二十二、落果
桜子は、少し派手な色をした小袖に、腕を通した。
髪を結っていたチヨ子が手を止めて、桜子を見る。
「あれっ、その小袖新しいよね!」
桜子は、帯を締めながら、チヨ子を見た。紅で色づいた唇が、弧を描く。
「貢ぎ物」
チヨ子は、口元を引き攣らせた。
桜子はそれに小さく声を立てて笑い、部屋の戸に手を掛ける。
ちらりとチヨ子を振り返って、桜子は目を細めた。
「シナ先生には内緒だよ」
揺れる鮮やかな色が、戸の向こうへと消える。
チヨ子は思わず取り落した髪紐を摘み上げて、苦笑した。
「天賦の才って、怖いなあ」
くのたま長屋を出てから、桜子は微かな視線を感じていたが、それも門へ到着する頃にはすっかり消えていた。
油断はできないな、と思いつつ、桜子は小松田に外出届を出す。
小松田は笑顔でそれを受け取った後、桜子に片目を瞑ってみせた。
「彼、もう門の外で待ってるよー!」
桜子は、何も言わずに微笑んで、門の戸を潜った。
出入り口のすぐ横に、青年は立っていた。薄茶の瞳が、桜子を映して甘く笑う。
「来てくれた」
青年は、一目見れば誰でも、上質なものだとわかる服を着ていた。
(流石)
桜子は微笑んで、青年に一歩近づいた。服の袖を、軽く引っ張る。
青年の瞳が、一瞬、いつものように光った。
彼は、桜子へ顔を寄せる。傍から見ると、口付けを迫るような格好だ。
桜子は、上手に近づけられた青年の耳元で、ごく小さく口を動かした。
「ここに来るまでに、いくつか視線があったよ。今はもう感じないけれど、いつも以上に気を付けた方が良いと思って」
青年の口角が、僅かに歪んだ。
桜子の耳元に、青年の唇が寄せられる。
「心得た」
紡がれた声は、鉢屋のものだった。桜子は小さく頷いて、表情を笑顔へと一変させた。
町での逢引というのが、桜子と鉢屋の考えた、情報交換の方法だった。
二人は本気で優勝するつもりなのだ。忍術学園内では、いつ誰に聞き耳を立てられているかわからない。その点、町では声が喧騒に紛れる。加えて鉢屋が変装していれば、二人が一緒に居ても、誰も怪しまない。学園でも気づかれにくいと思われる場所で、偽の情報交換の場を設けており、ぬかりはなかった。
「どこへ連れていってくれるの?」
桜子は、町の実習のときのような声で、鉢屋に問うた。
鉢屋は、変装して垂れ目になっている瞳を、僅かに細めた。
「お前のお望みのところなら、どこへでも行くさ」
情報は、あらかた交換し終わった。
桜子の思った通り、鉢屋もその内のいくつかはデマだろう、と結論づけていた。
どれが偽りの情報なのかは、殆どわからない。これから時間をかけて見極めるしかないだろう。
「そうだ、紅はどうなってる?」
「あ、うん。用意してある」
桜子は、手に持った巾着の口を開けて、紅を取り出す。
鉢屋が変装用に欲しいと言っていたものが、以前町での実習で桜子が男に買わせた紅と一致したのだ。
鉢屋に手渡そうと、桜子は顔を上げる。
桜子は、さっと青ざめた。
「……鉢屋くん」
「ん?」
鉢屋がこちらを見て、ぎょっとしたように目を見開いたのが、桜子の視界の端に映った。
「な、何だ? どうした?」
桜子は、手をきつく握り締めた。紅の入れ物が、手のひらに食い込む。
彼女は、視界の中央にその姿を映したまま、全く瞳を動かさなかった。
「花房牧之介が居るどうしよう」
桜子の額に、冷や汗がじわりと滲んだ。
(どうしよう)
桜子は、唇を噛んだ。
花房から目を離さなければ、逃げ道を確認できない。しかし、目を離した瞬間に、こちらを見られたらと思うと、桜子はぞっとして視線を外せなかった。
(どうしよう、どうしよう……)
桜子の米神を、汗が伝う。
と、彼女の手首を、鉢屋が掴んだ。
驚いて、桜子は思わず鉢屋の顔を見上げる。
鉢屋は桜子を見、何も言わないで、脇道へと入った。
花房の声は、しなかった。
鉢屋はそのまま細い路地を進んだ。いくつか路地を抜け、見えてきた団子屋の店先の長椅子に、桜子を座らせる。
