十四、確実に震えた
これから生物たちの世話があるという竹谷に手を振り、桜子は小屋を後にした。
彼女は、疲れ果てていた。連日の舞や色の術の訓練に加えて、狂った武者たちとの一戦で溜まった疲労に、睡眠が追いついていない。
何より、久しぶりにまともに受けた殺気が、桜子の精神を毒のように荒らしている。
武者たちの、奇妙に光る眼を思い出した桜子の背筋を、寒気が走った。思わず右手をきつく握る。
桜子は、まだ影響が少ない方だった。
共にいたくのたまの中には、狂気に中てられて、寝込んでしまった者も、逆に眠れなくなってしまった者もいた。
(シナ先生は流石だったな……)
子狸と少しだけ戯れ、竹谷とも言葉を交わせたことで、吐き気も少し落ち着いている。一刻も早く、眠りに就きたい。
人気の少なくなった食堂の横を過ぎる。しかし、彼女は入り口から少し行ったところで、足を止めた。
食堂のおばちゃんは、くノ一教室が本日帰ってくることを知っている。
桜子は、きびすを返した。
温かな匂いに満ちた空間に、足を踏み入れる。
「おばちゃ……」
言いかけた桜子の右肩に、手が置かれた。
桜子は振り返った。手が離れる。桜子は少し、目を見開いた。
大きな瞳が、じっと彼女を見ていた。
「三町、その腕、何があった?」
桜子は、驚いていた。
彼女が小屋で竹谷と会ってから、随分時間が経っている。彼はその時、既に他の五年生たちと食事を済ませたと言っていた。
「久々知くん、今までずっと、ここにいたの?」
「ああ。食事が終わってお盆下げよう思ったら、くのたまの子たちが入ってきて。一人がめちゃくちゃに泣いてた。桜子、って聞こえたから、気になって」
そう言う久々知は、真剣だった。
真っ黒の瞳が、桜子を真っ直ぐに見据えていた。
ふっと、桜子の背筋をなぞっていた悪寒が、消えた。
桜子は彼に、頭を下げた。
「ありがとう」
久々知は、首を横に振った。
「礼を言われるようなことじゃない。当たり前だろ」
「そんなことないよ。それに、私がお礼を言いたい」
桜子は真っ直ぐ久々知を見て言った。
久々知は、長い睫毛を瞬かせた。続いて、小さく微笑む。彼の肩から、力が抜けた。
「無事みたいで良かった。くのたまの子の泣き具合から、下手したら命に関わるんじゃないかと」
「骨に少しひびが入ったのと、打ち身と軽い切り傷だから、大丈夫だよ」
「そうか」
久々知は、ぽんと桜子の頭に手を置いた。
「お疲れ」
大きな手が、暖かい。
桜子は、顔を綻ばせた。
桜子が少し遅い夕食を終えるまで、久々知は一緒に居た。
おばちゃんの食事も相俟って、桜子の胸はすっかり暖まっていた。彼女の向かいに座る久々知も、おばちゃんから豆腐をサービスしてもらって、ひどく嬉しそうだった。
桜子は最後にお茶を飲み干して、手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
それを見て、久々知がにっこり笑う。彼は、残してあった一口大の豆腐を、幸せそうに口に入れた。
桜子は思わず、頬に笑みを浮かべた。
「ごちそうさまでした」
久々知が手を合わせたのを見て、桜子はお盆に右手を伸ばす。
しかしその前に、久々知が何気なしに、お盆をさらっていった。彼はさっさとカウンターまで歩いていき、お盆を返却口へ乗せた。桜子が口を挟む隙などなかった。
「三町さん、腕の他に怪我はある?」
久々知が振り返ってようやく、桜子は我に返った。慌てて彼へ駆け寄る。
「お盆、ありがとう」
久々知は、首を傾げた。
少しして、ああ、と口元を緩める。
「だって三町さん、その腕じゃ持てないだろ?」
桜子は唐突に、以前彼女の後輩が「久々知先輩って素敵よね!」と話していたのを思い出した。
「あらまあ、久々知くん男前ねえ!」
返却口のお盆を取りに来たおばちゃんが、にっこり笑って口を開いた。
久々知は目を瞬いてから、照れたように頭の後ろを掻いた。
桜子と久々知は、食堂のおばちゃんにおやすみなさいを言って、食堂の出口へ向かう。
先ほど食べた豆腐について楽しそうに話す久々知に笑って相槌を打ちながら、桜子は何気なく、廊下の方を見る。
彼女は思わず、立ち止まった。
「どうした?」
久々知は首を傾げて前を見て、彼も固まった。
「おかえり、三町さん」
包帯を片手にそういった善法寺の顔に、普段の柔和な表情は無かった。
