二十六、望むもの


目の前でとっさに布を広げた直後に爆風で吹き飛び、竹に激突したところまでは、確かに意識があった。
(勢いに負けて一本目は折れて、二本目で止まったんだよね……)
それから先は、記憶が曖昧だった。
誰かが怒ったように叫んでいた。名前も、何度か呼ばれた。最後に、山本シナ先生の姿を見た気がする。
桜子は布団に横たわって、ぼうっと天井を見ていた。
遠くで、ヘムヘムが鐘を鳴らしたのが聞こえた。校庭の方から、山田伝蔵先生の「本日の授業はここまで」という声がした。授業中だったようだ。
全身が、余すところなく痛かった。
火傷だけは逃れたが、きっと体中青痣だらけだ。桜子は思わず笑った。とたんに痛みが走って、桜子は顔を歪める。
ため息を吐いた桜子の右手側で、保健室の戸が開いた。
「失礼しま……あ、先輩おはようございます」
一年は組の乱太郎だった。急いで来たのか、優しい丸みの眼鏡が少し傾いている。
桜子は、にっこり笑った。
「おはよう、乱太郎くん。……あの、私ってどのくらいここに居る?」
「昨日のお昼過ぎくらいからです」
乱太郎は遠慮がちに、少し桜子から離れたところで足を畳んだ。小ぢんまりとしたお茶請けのお菓子のような慎ましさで、桜子はまた笑った。
乱太郎は桜子の笑顔に安心したようだ。先程より柔らかくなった表情で桜子を見た。
「先輩は人気者ですね」
「え?」
「先輩を運んできたのは山本シナ先生で、そのとき僕と伊作先輩が丁度当番だったんです」
乱太郎はそのときのことを思い出したのか、眉尻を下げる。
「伊作先輩、先輩がぐったりしてるの見て取り乱しちゃって。とにかく先輩を引き取った後、どこから聞きつけたのか色んな先輩が様子を見にいらして」
乱太郎は続けた。
「さらに夜になってから、体中ぼろぼろのまま、五年生の先輩が一斉に訪れてきたものですから、新野先生が怒って全員締め出しちゃったんですよ」
「そっか……」
桜子は、照れくさいやら申し訳ないやらで、ゆるゆると布団に口元を埋めた。
と、再び戸が開いた。
桜子は、口元を布団の下に隠したまま、戸の方をちらりと見た。
薄茶の目が桜子を見て少し、大きくなった。
乱太郎があっと声を上げた。
「不破雷蔵先輩に変装中の鉢屋三郎先輩! ……ですか?」
「正解」
忍足袋が保健室の床を静かに踏む。
鉢屋は乱太郎に挨拶をしてから、桜子へ早足で歩み寄った。桜子の傍らに、すとんと胡坐をかいて座る。狐色の髪が弾むように揺れた。
鉢屋は己の足先に手を付いて、少し背を丸めた。透き通った稲穂の色の中で、布団を口まで被った血分がこちらを覗いている。
「……怪我は?」
桜子は苦笑した。
「体中が痛い」
「そうか」
鉢屋は、そっと右手を桜子の額へと伸ばした。額にかかった前髪を、指先で優しく払う。桜子は喉を鳴らす猫のように、目を細めた。
「来てくれてありがとう」
「私が気になったから来ただけさ」
「演習の結果はどうなったの?」
桜子の前髪を撫でる手はそのままに、鉢屋は得意げに口角を持ち上げた。
「優勝したぞ」
桜子は、ぱっと顔を輝かせた。
にっこりと鉢屋に笑ってみせる。
「おめでとう!」
「ありがとう」
鉢屋は大きな手で、桜子の頭を少し乱暴に撫でた。先ほどとは違って犬猫相手のような手つきだった。桜子が少し恨めしげに鉢屋を見上げると、彼は何がよかったのか噴き出して笑った。
桜子はそれに笑っていたが、少しして、眉尻を下げた。
「……八左ヱ門と上呂くんに、悪いことしちゃったな……」
と、鉢屋が急に不機嫌そうに顔を曇らせた。
桜子は目を瞬かせた。思ってもみなかった反応だ。険しい目つきで何か言おうとしている鉢屋を見る。
彼が口を開いたとき、丁度保健室の戸が開いた。
「気にしないでくれ」
保健室に入ってきた竹谷は、太陽のような笑顔で言った。
「竹谷八左ヱ門先輩!」
「よ、乱太郎」
竹谷は親しげに乱太郎に手を上げた。大きな忍足袋が桜子の方へと歩み寄って、桜子と竹谷の目線が重なる。
「俺、桜子とチーム組めただけで十分嬉しいんだ」
