海 ナイアガラ


00
だって、例えば、山岳が隣に立って私の顔を見たときに、睫毛が顔に影を落としていたほうがちょっとだけ儚く見えるでしょう。笑いかけてくれたときに、唇が少しだけ艶めいていたら意識してくれるかもしれないでしょう。先に走って行っちゃいそうになった山岳を止めたとき、咄嗟に掴んだカーディガンの上できれいに整えられた爪が見えたら女らしいでしょう。髪の毛がサラサラだったら撫でたくなるかもしれないでしょう。そう、すべてはほんの少しの期待から成っている。


01
「あ!箸忘れた!」

お弁当の包みを開けた瞬間、山岳が素っ頓狂な声をあげるから持っていたメロンパンを危うく落としかける。齧る直前の大きな口を気付かれないようにそっと閉めて、山岳の手元を見たら、確かにお箸は見当たらなかった。でも、朝からこんなに大きなお弁当箱にご飯詰めてたら、正直お箸くらい入れ忘れてもしょうがないと思う。わたしだったら二日に一回は忘れる自信ある。
どうしよう、と悲しそうに呟く山岳に私も内心どうしようと同じように呟く。どうして今日に限って私のご飯は購買のパンなんだ。お弁当だったらお箸貸してあげられたのに。わたし?わたしはいいの手で食べます。

「あっ、じゃあ私食堂でお箸借りてくるね!」
「え、借りれるんだ!じゃあ俺が行くから名前さんは先に食べてていいよ」
「いやいやいやいいよ私が行くって」
「や、だって箸忘れたの俺だし」
「いいの!私が行く!山岳は、あの、ゲームとかしてて」
「このタイミングで?!」

びっくりした表情の山岳に、私もじわじわと恥ずかしさがこみ上げる。何言ってるのわたし。この状況でゲームとかいくら山岳でもするわけない。なんでもっとうまいこと言えないんだろう。もしかしたら山岳のほうがもっとうまいこと言えるんじゃないだろうか。一年よけいに生きているっていうのにこの体たらく。
とにかくこのおかしな空気の場所から逃げたくて山岳に背を向けると、不意に手を掴まれる。マメの潰れたかたい指先がわたしの手首に触れた瞬間、おなかの上あたりがドキリと跳ねた気がした。山岳の大きな目がパチパチと数回瞬いたあと、困ったように細められる。眉間に、小さな皺が寄ってる。もう、ほんとうにわかりやすい。山岳って、不思議ちゃんなんて呼ばれてるらしいけど、こんなにわかりやすいのにみんな何を見てるんだろう。すぐ顔に出る。かわいい。

「山岳、わたし実はちょっとだけ唐揚げ食べたいなって思ってたからいいの、ちょうどいいの」
「ええ、でも…」
「セットにしないと、おまけしてくれるんだよ。知ってた?」
「そうなの?知らないや、名前さん食堂のことはなんでも知ってるね」
「なんで食堂のことだけみたいな感じなの?なんでも知ってるから」
「うっそだあ」

引き止めていた山岳の手がそっと離れていく。きっと山岳は、わたしが唐揚げなんて食べたいと思ってないこと、わかってる。ほとんど教室にいるから学校のことなんてなんにもわかってないことも。

「じゃあさ、俺レベル上げとかしてるね、ありがと名前さん」

離れた山岳の手をもう一度自分から握る。山岳がびっくりしたように口を開けているのが視界に入ったけど、そのまま握った手を大きくたてに振ってみる。大げさな握手みたいに。山岳の口が開きっぱなしのうちに急いで離して背を向けた。きっとまだポカンとしてるだろう山岳は簡単に想像できたけど、振り返ったりはしない。ぜんぶぜんぶ気にしないふりを、してるだけだ。かわいくなりたい。どこで修行したらかわいくなれるんだろう。



02
部屋に置いてある雑誌を片っ端から並べて、かわいくなる方法を探してみる。体験談、コラム、特集。ふと目に留まったのが女子力という単語。女子力。雑誌に印刷されたその文字をなぞってみる。なぞったところで何かわかるわけでもないけど。しかし読んでみるとこの女子力の定義ってすごく曖昧だよね?この雑誌に載ってること実践しても山岳って喜ぶのかな?おかあさんみたいになっちゃわないかな?例えば食堂でご飯食べてて、そっとお水置いたり役立つ情報をそっと教えてあげたり…?あれ、これ女子力…?
わけがわからなくなってきて、頭を抱えてベッドの上に倒れこむ。雑誌を床に放り投げて、携帯を見ると珍しく山岳からメールがきていた。今ヒマ?簡潔すぎるメールにヒマだよ、とだけ返す私のメールも大概あっさりしている。そして送ってから気付いたけど、これきっとかわいくないよね。絵文字とか使えばよかった。でも山岳って、早くメール返さないと、違うこと始めちゃったあとだと返事が返ってこないんだもん。心の中で言い訳をしていると、携帯の着信音が鳴る。山岳だ。

「名前さーん、海行こうよ海」

画面を耳に当てた瞬間、時間にそぐわないほど明るい声が鼓膜を揺らす。咄嗟に時計を見ると、早くはないけどそう遅くもない時間だ。別にいいんだけど、なんで海?

「夜の海は、泳いじゃいけないんだよ」
「知ってるよ、だから行くだけ」
「ふうん。んー、いいよ、準備するからちょっと待ってて」
「えー、準備とかいいよ」
「だめ!女の子はいろいろあるんです〜」
「名前さん、ちゃんといつもかわいいから大丈夫だよ」
「えっ」

なにげなく言われたその言葉にすべての動作が止まってしまう。頭の中にかわいいっていう単語がたくさん浮かんできて、他のこと考えられなくなるから私の頭はおめでたい。山岳が電話の向こうでものすごく焦ったように違うそういう意味じゃないって連呼してるけど、そんなのぜんぜん頭に残らない。うれしい。すっごくニヤニヤしちゃう。

「違うって!オレ、ただ早く海行きたいだけで…」
「ええ、でもさっきかわいいって、言ってくれたよ?」
「言ってない!間違えたの!」
「あ、それひどい」
「あっ、違う…だから…だから、早く海行こうよ!」

怒ったような催促に、思わず笑ってしまう。かわいい。わたしがかわいくないぶん、山岳がかわいいからまあいいかな?いや、よくないか。「迎えに来てくれるんだよね?」かわいくないついでに言ってみたら、ものすごくぶすくれた声で唸るように返事をした山岳に、またニヤニヤとしてしまった。また怒らせちゃうから、この緩みきった頬を引き締めなきゃ。ぜんぶぜんぶ、気にしないふりをしよう。