十九、つかまえさせて
キヌヨが、絶妙なトスを上げた。桜子の前にだ。桜子は跳び上がりながら、苦い顔をした。
「……キヌヨ、わざとだよね」
「何がよ」
キヌヨの声は、笑っていた。
桜子はため息を吐く。相手コートを見た。チヨ子が、桜子に笑顔で手を振っていた。
桜子は、あやのの斜め後ろに穴を見つけて、そこへボールを蹴り込んだ。黒髪がなびく。
「あっ!」
「桜子容赦無いわね」
「ナイスー、桜子!」
にやにやと笑うキヌヨのももを、桜子は軽く膝で蹴った。
先ほどからキヌヨは、桜子にばかりトスを上げていた。
彼女の両腕は、下手に使って悪化させないためと言い包められ、身体にしっかりと固定されていた。
あの後、チーム替えをしてからもう一セット行って終了し、他の皆より一足早く一日の準備を終えた桜子は、一人食堂の入り口を潜った。
美味しい匂いが、桜子の胃をきゅう、と締め付ける。朝食のメニューは、野菜スープとハムエッグのようだった。
入れ違いで出ていく食満に挨拶を返して、桜子は列に並ぶ。少し前で忍たまの二年生が持っていく食事のお盆を、思わず見送った。
そのまま食事の行方を見ていた桜子の肩を、後ろから手が叩いた。桜子は振り返る。
「よっ」
「桜子、おはよう」
肩を叩いたのは竹谷だった。その後ろで、久々知が手を振る。
「おはよう、八左ヱ門と兵助」
桜子は、口元を緩めた。
相変わらず、竹谷の髪はところどころ跳ねていた。久々知の髪が癖毛なのはよくわかるが、竹谷の髪は癖なのか、寝癖なのかが、よくわからない。前髪の不自然に跳ねている部分は、特にそうだ。
後でこっそり兵助に聞いてみようか、と考えている桜子に、別の声が掛かった。
「おはよう三町さん。僕見たよー」
久々知の後ろから顔を出した不破に、挨拶を返しつつ、桜子は首を傾げた。
見たとは、何のことだろうか。
「あ、俺も見た」
久々知も、そう言い出した。不破が続ける。
「今朝、ものすごいバレーをしていたよね」
「ああ! それか!」
竹谷が声を上げた。どうやら、彼も見ていたらしい。
桜子は苦笑した。
言い出したのは、チヨ子だった。珍しく校庭が開いていて、塹壕や穴も掘られておらず無事のようだから、軽い鍛錬としてバレーをしようというのだ。キヌヨがそれにすぐさま賛同し、あれよあれよという間に人数が増え、気が付くと校庭に立つ桜子の両腕はあのような状態であった。
「あの両腕どうしたの?」
案の定、不破が腕のことを聞いてきた。桜子は、包帯が少し減った左腕を指さした。
「せっかく治ってきた左腕を、無意識の内に使ったら大変という名目で、皆にね……」
「へえー、しかし足だけであれだけやれるって凄いな!」
「うんうん! 相手の茶色の髪をした子も上手だったのに、綺麗に抜いてたもんね」
桜子は苦笑した。
あれは、以前から七松とバレーボールをやっていて、身に付いた技術だった。まさか彼とバレーする以外の場で駆使するとは、思ってもみなかった。
久々知が、大きな瞳を瞬いて、口を開いた。
「最後チーム替えした後なんか、本当に凄かった」
桜子は、一瞬固まった。
久々知を見る。
「見てた?」
「うん」
桜子は、右手で顔を覆った。頬が熱くなっていくのがわかる。
バレー自体は良い。両腕を拘束されて足で蹴っているのを見られても、全く恥ずかしくはない。一応鍛錬であったし、何も恥ずかしがるようなことではない。
しかし、チーム替えをした後に行った、キヌヨへの報復は別だった。
桜子は、自分でそれを振り返って、大変大人げないとはっきり思った。
キヌヨを泣かせたり、痛めつけたりしたわけではなかった。しかし、もしもあれを低学年のくのたま達に見られていたならば、恐らく少しの間近寄ってこないだろう、とは思った。
そのとき、桜子は何も考えていなかった。キヌヨには先日悪戯用の料理を毒見させられていた上に、桜子の両腕を封じようと言い出したのは彼女だった。更にこの数日、桜子は夜、鍛錬や勉強のため睡眠時間が短かった。
その結果、キヌヨが敵チームだとわかった瞬間に、ぷつりと糸が切れた。
何度思い返してみても、あまりにも幼い自分がそこで笑っていて、桜子は非常に恥ずかしかった。
左手が使えないのが、非常にもどかしい。両手で完全に顔を隠してしまいたかった。
本気で恥ずかしがっている桜子を、竹谷はまじまじと見つめた。
不破は「僕も見たかったな、それ」と人の気も知らず暢気に言う。
もう何も言わないで、と言おうと、赤い顔を覆ったまま顔を上げた桜子と、久々知の目が合った。
久々知は、彼女に笑いかけた。
「桜子って、意外と幼いところもあるんだな」
全く悪意が感じられない笑顔と声とで言われて、桜子は思わず情けない顔をした。
「それって褒めてるの、けなしてるの……」
「褒めてる」
そう言って、久々知は少し考えるように黙った。
「……褒めてるし、さらに仲良くなれたみたいな気がして、俺は嬉しい」
続いて嬉しそうに笑って言われ、桜子は今度は照れて赤くなった。
見られてしまったのは恥ずかしいが、そう思ってくれたのならば、それは桜子も嬉しい。
彼女は、顔から右手を外した。
「今度は、兵助が見せてね」
久々知は、長い睫毛を瞬かせた後、笑った。
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