魔法少女は立ち止まりたくない

絢瀬陽葵あやせひまりは、明るく優しく礼儀正しく、頼みごとを断ることをしないどころか、人の手を引いて歩くような強い女の子である。
それでいて芯は強くて、本当に嫌なことはちゃんと断るし、怒るし、でもすぐに許してしまうような子。どちらかというと引っ込み思案な男の子だった「姫野まき」は、彼女に手を引かれてばかりだった。彼女に憧れるようになるのは当然のことで、いつか彼女を支えてあげられるような、そんな人になりたいな、大好きだな、なんて、思うようになったのも自然なこと。
きっと「俺」は、陽葵のことが特別に好きだった。できればずっと、大人になっても、彼女のことを好きでいたいって、思っていたのだけれど。

(まさか、陽葵の体と中身が入れ替わって、五年も陽葵のふりをして生きることになるとは思わなかったなあ)

思わず落ちそうになった苦笑とため息は、誰にも聞かれないようにとなんとか飲み込む。そうすることは、自分で決めたことだ。だから、少しでも困ったような顔を見せてはいけない。
五年前。まだ九歳だった時。陽葵を助けようとして、逆に助けられて。気付けば自分は陽葵の体を動かしているし、肝心の陽葵の意識がどこにあるのかもわからなくなっていた時はわけがわからなかった。
それからいろいろあって、魔法少女として陽葵の魂を探しながら陽葵に体を返すための方法を探そう、と決めたけれど。最初のうちは「女の子」というもの自体がわからなくてよくパニックになったものだ。男の子として九年間生きてきたとはいえ、それまでは男女の違いなんてわかっているようでわかっていなかった年齢だ。なんか自分より力が弱いことが多いな〜とか、おしゃべりだなあとか、少し思ったくらい。だから、慣れてきてしまえば女の子をするのも難しくなくなってきた。
とはいえさすがに、もともと自分たちを知っている人にはバレてしまうかもしれないと怯えていたけれど。
何をどう言いくるめたのか、姉さん(これは俺の姉さん、という意味だ。陽葵は一人っ子だから姉なんていない。まあ、俺も姉さんに会ったのは九歳の時が初めてなんだけど)が陽葵を彼女の実家から引き取って、自分の保護下に入れたと同時に隣の市へと引っ越してくれたので、もともとの知り合いなんていなくなった。

新しい場所から再スタート。
きっとここで、「絢瀬陽葵」でも「姫野槙」でもない、新しい人生を始めることだってできただろう。きっとその方がよかった。陽葵が望んでくれたのは、きっとそういう未来だった。でも「俺」はそんなこと許せなかったから。絶対に彼女に体を返すのだと、そう決めたのだ。
彼女の癖を思い出して再現する。心臓をバクバク言わせながらもなるべく前に出て行動することを心がける。ちょっと自分が嫌だなと思っても、陽葵なら受け入れるようなことならいいよと答えて、女の子らしく振る舞って。そうして、自分が隣で見てきた「絢瀬陽葵」を再現して生きてきた。
もう慣れっこだ。もうそんなに意識しなくても、私は自然と「絢瀬陽葵」として振る舞える。だからきっと、急に彼女に体を返したって、大きな問題にはならない。あの頃の陽葵が戻ってきたら、そのまま走り出せるはずだ。大事なことはノートにもまとめてあるし、すぐに陽葵の人生を再スタートすることができるはず。
そのために私は、ずっと陽葵のふりをしてきたのだ。彼女の体を、五年という時間を奪ってしまったことの罪滅ぼしとして。私は、陽葵であり続けるのだ。彼女に体を返すまで、ずっと。

だから、ずっと他人のふりをするのは少し窮屈、とか。
自分ではない誰かになり切り続けるのは疲れた、とか。そんなこと。
絶対の、絶対に、思ってはいけないのだ。


「どうしよう……」
てくてく。てくてく。あてもなく町を歩きながら、私は耐えきれずにため息を吐く。
ため息は嫌いだ。あんまりしたくない。陽葵もあまりしているのを見たことがなかったし、なんとなく「今自分は無理をしている」と認めてしまうような気がするから。ため息の数だけ幸せが逃げるとも聞くし、できればしたくない、のだけれど。
今日はダメだ。今日は仕方ない。だって、いつも絶対に弱音は吐かないとか、自分が決めたことなんだからと強がっているけれど、どう頑張っても、どこまで行っても、私と陽葵は別人なのだ。得意なことも違えば好きなものだって違うのが当然で、わかってあげられないことだって多い。

