二、楼閣の扉が開く
小さく音がした。桜子はすぐさま、口布を鼻まで持ち上げる。
罠と桜子とを、白煙が包んだ。眠り薬の匂いが、わずかに桜子の鼻を刺す。
桜子は、子狸を抱きかかえて、罠だったものから素早く離れた。少しした後、複雑に組み合わせられた木々が崩れ落ちる。
「最後に眠り薬を持ってくるなんて……」
桜子は感心したら良いのか、ため息を吐いたら良いのか、わからなくなった。
腕の中の子狸を見る。
眠り薬がしっかり効いたらしい子狸の後ろ足が、不自然に腫れている。本当に怪我をしていた。
それも、少し厄介な腫れ方をしている。
罠の残骸を回収しつつ、桜子は唸った。
彼女は、それほど動物の手当ての仕方に明るくない。
「……よし」
罠を回収し終えて、桜子は小さく呟いた。罠の残骸を背に負って、子狸を腕に抱えなおす。
朱色に墨の混じり始めた空を仰いで、桜子は学園へと足を向けた。
その人物の名は知っていたが、名を呼び掛けるのは初めてだ。
動物達と戯れた後なのか、少し乱れた灰色の髪と、深い青の忍装束とを見つけて、桜子は歩み寄る。
「竹谷八左ヱ門くん」
生物小屋の前に居た竹谷の体に、緊張が走ったのがわかった。
仕方が無いことだ、と桜子は思う。忍たまは皆、一年生の頃にくノ一教室から"おもてなし"を受けている。その後も彼らはちょくちょく罠に掛けられることがあるので、ほとんどの忍たまにとって、くのたまは開ける前からそうだとわかっているびっくり箱と同じだろう。
しかし竹谷は桜子を振り返った瞬間に、その警戒を解いた。
彼は慌てて、桜子の方へと駆け寄った。真剣な目が、子狸を見てから、桜子を見る。
「その子狸どうしたんだ?!」
「今日裏々山で実習をした時、友人が間違って罠に掛けちゃって」
桜子は、濡らした自分の頭巾を、子狸の足から外した。
未だ腫れは引いていない。竹谷は、自分が怪我をしたかのように顔を歪めた。
「うわっ、これはひどいな……」
「やっぱりそうなんだ……」
桜子は、眉をひそめた。怪我から発熱しているのか、子狸が熱い。
彼女は改めて、竹谷に言った。
「竹谷くん、この子の治療に力を貸してください。私にはとりあえず冷やすくらいしか、治療の知識が無くて」
「もちろんだ!!」
竹谷は勢いよく頷いた。彼は桜子の腕から、子狸をそっと抱き上げる。
彼は素早く子狸の体を見た。
「骨が折れてるかもしれないな……」
続いて彼は、桜子を見た。
「悪い、保健室から包帯取ってきてくれないか? 俺はこっちでこいつの治療始めとくから」
「うん、わかった」
桜子は頷く。急いで踵を返した彼女に、竹谷が思い付いたように声を掛けた。
「あーっとそれから! もし居たら、新野先生か善法寺伊作先輩を連れてきてくれ」
「うん!」
桜子はそれにしっかりと答えてから、その場から駆け出した。
竹谷は、子狸を抱きかかえて、小屋へ向かう。
「痛いよな、もうちょっと待ってろよ」
彼の言葉に答えるように、眠っていた子狸の瞼が、ゆるゆると持ち上げられた。
勢いよく障子を開けると、柔らかな茶色の髪をした少年が、驚いたように桜子を見た。
「どうしたんだい?」
「善法寺伊作先輩」
桜子の剣幕に、彼は目を瞬いた。
「う、うん」
「包帯をください。それから、生物小屋まで一緒に来てほしいんです」
「う、うん?」
「お願いします」
桜子は深く頭を下げた。
きょとんとしていた善法寺は、桜子の様子を見て表情を引き締めた。
すぐに棚から包帯と、いくつかの薬を取り出して、桜子へ歩み寄る。
「動物が怪我したのかい?」
「はい」
桜子は頷く。
善法寺は、廊下から桜子の隣へ下りた。偶然小石に足先が引っ掛かって少しつんのめったが、何とか持ちこたえる。
「行こう」
駆け出して、何処からともなく転がってきたバレーボールに躓く善法寺を、桜子は慌てて支えた。
生物小屋に駆け込むと、真剣な眼差しで子狸を見ていた竹谷が、ぱっと顔を上げた。
「善法寺先輩! すみません、一応処置はしたんですが、こいつのこと診てやってくれませんか」
「ああ、わかった」
善法寺は、柔らかそうな藁の上に寝かされた子狸へ駆け寄る。
竹谷はふう、と一息吐いて、額の汗を拭った。続いて、桜子の方を見て、にかっと笑った。
「ありがとな」
桜子は笑って首を振った。
「お礼を言うのは私の方だよ。本当にありがとう」
「いいって! えーっと、三町桜子さん、だよな」
「知ってたの?」
「そりゃ五年も居ればなー。三町さんも俺のこと知ってたろ?」
「竹谷くんは生物委員長代理だから」
並んで話している二人に、子狸の治療を終えた善法寺が、余った包帯を手に歩み寄った。彼らは慌てて、善法寺へ駆け寄る。
「あの、子狸の様子は」
善法寺は、竹谷ににっこり笑いかけた。
「竹谷の治療はすごく的確だったよ。流石だ」
「あ、ありがとうございます」
竹谷は少し照れ臭そうに笑った。桜子は、ほっと安堵の息を吐く。
「善法寺先輩、ありがとうございました」
善法寺は笑って手をひらひらと振った。
「それが保健委員の仕事だからね。それじゃあ、また何日かしたら様子を見に来るよ」
「はい!」
二人は、小屋を出ていく善法寺を見送る。少しして、痛! という悲鳴が聞こえてきて、二人は思わず顔を見合わせた。
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