チヨ子が、保健室へ来たそうだ。
背中の打ち身に衝撃が走って、桜子は思わず声を上げた。
背を反らす桜子を、善法寺は自業自得とばかりに見て、湿布の残りを仕舞う。
「シナ先生から聞いてなかったの? ていうか、普通は真っ先に医務室に来るでしょう! きみの友達、めちゃくちゃ心配してたよ!」
善法寺は、彼の方を向いた桜子に、むっと口角を下げてみせた。
桜子は、眉尻を下げた。
「ごめんなさい」
疲れ果てていた彼女の頭には、子狸に荒れ切った精神状態を癒してもらうことと、睡眠にありつきたいという欲求しか存在していなかった。その二つが場所を取るために、他のものは全て追い出されていたのだ。
善法寺は少しして、ふっと、彼も眉尻を下げた。
桜子の左腕にそっと触れて、彼は包帯を緩め始める。流れるようで、丁寧な手つきだった。大きな手のひらが、いたわるように包帯の上を滑っていく。
「シナ先生から新野先生へ、馬借特急便が来て……きみが意識不明らしいって聞いて、本当に心配だったんだよ」
包帯の下で腕に固定されていた添え木を少し調整し、善法寺は真新しい包帯を手に取った。
素早く巻かれていく包帯を、桜子はただじっと見つめた。
自分が意識不明であったことの実感が、桜子には無かった。
朝目が覚めると、頭上でチヨ子が泣いていて、僅かに頭痛がしていた。チヨ子やシナが言うには、桜子は武者の振り下ろした棍棒を防具が忍ばせてある腕で受けたが、力負けし、勢いは弱まっていたものの、頭を殴られて倒れたらしい。ごく普通に朝を迎えたつもりでいた桜子は、少し動揺した。
包帯を巻き終わった善法寺は、今度は優しく、彼女の左腕に手を置いた。
桜子は顔を上げる。
善法寺は、柔らかく笑った。
「早くよくなるといいね」
桜子は、彼女も微笑んで頷いた。
「はい。善法寺先輩、ありがとうございました」
「いいえ。あ、また明日もちゃんと保健室に来ること!」
「わかりました」
「よろしい。それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
桜子は彼に頭を下げ、立ち上がった。
身体を動かすのが、随分楽になった。湿布のおかげだ。
(部屋に帰ったら、チヨ子に怒られるだろうな……)
桜子は、障子に手を伸ばした。
その瞬間に、桜子の目の前で、障子が勢いよく、独りでに開いた。
間髪を置かず、たくましい腕が、桜子の背に強く回される。
土の匂いが、桜子を包み込んだ。彼女の頬に、かたい胸板が当たる。
「へ」
桜子は、目を白黒させた。背中の腕に、さらに力がこもる。彼女のこめかみを、硬い髪の毛がくすぐった。
「なっ、何してるの!」
桜子の背後で、善法寺の慌てたような声がした。同時に、何かがひっくり返った音がする。
善法寺はうわっ、と声を上げたものの、すぐにこちらに意識を向けた。
「三町さん全身至るところに怪我しているんだよ!?」
彼の声色は、少し怒気を含んでいた。
「小平太!」
と、桜子から、ぱっと土の香りが遠ざかった。
桜子はようやく顔を上げる。彼女の目と、七松の円らな目とが合った。
七松は、普段と全く変わりのない表情だった。桜子を頭のてっぺんからつま先まで見て、彼は頷く。
「うん、無事だな!」
「どこが!!」
飛んできた摺子木が、七松の頭に当たった。
「いったあ!」
「三町さんの怪我! 悪化しちゃうだろう!」
「えー、平気だ!」
「それは小平太が決めることじゃなーい!!」
「あ、そうだ伊作! さっきちょっと足怪我したんだけど……」
「そんなの知らないよ!」
「ええー!」
七松は不満げに口を尖らせて、善法寺の方へ歩み寄る。横を通り過ぎる際に、彼は二、三度、桜子の頭をぽんぽんと叩いた。
呆気に取られていた桜子は、はっとして、七松を振り返った。
彼は善法寺に薬を分けてくれないかと頼んでいた。こちらを見る気配はない。
(小平太先輩……)
桜子は少し迷ったが、踵を返した。これ以上待たせると、チヨ子が恐ろしい。
「失礼しました」
言い合いをしている二人には届かないだろうが、桜子はそう言って、障子を閉める。
途中で長屋の方へ目を向けた彼女に、閉じられていく障子の隙間からこちらを見た視線は、見えていなかった。
2013.04.13(投稿)
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