二十、年月なんか忘れてよ


桜子は、ふと顔を上げた。
それまで談笑をしていた久々知と竹谷とが、桜子を見る。
桜子が話し始めるのを待っているらしい二人に、桜子は慌てて何でもない、と首を振った。
どうやら、今感じた視線は、二人のものではなさそうだ。桜子は向かいに座る不破を見たが、彼は先ほどからずっと同じ姿勢で、スープを飲むか中の野菜を食べるかで迷っていた。
(気のせいかな)
桜子は内心首を傾げる。とりあえず彼女は、不破の腕をつついた。
そろそろ飲まないと、スープが冷めてしまう。
不破はびくりと肩を揺らして、我に返った。
「あ、ごめん。何だった?」
「それね、スープと一緒に野菜も少しずつ食べると美味しいよ」
「そうなんだ! じゃあそうやって食べてみるよ」
にこりと笑って、不破はようやくスプーンに手を伸ばした。
微笑み返した桜子の名を、彼女のよく知る声が呼んだ。
「桜子先輩!」
富松だった。
彼は、彼女の方へ早足で近寄ってきた。
彼はまず、桜子と同じように富松に目を向けた三人に、ぺこりとお辞儀をして挨拶した。それから、くるりと桜子に向き直る。
少し緊張しているようだ。
桜子は柔らかく笑って、富松の頭へ手を伸ばした。
「どうしたの?」
優しく、富松の頭を撫でる。とたんに、富松は真っ赤になった。
「あ、あのっ!」
「何?」
桜子は、富松の頭から手を引いた。その手を一瞬、富松が物欲しげな瞳で追う。
それを、食事を終えて彼らを見ていた久々知と竹谷は、しっかりと目撃した。
竹谷の瞳が、僅かに見開かれる。
彼らの様子を露知らず、富松は口を開いた。
「俺ら三年生は今日町で実習なんですけど、俺の姉役をやってくれる予定だった六年のくノ一教室の先輩が、足を骨折したらしく、出られなくなっちゃって……それで、あの、もしよかったら……今日の俺の実習に付き合ってくれませんか?」
遠慮がちな目でこちらを見る可愛い後輩に、桜子は一も二もなく頷いてみせた。
「もちろん、付き合うよ。いつ出発するの?」
富松は、ぱっと顔を輝かせた。桜子は、思わず頬を緩める。
「ありがとうございます! 出発はあと半刻後です」
「うん。じゃあ、門の前で待ってるね」
桜子の言葉に、富松は少し口角を下げた。
「……先輩は待たせません。俺が待ちます」
そう言って、富松は一つお辞儀して走っていった。
可愛いなあ、と桜子はその後ろ姿を見送る。
スープを飲み終えた不破が、桜子に言った。
「富松と仲が良いんだね」
桜子は机に向き直り、残っていたご飯に箸を運びながら頷いた。
笑みが零れる。
「うん。すごく可愛い後輩だよ」

少し小さいけれど、ところどころしっかりと肉刺のある手のひらと、手のひらを繋ぐ。明るめの黄色の小袖が、そよ風に揺れた。可憐な模様のその下に包帯があるなど、誰も夢にも思わないだろう。
富松たち忍たま三年生に与えられた課題は、「町で一般人に紛れている忍者を探し出せ」というものだった。
(わざわざ姉役が付いたのは、いざというときの戦力のためかな)
隣で、自然な風で周囲を観察する富松を、桜子はちらりと見た。
さりげなく誘導するためというのもあるだろうが、富松にはその必要は無いだろう。
桜子と富松は、より姉弟らしく見えるように変装していた。化粧を施した富松の目元は、普段よりも少し吊り上がり、きりりとしている。桜子も同じだ。目元と口元を似せ、あとは声色を少し変えていた。
「作、お店は見つかった?」
桜子は、言外に課題の具合を尋ねた。
「まだです」
富松は首を振る。続いて、少し頬を染めた。
「あ……姉上」
桜子の手を握る手のひらに、少し力が篭った。
富松は目を泳がせて、ふいと桜子から視線を逸らした。
(可愛いなあ)
桜子は口から出そうになる言葉を飲み込んで、傍らの小物屋を見るふりをした。