たとえば、陽葵は小さい猫が好きだ。一方で私は、大きな犬が好き。なんでも大きいのはいいことだ。
たとえば、陽葵は遊園地で絶叫系とかに乗るのが好きで、私は水族館とかでのんびりするのが好き。
たとえば、陽葵は疲れたら気分転換に外に散歩に出るのが好きで、私は疲れたら部屋でゆっくりするのが好き。
その違いを無理やり無視してどうにかこうにかしてきたけれど。その積み重ねに、最近はどうにも疲れてしまっている。疲れている、と思ってしまう。疲れたならどこかに散歩に行くのが正しい。そう言い聞かせて外に出たけれど、どこに行けばいいのかわからなくなって困っているのが、今。

とにかくとにかく、となんとか外に出たけれど、もうそれだけで重労働だ。申し訳ないけど私はインドア派で、陽葵とは違う。気分転換に外へって、どこに行けばいいのかわからない。
こんなことでため息を吐くなと言いたいけれど、一人で遊びに行くところが上手に思いつかないのだ。かといって友達を誘うには突然すぎる。どうにかして、外で、散歩をしつつ、のんびりする方法を考えるけれど、結局どこかでぼーっと座っていたいという「私」の欲求ばかりが浮かんできてしまってなんとも歯がゆい。
違うのに。いつもならもう少し、上手に陽葵でいられるのに。多少、私の願望や決めつけも入っているだろうけど、たまーにうっかり以前の友達に会っても不思議がられない程度には、ちゃんと陽葵らしく過ごせているのに。
今日はダメ。ダメだ。なんでだろう。小学校を卒業する少し前くらいからそういうことが増えた。いろんなことが下手になったような気がして、またため息。
もしかしたら、先日ぶつかった悪の組織の「ウサちゃん」に久しぶりに負けてしまったのも理由かもしれない。別に絶対に私が勝つように決まっているわけではないのだ。普通に油断すれば負けるし、負けたら罰ゲームみたいなものがある。と言っても、本当にただの「罰ゲーム」なので、危ないことも痛いこともないけど。
今回だって、ウサちゃんのご要望はファッションショーだ。なんでも可愛い服をいっぱい見つけて、どうしても魔法少女に着せたくてたまらなくて、頑張ったらしい。コスプレみたいなものからふわふわなもの、ちょっとかっこいいもの、といろいろと着た。それ自体は、別に問題なかったけど。いちいち着替えるごとにウサちゃんとか外野から何それが可愛いどこどこが素敵とたくさん声をかけられたのがちょっと恥ずかしくてダメだった。
いやまあ、陽葵も魔法少女も可愛いから、なんだって似合うんだけど。可愛い可愛いと言われるのは、なんだかちょっと、つらいなあ、と思う時期だったので、恥ずかしさと一緒にいろいろとダメだったことを思い出して、また深くうつむく。
もうこれはあきらめた方がいい。今日はたぶん、歩いたって何にもならないと判断して、私はゆっくりと足を止めた。

