向く


「つむぎ先輩、ごめんなさい!」

保健室に入って開口一番にまず謝ったら、つむぎ先輩はいつも通りに眉を下げて「名前ちゃんが謝るようなことは何もないですよ」と困ったように笑っただけだった。本当にそれ以上何も言ってほしくなさそうなつむぎ先輩に、わたしも口をつぐむしかない。さっきまで意気込んでいた気持ちが途端にしゅんとしぼんでしまう。とにかくつむぎ先輩に謝りたい一心で強引に連れてきちゃったけどやっぱり迷惑だっただろうか。また勢いで行動しちゃってるしほんとうにわたしはだめだ…鬱だ…。いますぐ翠くんに会いに行きたい。いっしょに空とか見てたい。

「ほら名前ちゃん、消毒しますからこっちに来てください」
「えっ、そんな、悪いので自分で…!…いや、むしろこれくらいぜんぜん大丈夫です!」
「ダメですよ〜怪我したらちゃんと消毒しないと。そもそもなんであんな何もないところで転ぶんですか」
「いや、考え事してて…そしたらいきなりあんな美しい顔が視界に飛び込んできて…なんか、びっくりして…転びました…」

理解できないというように首を振るつむぎ先輩だけど、つむぎ先輩だってわたしと最初に会った時はわたしの顔見てめちゃくちゃ驚いてたのに。まあ、転んではいなかったけどこっちがびっくりしちゃうくらい叫んでたのに。
いつもより厳しい顔をしたつむぎ先輩が、消毒液の染み込んだガーゼを持ってわたしにも座るように促す。消毒液がすごくしみしみなのは、なんだろう、やっぱり私のこと怒ってたりするんだろうか。

「せ、先輩…。消毒液滴ってますけど…」
「怪我したままずっと座ってたみたいなので、多めのほうがいいかなと思ったんですけど」
「えええ、それ多分すごくしみますよ…」
「ばい菌が入るよりいいじゃないですか」
「え〜…ばい菌が入ったらもっと痛いですか?」
「そうですねえ、俺は図書委員なのでいろんな本を読みますけど、ばい菌を放っといて腐ってしまった話とか、読んだことあります」
「腐っちゃうんですか?!」
「はい、だから名前ちゃんもちゃんと消毒しないと」
「腐ったら痛いですよね…」
「痛いっていうか、むしろ痛みはないんじゃないですか?何も感じなくなるんじゃないですかね〜?」
「今の痛みを取るか未来の腐敗を受け入れるか、ですね?」
「そんなの受け入れないでくださいよ…。ほら、消毒しますよ〜」

しみしみのガーゼが優しく膝に押し当てられる。薄皮のめくれた膝に消毒液はやっぱりすごくしみて、転んだ時の数百倍くらい痛い。膝の上にたまった消毒液が染み込むまであともう少しヒリヒリするんだろうな。消毒液たっぷりつけちゃうとこうなるんだよなあ。
手のひらをぎゅうと握り込んで我慢していると、つむぎ先輩の手がポンと私の頭の上に乗せられる。さっきまでの厳しい顔はどこに行ったのか、眉を下げて困ったように笑っている。頑張りましたね〜と子どもにするみたいに私の頭をあやすように撫でている。昨日のことなんてまるでなかったみたいで、わたしが何も知らずにただただ大好きだった頃のつむぎ先輩に戻ったみたいで、なんだろう、ラッキーなんて思ってまた前みたいに追いかけちゃえばいいんだろうか。何が正解なんだろう。冷静に行動する人ってこういうときどうしてるの。蓮巳先輩ならどうするんだろう。今までのこと全部なかったことにして、ラッキーって思えるかな。
つむぎ先輩が、私の頭を撫でていないほうの手で自身の髪の毛を耳にかける。青いメッシュが瞬きするたびに目の奥に焼きつく。好きになったときも、このはっきりとした青色の残像を見た。あの時と全くいっしょだけど、ちがう。やぱり全然違う!

「ちがう!絶対むり!」

頭を撫でてくれていたつむぎ先輩の手を掴んでぎゅうと握ると、目を丸くした先輩が悲鳴をあげて思い切り仰け反ったから椅子から転げ落ちて、引っ張られたわたしも倒れこむ。抱きつくようにして倒れたわたしは本当に一瞬だけわーい!なんて思ってしまったけど、でも、今はそんな場合じゃない。
倒れ込んだ時打った足も肘も全部いたい。さっきの消毒なんて比じゃないくらいいたい。つむぎ先輩の顔の横に手をつく。先輩の大きく見開かれた瞳に今にも泣きそうな顔の私が映り込んでいて、こんなに憤っているのに涙が出そうなんだとなんだかびっくりした。散らばった髪の毛に、青いメッシュがちらつく。

「つむぎ先輩!わたし、先輩のこと好きかどうかわからないって言ったけどやっぱりたぶん好きです!また好きになる気がします!というか、好きになりたいです?!もうなんかわかんないですけど!」
「ちょ、名前ちゃん落ち着いて…!ていうかまずこの体勢やめましょう!」
「先輩のこと全部知りたいです!わかんないけど全部知ってもたぶん好きです!だってさっき先輩に抱きついた時やったあラッキーって思いましたし!」
「話が何も繋がってないしそんなこと思ってたんですか?!今時の女の子ってみんなそんなんなんですか?!大和撫子じゃないんですか?!」
「つむぎ先輩が!好きです!今度はちゃんと冷静です!」
「そんな風に全然見えませんよ…」
「大丈夫です、怖がっててごめんなさい。好きです」

つむぎ先輩、昨日わたしが、好きじゃないって言った時の方がよっぽど嬉しそうな顔をしてる。わたしに幸せになってほしいってよくいうときの、あの穏やかなような寂しいような笑顔は今はない。

「わたし、夢ノ先のことももっと知ります。教えてくれるかわかんないけど、いろんな人に話も聞きます」
「名前ちゃんただでさえ忙しいのに、俺なんかのためにそこまでしなくても」
「先輩のこと追いかけてないとわたし退屈で奇行に走るかもしれないです。そんなの幸せじゃないです」
「確かに、それは幸せじゃないですよねえ」

呆れたようにつむぎ先輩がため息を吐く。そっと肩を押されて、先輩の上から退くと起き上がった先輩が少し痛そうに背中をさすっている。
向き合った先輩は明らかに困った顔をしていた。困ったっていうか、迷惑そうっていうか、めちゃくちゃいまさらだけどまた私は何か間違ったんだろうか。あれ。蓮巳先輩ならこういう時どうするんだろうなんてぐるぐる考えていると、ふうとまたため息を吐いた先輩が「俺はただ、みんなに幸せになってほしいんだけなんですけどねえ」なんて言うから思い切り抱きついた。つむぎ先輩がまた悲鳴をあげて倒れ込んで体勢だって元どおりだけど、先輩、やったあラッキー!で私は幸せなんですよ。先輩はわかんないけど。あんな寂しいような笑顔より今の泣きそうに困った顔の方がよっぽど幸せそうに見えるけどなあ。わかんないけど。