十五、ようやく瞳の中


虫の声が響く。
早足で廊下の角を曲がった桜子は、目を丸くした。
長屋の壁にもたれていた人影が、体を起こす。
「待ってたんだから……!」
桜子に歩み寄るチヨ子は、眉間に深く皺を刻んでいた。目の下に、僅かだが泣いた跡が見える。
遊女屋からの帰り道、チヨ子はひたすら、桜子を心配して声を掛けてくれた。
腕は大丈夫か、頭は痛くないかと聞くチヨ子の声が思い出されて、桜子は目を伏せた。
「……ごめんなさい」
自分勝手だったな、と桜子は自分を恥じた。
食堂で見た善法寺の怒った顔が、チヨ子の顔に重なった。
幸せなことに、心配してくれる人がいる。しかし自分はその人たちのことを忘れて、自分のことばかりに走ってしまった。
桜子は、顔を上げた。
薄茶色の瞳が、彼女を見つめていた。
「チヨ子、本当にごめんね。それから、ありがとう」
チヨ子の双眸が、桜子をじっと見た。桜子は、その視線を見つめ返す。
チヨ子の唇の端が、ゆっくりと上がった。
「それ、本物にもちゃんと言ってやれよ」
淡い色の唇が紡いだ声は、彼女のルームメイトにしては低すぎた。
桜子はぎょっとした。
チヨ子は、彼女らしからぬ表情でくつくつと笑った。つぶらだった瞳が、狐のように細められる。
「くのたまのルームメイトまで騙せたんだ、私の変姿の腕もなかなかじゃないか?」
そう言って、チヨ子はその場でくるりと回った。白い煙が上がり、桜子の視界を一瞬奪う。
煙が夜風に乗って消え去った後、桜子の前に居たのは、チヨ子とは似ても似つかない人物だった。
「鉢屋くん……」
「あ、勘違いしないでくれよ」
呟くように名を呼ぶ桜子を見て、彼は片手を開いて彼女に向けた。
「私は別に、三町をからかいにきたわけではないんだ」
そう言って、彼は眉尻を下げた。
「思っていたよりも元気そうだな。安心した」
桜子は目を瞬く。続いて、頬を綻ばせた。
「ちょっと重いのは左腕の骨のひびだけで、あとは大したことないよ。ありがとう」
「どういたしまして」
鉢屋はそう言って、不敵な笑みを浮かべた。
「早く治してくれないと困る。今度の実習、私は三町を誘った時点で一位しか狙ってないからな」
桜子は、彼の言葉に相好を崩した。
「もちろん。私もだよ」
鉢屋は、満足げに笑った。
周囲の気配を確認し、彼は桜子にひらりと手を振った。
「それじゃ」
狐色の髪が揺れる。
一瞬の後、桜子の前には風が残るだけだった。
桜子は少しの間頭上の板目を見ていたが、眠気の波に襲われて、再び静かに廊下を歩み出した。
少し歩き、桜子は自室の戸を、そっと引いた。
チヨ子は、桜子の布団を出して、その上で眠っていた。
その頬に泣いた跡がはっきりと見えて、桜子は己に対し苦笑を零した。

「桜子の馬鹿ー!!!!」
その声は、忍術学園中に聞こえそうだった。
朝、桜子を起こしてからずっと大泣きしているチヨ子の背を、桜子はひたすらさすっていた。
「ごめんね、本当にありがとう」
桜子の言葉に、チヨ子はますますしゃくりあげる。桜子は、眉尻を下げた。
「桜子」
彼女たちの部屋の戸が開いた。
桜子は、顔を上げる。
彼女と同級生のくのたまは、チヨ子をちらりと見て苦笑してから、桜子に言った。
「お客さんが来てるよ。出ていってあげな」
桜子は、首を横に振った。
「ごめん。チヨ子と居るよ」
くのたまは、彼女の言葉に手を広げて、首を振った。
「だめよ。あっちも泣きそうなんだから」
「え?」
桜子は首を傾げる。くのたまは苦笑した。
「あんた、いつ忍たまの後輩なんか引っ掛けたのさ」
作兵衛だ、と桜子は直感した。
彼女は、困って眉根を寄せた。と、今まで桜子の胸に顔を埋めていたチヨ子が、顔を上げた。桜子にぎゅうと抱きついたまま、彼女は桜子を見上げた。
「桜子」
桜子は、チヨ子に視線を向ける。
チヨ子は、目を瞬いた。頬を涙が零れ落ちる。
「行ってきて。あたしは、もういいから」
チヨ子はそっと、彼女から離れた。彼女に、桜子は一瞬強く抱きつく。
「本当にありがとう」
立ち上がった桜子に、チヨ子は口角を少し上げた。その目は赤い。
「いいもん。次の毒料理の授業の試食は、全部桜子ね」
「あ、それいいわね。私の分もね、桜子」
にやりと笑った二人に桜子は反論しようと口を開きかけ、苦笑だけして部屋を出た。

くノ一教室の敷地のすぐ外側で、富松は立っていた。
彼は、やってきた桜子の声に顔を上げ、彼女の左腕を吊る包帯に、一気に顔を歪めた。
桜子がくノ一教室の敷地を出た瞬間に、彼は彼女へ詰め寄った。
「せ、先輩、腕、腕が……!」
桜子は、富松に優しく笑って見せた。彼の頭に、そっと右手を置く。
「少し骨にひびが入ったくらいだから、大丈夫」
ゆっくりと、彼の頭を撫でる。と、富松が勢いよく頭を上げた。大きく見開かれた目から、涙が零れ落ちた。
「よ、かったあ……!」
ぼろぼろと涙を零す富松に、桜子は目を丸くした。
富松が、自分のことを一先輩として慕ってくれていることはわかっていた。
しかしその度合いが、これほど大きなものだったとは、思っていなかった。くのたまの中でも、他より仲良くしてくれる先輩くらいの認識だと思っていたのだ。
桜子は、ふわりと表情を緩めた。
嬉しかった。
「作兵衛」
「は、っい」
桜子は、しゃくりあげながら返事をした富松を、泣いているチヨ子を抱きしめた時と同じように、包み込んだ。
「ありがとう、心配してくれて」
嗚咽が、止まった。
「あ……え」
富松の体が、一気に硬直した。
少しして、彼の腕がそろそろと動き、しかしすぐに体の横へと戻された。それと同時に、富松は桜子から離れる。
彼の顔は、真っ赤だった。
「あああああのっ! 先輩が無事で本当に良かったです!!」
叫ぶようにそう言って腰を直角に曲げて礼をした後、富松は驚くべき速さで忍たま長屋へと走り去った。
瞬く間に小さくなった後ろ姿を見送って、桜子は一つ、花の綻ぶような笑みを零した。


2013.04.28(投稿)


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