「もう、どこかお店に入るしかないかな……」
「絢瀬」
適当な喫茶店にでも、と考えたところで、名前を呼ばれたことに気付いてそちらへと目を向ける。こちらへうきうきと近付いてくるのは、まあ、声を聞いた時点で予想した通りの秋也先輩だ。うきうき、とは足取りのことであって、表情は相変わらず無表情だけど。
両手に持っている大きな袋を揺らしている先輩の後ろから、また別の人が近付いてくる。これも知っている人だ。先輩の友達。天海睦月先輩。秋也先輩の親友を名乗るその人は、きっと今日も先輩と一緒に行動していたのだろう。だって両手が秋也先輩と同じように大きな袋でふさがっている。野菜の頭が飛び出しているから、きっとお買い物カバンだ。
これから二人でどこかにお泊りでもするのだろうか。首を傾げながら二人が近付いてくるのを待っていると、天海先輩がへらりと笑った。
「こんにちはー、陽葵チャン」
「こんにちは。なんだか大荷物ですね」
「買い出しに行っていたから」
「そうそう、こいつの寮の買い出しいろいろ。知ってる? こいつ寮母さん差し置いて寮母さん扱いされてるの」
「先輩が寮住まいだって今知りましたけど……まあ、想像はつきますね」
その綺麗な無表情しかできないわりに、秋也先輩はやたらと世話焼き、というか、甘やかしたがりだ。ダメ人間製造機と言ってもいいだろう。実際、先輩の作る料理はなんでも美味しいし、座っている間にテキパキと世話を焼いてくるから快適で、甘やかし方もうまい。叱る時はちゃんと叱ってくれるし。すぐに頭を撫でようとしてくるのは、ちょっとどうかと思うけど。
とにかくそんな感じなので、寮母さんより寮母していると言われても納得しかない。どうせいろんな人の世話を率先して焼いて、寮母さんすら甘やかすようになんでもやっているのだろう。先輩が甘やかす対象に年齢は関係ないみたいだし、想像するのは簡単だと苦笑すれば、天海先輩もだよねえ、なんて笑って。それから、そうだ、と袋を揺らした。
「暇なら陽葵チャンも寮来る? これからお手伝いのお駄賃として、秋也に肉巻きハンバーグ焼いてもらう予定なんだけど」
「肉巻きハンバーグ……!?」
「そうそう。ハンバーグに肉巻いてあるやつ!」
肉にさらに肉でめっちゃ肉! ときらきらした目を向けてくる天海先輩に、私も思わず体が震える。ハンバーグは美味しい。陽葵の共通の好きなものなので、何も気にせず美味しく食べられるものだ。そして秋也先輩の手作りハンバーグはとっても美味しいことを知っているし、前に作ってもらったハンバーグに薄いお肉を巻いて焼かれたやつがとってもとっても好きだと思ったことも覚えている。

今ここで二人について行けば美味しいハンバーグが食べられる。そして暇かどうかと問われると立派に暇をしている。一人でもどうすればいいのかわからなかったところだ。ついでに二人とお話でもすれば気分転換になるだろうし、断る理由がない。
大丈夫です、とうなずこうとしたところで、すっと秋也先輩が間に入ってきて、無言で首を振る。少しだけ困ったように瞳を揺らして、すまない、と呟いた。
「……うちは男子寮だから絢瀬を連れていけない」
「えー! いーじゃん!」
「だめだ」
「陽葵チャンも食べたいよなあ!?」
「うっ……ぐっ……」
食べたい。でも確かに陽葵は女の子なので、男子寮、というところに一人で着いていくのはあまりよくないだろう、ということはなんとなくわかる。
私ももう五年も女の子してきたのだ。今さら男女で分けるなんてズルい、なんて言わないし、私男の子だもん、と騒ぎたくなったりもしない。女の子を一人男の子の集まるところに放り込むのがよろしくない、ということもぼんやりとだけどわかる。
そういう話は、学校でもちらほらと聞いたりする。「年頃ならみんな考えることだし、ある程度は勉強して知っておかないといけないことだからとやかく言わないけど、いろいろなルールはちゃんと守ってね」とは姉さんの言葉だ。でも、陽葵にはそういうことを考えてほしくないので、私は見ないし調べないけど。私自身、彼女のふりをすることに必死になのでそんなことを考える余裕もない。だから、ぼんやり。ぼんやりわかっている男子寮に女子が行ってはいけないという事情に、私は眉を下げるしかできない。
というか先輩は「私」が「陽葵」じゃないことを知っているので、そのうえで連れていけないというのなら、行きたいと言ってはいけないのだろう。先輩は甘やかすのが好きだけど、決めた一線は絶対に何が何でも越えない人である。
ハンバーグ。非常に魅力的だけど。仕方ない。陽葵は基本的に聞き分けがいいのだ。

「明日」
断ろうと口を開く前に、秋也先輩が両手に持っていた袋を片手に無理やり持って、す、と手が伸びて、中途半端なところで止める。じっと私を見つめてくる視線に、ああいつものか、と思って手を差し出せば、彼は恭しく私の手を取った。
そのまま親指で優しく手の甲を撫でられる。頭を撫でる代わりだ。頭は髪の毛がくしゃくしゃになってしまうから嫌だと言ってから、頻繁に行われる手の甲のなでなで。
幼いこの行動に対して、先輩はやけに律儀だ。これくらいいつでもしてきていいのに、私がいいよと示すまで、絶対に触ってこない。手を握ることも、触れることも絶対にしない。女の子に許可もなく触れるのは良くないことだろう、と言われるたびに、少しお腹の底がくすぐったいような気がした。
「明日、君の家に作り置きに行く日だから、その時に作る。それで許してもらえないだろうか」