「それに」
静かに区切った鉢屋の声は、少し硬かった。
桜子と竹谷は、鉢屋を見る。彼の眼に鋭利な光が見える。
「上呂には謝る必要なんてない」
それを聞いて、鉢屋の隣に座る竹谷も少し眉を曇らせた。
不思議そうにしている桜子に少し迷うような様子を見せた後、竹谷が口火を切る。
「あの宝禄火矢、上呂のだったんだ」
「それだけじゃない」
普段飄々としている鉢屋の荒い口調は珍しかった。険しい目つきで、吐き捨てるように言う。
「自分のミスで桜子が気絶したというのを認めたくないのか、あれから散々桜子を貶し始めたんだよ、あいつ」
「こいつが色しかできないせいでだと……! ふざけるな……!」
鉢屋はしまいに、はっきりと怒りを露わにした。その横で、竹谷も双眸を鋭く光らせた。
桜子は口元を緩めた。
彼女は、嬉しかった。
「それは、なんというか……貶されてる気にならないかな」
不意に口を開いた桜子に、二人は目を向けた。
桜子は笑って続ける。
「色はくノ一の誇りなの。忍としても、女としても優秀なくノ一だけが使いこなせる、どんなに強い男でも手のひらで転がすことができる忍術。男にも色の術はあると思うけれど、女ほど自由自在には操れない」
桜子は、痛みを堪えて上体を起こした。露わになった白い夜着の上に、黒髪が零れる。
桜子はこの話を、横になったまましたくなかった。
「他の人からどう映るかはわからないけれど、色は私たちの誇りだから、残念ながら上呂くんの発言は貶し言葉になっていない」
桜子はきっぱりと言い切った。
「それに、私は二人がそうやって怒ってくれたことの方が、些細な悪意とは比べものにならないくらい嬉しい」
桜子が二人に微笑んだときには、鉢屋と竹谷の目は丸く見開かれていた。
「……そうか!」
竹谷は、頬を染めて、さっと彼女から視線を逸らした。灰色の少しぼさぼさの髪を、派手に掻いてさらにぼさぼさにする。
鉢屋は、桜子の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。彼も明後日の方を向いて、口元に手を当てている。
「少しは怒れ」
「俺もそう思う」
すっと保健室の戸が開いた。
鉢屋の手のひらが頭の上に乗ったまま、桜子は戸の方を見た。
「久々知兵助先輩!」
「こんにちは、乱太郎。失礼します」
久々知は乱太郎に笑いかけてから綺麗に礼をして、静かに室内へ滑り入った。
桜子の傍らに正座した久々知は、大きな瞳で真っ直ぐに桜子を見る。
「戦ってみてさらによくわかったよ。桜子の武術の腕は相当のものだと思う。少なくとも、あの男につべこべ言われていいものじゃない」
桜子は、久々知の言葉に目を丸くした。
驚く桜子に、久々知は笑いかけた。
男にしては白い手が、すっと桜子に伸ばされる。竹谷が小さくあ、と声を漏らした。
久々知は、桜子の肩に零れかかった髪を優しく手で掬った。
「本当のことだ」
桜子の頬が、綻んだ。
「そ、そうそう!!」
不意に竹谷が大きな声を出した。同時に彼は、鉢屋と久々知の腕を思い切り横へ退けた。
桜子はきょとんと竹谷を見た。
竹谷は慌てて続けた。
「兵助すごく怒っていた!」
竹谷をじとりとした目で見ていた鉢屋も、ああと頷いた。
「結局ものすごく辛辣なことを言って上呂を黙らせたのは兵助だからな」
「そうなの?」
「俺は当然のことを言っただけだ」
久々知は真顔だ。
桜子はふわりと笑った。
「それでも嬉しいことに違いはないよ。ありがとう、兵助」
久々知は長い睫毛を瞬かせて、少し赤くなった。
「……うん。それと、ごめん。さっきの色の話、間を逃してしまって、外で聞いてた」
「気にしないで。逆に嬉しいくらい」
そこで桜子は、花の綻ぶような笑顔を一転させた。
宙を見て、彼女は妖しく笑った。
「は組の上呂くんか……まだ何か仕掛けたこと、なかったな」
「ひっ」
乱太郎も含め、男四人は一気に青くなった。



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