22-5-1
ふわり。目の前に現れたごてごてとした本は、淡く光を放ちながら浮かんでいる。
ぺらり。ひとりでに捲れていくページに書かれている文字は、未だに一人では読むことができない。なんとなく、感覚で、こんな感じだったと、もうだいぶ薄れてきた記憶を何とか引っ張り出して、そこにあるはずの魔法を使いこなしているように見せているけれど。魔法の言葉なんて、いつまで経っても読めやしない。
ううん、違うか。読めないままでいることが、「私」が「俺」であることを証明してくれる気がして、読みたくないと拒否しているだけだ。
ぴかり。本の向こう。沈みかけた太陽を名残惜しそうに見送る海面が、光を反射してゆったりと揺れている。眩しい。もっと強い光なんて何度も見ているのに。
きらり。ほしい光は手に入らない。
「こんなところで魔法を使ったら、人に見られてしまうんじゃないか」
声をかけられて慌てて後ろを振り返れば、そこには見慣れた人がいた。
私が通う学校の、高等部の先輩。優月秋也さん。
顔が整っているくせに、相変わらず表情筋が仕事しない彼は、ただ立っているだけだと少しだけ怖い。何せ今は夕暮れ時。無表情で夕闇の中にたたずむ先輩は、その美しさもあって浮世離れして見える。
でも先輩は幽霊ではないので。しっかりとした足取りでこちらに近付いて、私の腰かける堤防のすぐ隣にもたれかかって。はっきりと私を瞳に捉えては、こてりと首を傾げてみせた。
「せめて変身くらいはしておいた方がいい」
「わ、かってます、けど……ここ、私有地ですよ。どうして先輩がいるんですか」
「君の家から続く道を歩いてきた」
「そういう話じゃないってば」
なんでここにいるんだ、という話であって、侵入経路を聞いたのではない。というか、そこ以外の場所から入ってきたら立派な不法侵入だ。たぶん、姉さんが彼のことを素通ししたのだろう。素直にそう言ってくれればいいのに、この人はたまにこうして遠回りなことを言うのだから変な人だ。
はあ、とため息を吐いて、ぱたんと本を閉じる。そのまま小さな光の粒になって消えたそれは、念じればどこからともなく現れて、どこへともなく消えていく魔法少女の証だ。
これでいいでしょう、と。ちょっと反抗的な視線をやれば、先輩はこくんとうなずいた。
「よし。今日はなんとハンバーグだ」
「えっハンバーグ」
ぱっと表情が勝手に緩んだことに気付いて、慌てて引き締める。ごほんごほんと咳払いをしたけれど、まあ何も誤魔化せてはいないだろう。
でもハンバーグはとても美味しい。きっと先輩が作ってくれるわけだし、美味しいに決まっている。
「……いや、っていうか、なんで先輩が当たり前のようにうちの夕飯作ろうとしているんですか」
「猫の形をしたハンバーグを上手に作れるようになったから、だな……」
「それってそんなドヤ顔して言うことじゃないです」
でもウキウキしてきてしまう自分が悔しい。だって猫の形をしたハンバーグなんて絶対に可愛い。人をダメにするレベルの世話焼きを自称して、料理も趣味だという先輩が作るのだから絶対に美味しい。
もう戻ろうか、とうずうずとしていれば、す、と手が伸びてきて、ぴたりと止まった。しばし無言。見つめあう。私が手を差し出せば、先輩は無言のまま手の甲を撫で始めた。
ものすごくわかりにくいが、これは「頭を撫でたいがいいだろうか」というサインである。やたらと人を猫可愛がりしたがるこの人は、それにつられるようにスキンシップを好んでいるけれど、それを許すと髪型が崩れて普通に困るので、代わりに手の甲を撫でさせているというわけだ。いや、なんか、ちょっと変な解決方法だけど。
「……ま、」
「陽葵です」
その唇から零れそうになったものが音になる前に私が口を挟めば、少しだけ眉尻が下がる。いつも仏頂面しかできないくせに、笑うよりも表情が動かしやすいのだろうか。
知らないけれど、私は私のために、その言葉に音を与えるわけにはいかないのだ。
「だめか」
「だめです」
彼は「私」じゃなくて「俺」の名前を呼びたがる。さっき呟こうとしたのも俺の名前だ。もう名乗れない名前。
初対面で魔法少女の正体を看過したこの人は、「絢瀬陽葵あやせひまり」のことを知るごとに、事件に巻き込まれるごとに。当然のように私が「絢瀬陽葵」ではないことを見抜いてしまった。知ってしまった。そうして私個人をちゃんと知りたいなんて優しいことを言って、私の名前を呼びたがる。
でもそれはだめだ。「私」は「絢瀬陽葵」なのだ。本当の「俺」が何者であっても、それは変わらない。この体が「絢瀬陽葵」である限り、いつか「絢瀬陽葵」に返さなければならないのだから、「俺」はもうどこにもあってはいけないのだ。
よいしょ、と堤防から降りて、ついでに先輩の手を離す。
もうこれだけで、敏い先輩はちゃんとわかっている。今日もフラれてしまったか、なんて肩をすくめる彼が何を考えているのかは知らない。
私はいつも通り、「陽葵」の癖の通り。顔を覗き込むように少し前かがみになって。そうして「陽葵」らしく、ちょっと悪戯っぽく笑うのだ。
「魔法少女は、本当の名前を教えないものですよ」
2022年5月執筆