二十七、乙女は一人だけ


目覚めたその日に退院したいと桜子が言うと、善法寺は恐ろしい顔をした。
先の遊女襲撃の一件以来、負傷と安静に関して、桜子は善法寺から信用が無い。
「きみは自分で知らない内に無茶しそうだから、駄目だ」
眉尻を下げた桜子に、善法寺は彼も、眉尻を下げた。
桜子の脳裏に、左腕の治療を受けた夜がふと蘇る。
「わかりました」
自業自得なのだから、仕方ない。桜子は眉尻を下げた。
それに、心配してもらえるのは、とても嬉しいことなのだ。

戸の外で、虫が鳴いている。
木戸の隙間から、月明かりが細く伸びる。
桜子は瞳を開いた。
風の音と虫の歌とを聞きながら、天井の板目を見つめる。ひやりとしたものに触れた指先を、そのまま静止させる。
淡く白い光が、翳った。
戸がゆっくりと開けられていく。桜子の手が動く。
「……あ、先輩……」
桜子の全身から、ふっと力が抜けた。
「作兵衛」
月明かりが、富松を背後からほの白く照らしていた。逆光で、表情が暗い。
彼は、眉尻を下げていた。
「どうしたの?」
桜子は、布団から上体を起こした。現在隣の医務室には誰も居ない。先程少ししたら戻ると言って、新野先生は外出している。
富松は、起き上がろうとする桜子に、慌てて駆け寄った。
「だ、駄目ですよ桜子先輩! 寝ててください!!」
「大丈夫だよ」
桜子は、目を伏せて微笑んだ。富松の手を、そっと取る。
「今日は大事をとってここに居るだけなの。それより、作兵衛は何か」
そこで顔を上げて、桜子は目を丸くした。言葉が、一瞬にして唇から消えていく。
涙は、無かった。しかし、暗がりの中、桜子だけをただ見つめる富松の目は、見る者の胸を引き裂くような表情をしていた。
桜子の手のひらから、富松の手がすり抜けた。桜子はいつの間にか、己の後頭部に手のひらが添えられているのに気が付いた。
虫の音が止む。
桜子は頬に、布とその向こうの体温とを感じた。
「桜子、先輩……っ」
頭と肩とに回った腕が、彼女をきつく抱き締める。
睫毛一つ、動かなかった。目の前から、先ほどの富松の目が離れない。
「桜子先輩……」
頭上で聞こえる富松の声が、一瞬、誰のものかわからなかった。
虫が鳴く。
桜子は、我に返った。
(作兵衛に)
彼女は、可愛くてたまらない後輩へと、腕を伸ばした。
(こんなに……心配をかけてしまった)
「ありがとう」
桜子は、存外たくましい腕に抱かれたまま、富松を見上げる。その指先が、富松の横顔に優しく触れる。
と、富松の全身が固まった。
桜子は、内心首を傾げた。富松の目を覗き込む。
「作……」
「うわあああああごめんなさい先輩!!」
呼びかけた桜子の声を遮って、富松は叫んで彼女から離れた。
「どうしよう、俺が、だ、だ、抱き締めたせいで先輩の容態が悪化したら……もしそれで一生治らないようなことにでもなったら……!!」
目を白黒させて、富松が一人、我を見失い始めた。桜子は慌てて口を開く。
「作兵衛、大丈夫。私はもう完治しているの。今日ここに居るのは、念のため」
「で、でも」
なおもうろたえる富松を見て、桜子は立ち上がった。
富松が桜子を見上げる。その目は、少し潤んでいる。
桜子は眉尻を下げた。その頬が淡く色づく。
「作兵衛」
彼を見る瞳は、富松が一瞬呼吸を忘れるほど、優しかった。
「ありがとう。来てくれて、嬉しかった」
温かな手のひらが、富松の頭をゆっくりと撫でた。
富松の頬は熟れたように赤くなった。潤んだ瞳が、鉄板の上で氷が溶け去るように一気に熱を帯びる。
「先輩が無事で、ほんとに良かったです……あ、その」
視線をうろつかせる富松に、桜子は笑みを零した。
彼女は、富松が再び暴走を始める前にと手を引いた。
と、その手を、少し骨ばってきた手が掴む。
「あ」
彼女を見上げる富松の目が、月明かりに光る。
「俺が、一番嬉しかったですか?」
桜子が何か反応するより先に、富松はぱっと己の手のひらを退けた。
彼は一度口を開いた。しかし、すぐに閉じた。
「お、おやすみなさい!!」
再び口を開けた富松は、それだけ言って部屋から走り去った。
開けたままの戸から、月明かりが白く、室内に差し込む。
桜子の脳裏から、富松の眼差しが消えない。


2015.11.03(投稿)


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