない。おにーさんは小さく舌打ちをすると、さっと空を撫でるように左手を振るって、何かをつぶやく。それが魔法の効果を強めるための呪文の詠唱、ということをあたしが知ったのは、もっと後の話だ。
「閃光。瞬き。刹那の稲光」
「かの大魔術師の関係者のわりに、ずいぶんと粗削りな魔法ですね」
「うるせえよ」
低い声が響く。秋帆さんに直接攻撃しても無駄だと悟ったのか、近くの木に雷が落ちて、秋帆さんに向かって倒れてくるのが見えた。秋帆さん、と呼ぼうとしたけれど、びりり、舌が痺れて上手に言葉が出ない。
それだけでも何かを察してくれたのか、ちらりと秋帆さんがこちらを見た。彼女はけれど、そのまま振り返るようなことはしなくて、あくまでおにーさんと睨み合ったまま、ただ杖を握りなおす。杖の先と木の後ろに、ぶぅんと鈍い音を立てて黒い魔法陣のようなものが浮かび上がって、そこに向かって光弾を撃ち込んだ。それはいつの間にか、上空に現れていた魔法陣から飛び出してきて、倒れそうだった木が光に貫かれて真っ二つになった。
これで、こちらには倒れてこない。でも、撃ち合った魔法は小さな火花となって爆ぜて、あたしの方に飛んでくる。あたしはもちろん、動けない。
「っ、猛き焔よ!」
ごうと、目の前を炎の壁が目の前を塞ぐ。これはアーリィの魔法だ。声も聞こえたから間違いない。ばちん、と音を立てて、守ってくれる。
けれど。
「あ、」
眩しくて、痛くて。けれどもう、目を閉じることすらできないくらいに真っ白な光が、炎の壁から溢れてくる。吸い込んだ火花に煽られるみたいに。撃ち込んだ光を拒むように。強いばかりの光が、辺りを包んで。
しまった、という誰かの声を最後に、視界が暗転した。