先に言っておくと、先輩は別に私の家に頻繁に訪れるほど特別な関係というわけじゃない。断じてない。
単純に週に三回、うちで家事代行のアルバイトをやっているというだけだ。
陽葵の名誉のために追加すると、私だって家事くらい人並みにできるし、姉さんと仲良しで一緒に暮らしている小さな竜のディンだって、結構器用になんでもできる。ただまあ、ちょっと、好奇心に弱くて。たまーに冒険しては大失敗するのを繰り返しているだけで、ちゃんとできる。お手伝いをする時とか、学校の授業とかでは失敗しないし。本当にちゃんとできるのだ。基本的には。
それでもまあ、ここは似たもの姉弟ということで。二人で暮らすとちょーっと事件が多いので、姉さんの友達である玲生さんというお兄さんが週に二回来てくれていたのだけど。
彼が来ない日に姉さんが思い付きと好奇心に負けて、自家製燻製機を用意しては燻製ウインナーだの燻製チーズだの、はてには自家製のかつお節をこそこそと作り始めた結果、「火加減間違えた〜」と煙がすごいことになってしまって、火災探知機が反応して、玲生さんやその他お世話になっている人のところに通知が行ってしまって。それはそれは怒られることになったのが、先輩に声がかかった理由だ。
私とディンでは姉さんを止められないどころか、一緒になって行動してしまうから、二日以上来ない日を作るのはよくないと判断されて。たしか料理が上手な知り合いがいたんすよねと無理やり先輩を紹介させられては、いつの間にか週三でうちにくる家事代行のアルバイトが始まってしまっていたのである。
私の事情も知っているということで玲生さんをはじめとした姉さんのお友達からは謎に信頼されているし、研究所の人たちへの差し入れとかも何故か用意しているのでそちらからも評価が高い。
そして姉さんは来るもの拒まず去る者追わずの精神なので当然別にいいよ〜採用! の一言で終了だ。もやもやしているのは私だけである。

まあ、先輩の料理は本当に美味しいし、文句なんて言えない。本当に。でもそうか、明日ハンバーグか。ちょっと頬が緩みそうになるのをなんとか堪えて、私はふいと先輩から目をそらした。
「べ、別に……そもそも、私、今日お手伝いしたわけでもなんでもないので、許すも何もないですよ」
「食べたそうにしていたから」

「ハンバーグはみんな好きでしょ!」
言わなくていいです、と両手を握って拗ねて見せると、秋也先輩はなだめるように再び手の甲を撫でる。そりゃあ、ハンバーグは食べたかったけど。陽葵はそんなに食い意地が張った子ではないのであまりからかわないでほしい。調子が崩れてしまう。
優しいのか優しくないのかわからない。むうっと頬を膨らませれば、それまで黙って私たちを見ていた天海先輩が、ええ〜とがっかりしたような声を出す。秋也先輩とはまた別方向に面倒見が良くて賑やかなその人は、つまんなあいと言いながら秋也先輩にもたれかかった。
「えー、オレ陽葵チャンといろいろお話したかったなー」
「睦月は教育に悪い。二人きりで話すようなことは避けるべきだ」
「お前とオレって親友だと思ってたんだけど?」
「だからこその意見だ」
ひどぉい、とわざとらしく身をよじらせる天海先輩はなんだか楽しそうだ。きっと、こういうやり取りはよくあることなのだろう。そのことに、ちょっとだけいいなあ、と思った。私だって友達とふざけあったりするし、今、陽葵と仲良くしてくれている友達のことも大好きだから、うらやましいわけじゃないけど。
なんとなく、女の子じゃなかったら、と。私がずっと「俺」のままだったら。猫可愛がりしているようでどこか一線を引いているような、あんな風にもっと、気安く私と遊んでくれたのかもなあ、と。
ここにいるのが姫野槙だったら、きっともっと、違う二人になれたのに。なんて。思ってしまう時がある。

