二十四、羽化を待つ


確かに合わさった瞳が、大きく揺れた。視界はすぐに逸らされて、彼は廊下の角へと消える。
桜子はそれを見送ってから、そっと瞳を伏せた。彼女の隣で、チヨ子が首を傾げた。
「今の子、桜子にすっごく懐いてる忍たまの子だよね」
桜子は、眉尻を下げた。
チヨ子は目を瞬かせた後に、桜子の腕にぎゅっと抱きついた。
「何があったのかわかんないけど、泣いて安否を心配する後輩なんて、滅多にいないよ!」
「うん」
桜子は、苦笑した。
富松が己のことを先輩と慕っているのを、彼女はきちんとわかっていた。それでも、寂しいと感じてしまう。
恐らく、富松は彼女を責めている。しかし、桜子は富松が何に対して怒りを感じているのか、わからずにいる。原因もわからずに謝罪するのは、彼に対して失礼だ。
「寂しいな……」
桜子は、ぽんぽんとチヨ子の頭を撫でながら、小さく呟いた。
もうしばらく、桜子の名を嬉しそうに呼んで駆け寄る大切な後輩の姿を見ていない。

「三町先輩ー!!」
呼ばれ方に違和感を覚えた。
桜子は、目を伏せて笑う。振り返ると、彼らは珍しく真っ直ぐにこちらへ走り寄ってきた。
あと数メートルというところで急に脇に逸れかけた二人に止まるように言って、桜子は二人の手を引いた。途中、すれ違った食満に楽しそうだな、とからかわれた。
校舎の近くまで連れてきて、彼女は二人の手を離す。
「どうしたの?」
一人が、やっと聞いてくれたかと言わんばかりに、無垢な瞳を桜子へ向けた。
その神崎が、まず堰を切ったように話し始めた。
「こんにちは!! 三町先輩!!」
「こんにちは、神崎左門くんと、次屋三之助くん」
「こんにちはー」
次屋はぺこりと頭を下げた。
神崎が続けた。
「先輩、この前は物凄くお世話になりました!!」
桜子は首を傾げた。次屋が助け舟を出す。
「だいぶ前に、七松先輩と食満先輩と竹谷先輩と作兵衛と一緒に、何だかよくわからないけど探していただいた件です」
「ああ、あのときの」
桜子は頷いて、首を傾げた。
その話については、既にお礼の言葉を受け取っていた。
不思議そうにする桜子を見て、二人は顔を見合わせて笑った。
神崎が、自分の忍装束の懐を探る。出てきた手に乗せられていたのは、可愛らしい巾着だった。
桜子は目を丸くした。桜子の反応を見て、嬉しそうに笑みを刻した次屋が、口を開いた。
「七松先輩に、先輩と、竹谷先輩と、作兵衛からお菓子貰ったって聞いたんです。それで、一応俺たちが原因だし、何かしたいなって話になって」
「あと、作兵衛にもいかに先輩方に迷惑かけたかって叱られてしまったしな!」
「他の先輩にはもう渡したし、あとは先輩だけだったんです」
「僕たちは小物のこととかよくわかりませんが、気に入ってもらえたら嬉しいです!」
口々に言う二人に、桜子は頬を緩めた。胸の奥が温かい。
「二人とも、ありがとう」
神崎の手からそっと巾着を受け取って、大事に懐へしまう。
「すごく可愛くて、本当に嬉しい」
桜子が二人の頭を柔らかく撫でると、彼らは照れたように頬を染めて笑った。

それじゃあ、僕たちはこれで!
そう元気に言って、二人はてんでバラバラな方向へと駆けて行った。
遠ざかっていく二人を見送って、桜子は懐からそっと、巾着を取り出す。
鮮やかな若草色だった。三年生の忍装束を彷彿とさせる。彼女へこれを手渡したときの、二人の笑顔が蘇る。頬が緩む。少しして彼女は、口元を緩めたまま、目を伏せた。
彼らの煌めく瞳は、大好きな後輩の笑顔を、桜子に思い出させた。
桜子は再び、巾着を丁寧にしまった。これを部屋の引き出しにしまったら、裏山にでも走りに行こうか。考え事をするには、丁度いい。
桜子は、くのたま長屋へ向かって歩みだした。
人気のない、校舎の影へと差しかかったときだった。
また、逃げていってしまうだろうと思っていた気配が、一瞬読み取れなくなった。
「先輩……っ」
忍装束の腰の辺りが、きつく握られる。
桜子は、目を見開いた。
「作兵衛……?」
忍装束を握る手が、びくりと震えた。
彼女の胸元から顔を上げた富松は、今にも泣きだしそうだった。
「お、おれのこと、見損なってもいいです!」
富松の手が、さらにきつく、桜子の忍装束を握った。
「以前助けていただいたのに、それからろくに礼も言わねえで、先輩のこと避け続けて……でも、でも」
紅潮した目元を、すうっと雫が伝った。後から後から、涙がその頬を滑る。
「俺のこと、嫌いにならないでください……!!」
悲痛な声でそう絞り出すように言って、富松は俯いた。
桜子は、少しの間、呆気に取られていた。
「作兵衛」
呟くように呼ぶと、肩が揺れた。
桜子は、ゆるゆると、口元を緩ませた。手を持ち上げて、そっと、可愛くて仕方がない後輩の頬へ寄せる。
富松が、驚いたように顔を上げた。
彼の目に映った桜子は、ひどく安心したように微笑んでいた。
桜子の白魚のような手が、そっと、富松の目元を撫でる。
「よかった……」
「へ……?」
目元を撫でた親指は、そのまま滑って、彼の耳に優しく触れた。
「作兵衛に、嫌われてしまったかと思って、とても寂しかったから」
富松の頬に、一気に熱が宿った。彼の目元に、再び涙が溢れる。
「ごめんなさい。私はまだ、あなたが怒っていた理由が、わからない」
ああ。
「いいん、です」
掴んだままの忍装束を、富松はきつく握る。
「いつか、わかってもらえたら」
この人がいい。
「俺は、もう、幸せです」
この人でないと、だめだ。



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