なかなか見つからない。
と、反対の方向を見ていた富松が、桜子の手を引いた。
「姉上、少し休みませんか?」
富松の双眸が、桜子を見上げる。矢羽音が、彼女の耳を過った。
「それらしい人が居ました」
「そうしましょうか」
桜子は、彼に微笑みかけた。矢羽音を返す。
「近づいたら、教えて」
富松はにっこり笑って、桜子の手を引いて歩き出した。
普段の富松が、あまり見せない表情だった。
やはり彼は優秀だ。桜子は彼に、引っ張られるようにして続いた。
富松が入ったのは、少し大きめの茶屋だった。だいぶ繁盛しているようだ。外装に古いところがあまり見当たらない。
「いらっしゃい!」
二人に向かって、看板娘が明るく笑いかけた。桜子は笑って会釈を返した。
富松は、桜子の手を引っ張り、少し奥の席へ座った。
(隣の隣の男かな)
注文を取りにきた娘を見るふりをして、桜子は男を観察した。
男は団子をくわえて、胡坐をかいていた。
まず手首の太さが常人のものではなかった。目つきや気配は上手に町の人間を装っているが、筋肉の付き方までは、よほどの名人でないとごまかせない。
「私は、甘味の豆腐プリンを一つ頂戴」
富松に続いて注文しながら、桜子はちらりと、弟役の彼を見た。
「わかりました」
「ありがとう」
看板娘が踵を返す。その一瞬に、桜子は彼に片目を瞑って見せた。
富松の頬が、嬉しそうに微笑んだ。
桜子は、右手を伸ばして、彼の頭を撫でた。忍者の前で矢羽音を使うわけにはいかない。行動で表わすしかないのだ。
富松は少し赤くなったが、その手を払いのけようとはしなかった。
少しして、看板娘がお茶と甘味を持ってきた。
繁盛しているだけあり、良い味だった。彼女の頼んだ豆腐プリンに至っては、なめらかでくどくない、絶妙な味だった。
桜子はとろけだしそうな表情で、それを口に運んだ。
やはり、三食これだけで生きていける、と彼女は再認識していた。
(今度、兵助にも紹介しよう)
豆腐に関して恐ろしいほどの知識と情熱と味覚とを持つ久々知でも、この豆腐プリンには満足できるはずだ、と桜子は思った。
それから少し二人で談笑して、桜子と富松はお代を置いて席を立った。あとは、学園へ時間内に戻って、先生へ報告すればよい。
二人はごく自然に、男の隣を過ぎる。男の視線が、二人へ向いた。
桜子の右手首を、男が掴んだ。
桜子は、目を丸くして振り返った。
悟られただろうか。
男の目と、桜子の目とが合う。
男の目は、忍の色をしていなかった。しかし、代わりに桜子が合宿場所でいくつも見た目と同じ色をしていた。
(厄介だな)
桜子は内心舌打ちしつつ、首を傾げてみせた。まだ、富松の実習は途中なのだ。
「何でしょう……」
「もう帰っちまうのかい?」
男の口調は、随分慣れている印象を桜子に与えた。
ますます厄介だ。桜子は、策を練る。
「ええ。お父様が待っておりますの」
男の手が、少し緩んだ。
「そうかい」
本来ならば、油断なく手を抜きたいところだ。しかし今、彼女は一般人である。桜子はなるべく隙を作りながら、手を引いた。
近くには、別の娘も居る。逃げようとする者をわざわざ追う必要は、男には無いだろう。
「ええ。ごきげんよう」
桜子の指先が、男の手の先に触れた。その瞬間だった。
男が、桜子の腕をぐいと引いた。桜子の顎に、伸ばされた男の指が触れる。
男の唇は、歪んでいた。
「遅く帰って心配させてやるのも、立派な親孝行だぜ」
桜子は、内心舌打ちした。男の指が頬へと昇る。
吐き気がする。新たな策を考えつつ、桜子がそう思うと同時に、彼女の斜め後ろで殺気が爆発した。
「ふざけるな」
桜子と男の間に、富松が割って入った。
桜子を背に庇い、男を睨んでいる。その瞳の殺気の鋭さに、桜子は目を丸くした。
(もう、こんな殺気を)