自分の分と合わせて桜子の分も団子を注文し、彼は薄茶の瞳を桜子に向けた。
「花房牧之介が苦手なんだな?」
桜子は、鉢屋を見て目を瞬く。続いて、彼女は双眸を伏せた。
「うん……」
桜子は、花房が怖かった。
幼い頃に彼女を覆った恐怖心が、その姿を見ると、一瞬にして息を吹き返し、襲いかかってくる。
桜子は、手の内の紅をぎゅっと握った。
(いい加減、克服しないと)
心音が、少し落ち着いてきた。耳に、ようやく周りの喧騒が蘇る。一つ息を吐いて、桜子は顔を上げた。
鉢屋は、全く別の人間の顔で、じっと桜子を見ていた。
「手を引いてくれてありがとう」
桜子は、鉢屋に微笑んでみせる。
鉢屋の口角が、ゆっくりと吊り上がった。桜子は、目を瞬いた。
鉢屋は、己の膝に頬杖を付いた。
垂れ目だが、確かに鉢屋だとわかる表情の瞳が、下から桜子を見上げる。
「へえ、花房牧之介が苦手なのか」
「う、うん」
桜子はたじろぐ。
鉢屋の双眸が、不敵に笑った。
「良いことを聞いた。三町の弱点は花房牧之介か」
「知ってどうするの……」
桜子は苦い表情になる。と、鉢屋の手が、桜子の額へ伸びた。
彼の長い人差し指が、桜子の額を思い切り弾いた。
鋭い痛みが、彼女を襲った。桜子は声にならない声を上げて、上体を丸めた。
恐ろしい威力だった。桜子は、額を手で押さえる。じんじんと脈打つ痛みだけで、全く感覚がない。鉢屋は、桜子の様子にけらけらと笑い声を立てた。
「私のデコピンは痛いだろう」
「ものすごく痛い」
桜子が素直に言うと、鉢屋は更に笑った。
「笑いごとじゃないよ……」
額を押さえたまま、桜子は顔を上げた。
鉢屋は、彼女に舌を出してみせた。
「次にするときは、更に痛くしてやる」
「……もう絶対にさせないよ」
桜子は、眉根を寄せて言った。
周囲へのカモフラージュのため、金持ちが好みそうな小物を、鉢屋の話術で巧みに値段を下げて購入し、桜子は忍術学園へと戻った。
鉢屋はもう少し町を歩き、時間を潰してから、学園に帰るそうだ。
にやにやと笑う小松田に微笑みを返して、桜子はくノ一教室の長屋へと足を向ける。と、背後から桜子の名が聞こえた。
桜子は振り返った。
「やっぱり、三町さんだった!」
門の方から走ってきたのは、善法寺だった。彼によく合う、落ち着いた桃色の私服姿だ。
「善法寺先輩」
桜子は頬を緩めて、自分からも善法寺に近寄った。
「こんばんは」
善法寺は、近づいてきた桜子に、にこりと笑いかけた。
「うん、こんばんは。町で姿を見掛けたんだけど、普段と何か違ったし、隣に連れが居るみたいだったから、声を掛けるのはやめておいたんだよ」
「声を掛けてくださればよかったのに」
善法寺はえ? と目を瞬いた。
桜子は、唇に笑みを乗せた。
「あの人と私は、赤の他人です。というよりも、私は早くそうなりたいんです」
「ええっ、そうなの?!」
善法寺は目を丸くした。
「あの人、お金持ちの息子さんみたいだったし、てっきりきみのいいなずけか何かだと思っていたよ」
善法寺の言葉に、桜子は内心安堵の息を吐いた。
善法寺が、全て見抜いた上で自分に気遣って茶番に付き合ってくれている可能性もある。しかし、彼の様子をそのまま受け取るならば、六年生である善法寺でも、あの男の正体が鉢屋だと気づいていない。
六年生である善法寺でも、鉢屋だと気づいていない。しばらくこの情報交換手段は使えるだろう。
「くノ一教室に五年生になっても在籍しているのは、くノ一志望の子しかいませんよ」
「へえ、そうなんだ」
「はい。あ、でも、ごく稀に、ひょんなことから結婚が決まるという人もいるみたいですが」
「そっか……うん」
善法寺は、不意に一つ頷いた。
続いて彼は、桜子に向けて破顔した。
「それは良かった」
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