(……陽葵は、ここで笑って、じゃあまた明日って、言う)
ひとつ、ゆっくり、まばたき。
これからする行動を頭の中で予習する。こんな時にどう振る舞えばいいかなんて、もうしっかり身に染みている。
たぶん、少しだけ。少しだけ、気が弱っているのだ。
一生懸命、忘れてしまいそうな陽葵を思い出して、かき集めて、必死に彼女になろうとしているのに。その横で平然と過ごす人たちに、少し嫉妬してしまっただけだ。
でもきっとこんなの、なりたい自分になろうと頑張っているのと同じことだから。少し無理をしてでもなりたい理想の自分になろうとする人なんていっぱいいる。私もそれと同じ。私は「陽葵」にならないといけない。大丈夫。自分で決めたことだし、嫌だともやめたいとも思わない。これは本当だ。
素直に好きなことがしたいとも、駄々をこねたいとも、思わない。だってこの体は陽葵のものだから。私は今、陽葵の体を乗っ取っている幽霊みたいなものだから。陽葵らしく振る舞うのは当然だ。
だからここも、ちょっと拗ねたふりはしながらも一歩引いて、じゃあまた明日お願いしますと笑うのが正解だ。いつもそうしてる。秋也先輩のせいで調子を崩されたって、私はちゃんと「陽葵」をできている。この五年間で、私はしっかり「陽葵」になれた。だからいつも通りにすればいい。
それだけなのに。
(つかれた)

「絢瀬」
少しだけ沈みかけた気持ちを引き留めるように、秋也先輩が私を呼ぶ。
手の甲を撫でていた手がするりと滑って、指を絡めるようにして、お互いの手のひらがぴったりとくっつく。
当たり前に手を繋がれて、なんだと視線を上げれば、先輩は相変わらず綺麗な無表情で私を見つめてきた。
「商店街を抜けて右に歩いて行った先の線路沿い、今いろんな花が咲いているんだ」
「はあ……?」
「花を見ながらのんびり歩くのも、きっと楽しい」
きょとんと、数回まばたきをして。先輩の言葉を脳内で繰り返す。
花を見ながら。商店街を抜けた先。のんびりと。
たぶん、おすすめの散歩コースの話、なのだと思う。のんびりと外を歩くのに、花を見るのも素敵だよ、とか。そういう話。先輩は私がゆっくりと過ごすことの方が好きだと見抜いている節があるので、きっと教えてくれた、のだと思うけれど。
そもそも散歩をしていたとは一言も言っていない。さっき交わした会話はほとんど先輩たちのことだ。私は自分のこと、何も話していなかったのに。当然のように見抜いて、当然のように提案してくる秋也先輩に、私は反射的にため息を吐いてしまった。
「……相変わらず思考を読みまくりで怖いですね……」
「それはすまない」
「いえ……その、ありがとう、ございます」
参考にします、と。思わず吐いたため息を申し訳なく思いながらお礼を言えば、ほんの少しだけ目を細める。これは表情筋がまったく動かない先輩なりの笑顔だ。さすがにそれくらいはわかるようになった。その目が、いつも優しくて落ち着かない。
するりと手が離れて、それじゃあまた、と言葉を交わして天海先輩と歩き出す。秋也先輩の距離感の謎の近さなんて慣れっこなのか、彼もまたね〜とひらひらと手を振るだけで、それ以上は何も言わない。だから私も黙って手を振って見送った。

(変なの)
小さくなった背中に、私は腕をおろした。
先輩はいくら私が別人であると知っていても、元の私がどんな人間だったかは知らない。だからあくまで、私を「陽葵」として扱ってくれる。それは私も願っていることだ。嬉しいこと。
でもそれと同時に、丁寧に隠しているはずの「槙」を見つけて拾ってしまうのだ。どれだけ隠してもこのようにう当然の顔をしてバレる。いやまあ、私の些細な言い回しの違いを研究しているらしいと聞いた時は、純粋に怖かったけど。いや、今もやっぱり怖いなと思うけど。変とかいうレベルじゃないなって、思うけど。
でも今はそれが、ちょっと、なんだか。
「……へんなの」
私が「陽葵」じゃなかったら、きっと出会わなかったのだろうけど。
陽葵に体を返したらきっとお別れになるんだろうけど。
この人は絶対に陽葵じゃない私のことも忘れないでくれるんだろうなとか。もし五年間に何も起こらなくて、あの頃の「俺」のまま出会っていても優しくしてくれたんだろうなと、変な信頼があって、むずむずする。
この感覚を上手に言葉に出来る気はしなかったけど。なんとなく気が楽になったような気がして、私は商店街の方へと足を向けた。




2022年8月執筆

ごちゃ。