しかし、まずい。忍者に、殺気を向けてしまった。子供のものにしては鋭すぎる殺気を、男は恐らく見逃さない。
案の定、男は目を見開いて言った。
「……お前、普通のガキじゃねえな。とすると、そこの嬢ちゃんもか」
続いて、男はにやりと、嫌な笑みを浮かべた。
「良いねえ」
富松の殺気が、更に膨らんだ。
「絶対、この人に手出しはさせねえ」
男の手が、静かに袖の内を探るのが、桜子の視界の端に映った。
武器を出す。
直感した桜子は、富松の手を取って思い切り駆け出した。
店を飛び出し、すぐ近くの細い路地へ入る。
「なっ」
「ありがとう、作兵衛。でもお店に迷惑を掛けるわけにはいかない」
不満げに声を上げた富松を振り返って、桜子は微笑んだ。
富松は、目を見開く。
続いて彼は、どこか悔しそうに唇を噛んだ。
何も悔いることはない、と桜子は思った。
(あんな殺気は、三年生ではなかなか出せない」
と、頭上から二人に手裏剣が飛んできた。桜子は富松の手を離し、クナイを取り出す。
路地に、短く金属音が響いた。
「忍者だったか」
屋根の上から下りてきた男は、桜子を見てにやりと笑った。手には短刀を携えている。
「どこの城に仕えてんのか、吐いてもらうぜ」
桜子は何も言わずに、右手でクナイを構えた。
相手は大人だ。左手が使えないとはいえ、ここは上級生である自分が出る幕だろう。戦ったら恐らく負けるが、富松が忍術学園へ辿り着くまでの時間を稼ぎ、逃げ切るくらいならばできる。
しかし、庇うように富松の前に立った桜子を、富松は押し退けた。彼は、クナイを片手に、桜子の前に立った。男が目を細める。
「作兵衛?!」
思わず口を開いた桜子に、富松は男を見据えたまま言った。
「先輩、俺だって、男なんです」
その言葉は、いやに大きく、桜子の耳に響いた。しかし桜子はそれを、頭を振って外へと追いやった。
(その前に作兵衛は、私の大切な後輩だ)
男の手が動く。富松の腕が、短刀を防ぐように動く。
彼には、男の足も軽く引かれたのが見えていなかった。
桜子は、唇を噛んで飛び出した。
富松のためならば、手や足の一本くらい、喜んで差し出す。
「二人ともその男から離れろ!!」
突然、路地に声が響き渡った。
桜子は、咄嗟に富松の手を掴んで、その場から飛び退いた。
その直後だった。
頭上から、大きな影が降ってきた。鋭利な光が閃く。クナイが、男の首筋に宛がわれる。
「動いたら刺さるぞ?」
七松だった。行商の変装をしている。
続いて、浪人に変装している食満が屋根から下りてきた。
食満は、男に気を配りつつ、桜子と富松の元へ近寄る。
「無事か?!」
「食満、先輩……」
富松が、呆然と言う。
「どうして、ここに?」
「実習だ。お前たちの実習に合わせたな」
食満は、二人の手を取って、走り出した。
桜子は彼に続きながら、七松を振り返った。七松は、こちらを見ていた。双眸が行け、と言っている。
「俺らの実習に、合わせた?」
「三年生に忍だとばれないように変装し、一日町で過ごすこと。これが六年生に課された実習の内容だったんだ」
食満は、人目に付かない最短のルートをたどって、学園へと向かう。桜子の手のひらをしっかり握る手は大きく、肉刺がいくつもあって固い。そして、頼もしかった。
「食満先輩、ありがとうございます」
食満はちらりと桜子を振り返って、口元を緩めてみせた。
「可愛い後輩のために、当たり前のことをしたまでだ」
この感覚だ、と桜子は思った。
桜子にとって富松は守りたい、守って当たり前の存在なのだ。
本当に大切な、可愛い後輩なのだ。
仄かに笑みを浮かべた桜子の隣で、俯いていた富松はそっと、唇を噛んだ。



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