三十一、涓滴は静かに集う


「すぐ帰ってこないからだよ! ばかばか!」
目を三角にして怒るチヨ子に、桜子は言葉を返すことができなかった。喉が痛いし声も掠れる。忍術学園の廊下を一人、口布を引き上げた状態で歩いている桜子は、風邪を引いていた。
図書館の本を脇に抱えて、キヌヨがチヨ子の陰から桜子を覗き込む。
「それより酷いじゃない。何があったのか聞きたくてたまらないのに」
話すようなことなど何もない。しかし追及は免れないだろう。桜子は遠い目だった。

川に落ちてずぶ濡れになってしまった桜子と竹谷は、撤退を余儀なくされてしまった。食満が付いてくるのを断固として拒んだからだ。いずれ忍として働くたまごたちは、皆濡れたままでも十分に動ける訓練をしている。桜子と竹谷は抗議したが、食満は引かなかった。
「俺も普段なら止めはしない。だが今回に限ってはだめだ。濡れ鼠のままでさらなる不運に襲われでもしたら、授業に支障が……いや、下手をしたら命に関わりかねん」
食満は真面目な顔で言い放った。
「お前たちは不運の恐怖、まだ知らないだろう」
思い出すと少しぞっとするような静かな声に気圧されて、桜子と竹谷は元来た道を引き返すことにした。
帰り道では、善法寺たちに見つからないよう心配する必要は無い。森の木々が両脇に立つ、人の手で整備された道を並んで歩く。木々から零れる影は、今の桜子にはやや肌寒い。小さく体を震わせた桜子を竹谷が心配そうに見た。
「桜子平気か? どっかで着替えられたらいいんだけど」
「大丈夫だよ、ありがとう。少し動きにくいけど、険しい道のりでもないから」
八左ヱ門は平気そう、と続けながら、桜子は目付きの変わった竹谷に頷いてみせた。
何者かに尾けられている。忍者のたまごたちは気配に敏感だった。穏やかだった森の空気が肌にこすれてひりつくようだ。
気配を隠せていないから、忍者ではないだろう。竹谷と桜子の後を、複数が半円を縮めるようにしてじりじりと迫っている。
(山賊かな)
桜子は思った。竹谷も同じように考えているだろう。どうする、と二人は目配せし合いながら、てきとうに会話を続けた。敵に気づいていることを悟られない方が、多くの場合は有利にことを運べる。
(たぶん山賊は、私たちのことをその辺りの村人だと思ってる)
商人らしくない出で立ちの二人をわざわざ狙うのだから、目的は金だけではないことも十分に考えられる。
(服、髪、女かな)
隣を行く竹谷の目が、気配を確かめるように動く。人数がわかる距離まで近づいた。こちらの二倍以上である七人が二人を囲みつつあった。
関わり合いになるよりも、逃げる方が賢明だろう。二倍以上の人数を相手取らねばならない上に、二人は濡れ鼠なのだ。
竹谷の目配せを合図に、二人は思い切り駆けだした。囲んでいた七つの気配に動揺が走る。
「気づいていやがったのか?!」
走る先の茂みからがたいの良い男が二人飛び出してくる。竹谷が鉤縄を取り出したのを確認して、桜子は煙玉に火を付けた。視界が一気に白煙に奪われていく中、伸ばされた手を掴む。先程川から彼女を引き上げた、硬く大きな手のひらが、再び桜子を思い切り引っ張った。賊たちの刀が変わり身の木とぶつかる鈍い音が遠ざかる。
桜子たちを目的の場所へ連れてきた鉤縄を回収しながら、竹谷は木の上から無言で遠くなった山賊たちの様子をうかがう。
彼の視線の先で、山賊は二人がただの村人ではないことに気が付いたようだった。刀に突き刺さった丸太を放り捨てて辺りをきょろきょろと探している。
「探せ! 絶対に逃がすなー!!」
桜子たち忍のたまごの五感は常人よりも鍛えられている。頭と思しき男の声は簡単に手に入った。
「奴ら忍に違ぇねえ! これはいい金になる!」
山賊たちは諦めず見当違いのところを探し始めた。ボロ布のような服を着た腕の太い男たちは、一人また一人と薄暗い茂みを掻き分け消えていく。
最後の男の頭が木々の中へと消えたのを見届けて少し待ってから、二人は地面へ音も無く降り立った。
「厄介なことになったなあ……」
竹谷は頭を掻いた。灰色の髪が更に乱れる。桜子も周りを油断なく見回しながら、眉尻を下げた。
腕を広げた木々たちは、蒼い葉を四方へふりかざしている。桜子と竹谷の服はずぶ濡れで、枝を伝っていくには重すぎる。
「どうする?」
「うーん……」
「とりあえず、このまま真っ直ぐ学園を目指すのはよくないよね」
「俺もそう思う。あと、どこか人が多く通るところに出たいな。人に紛れて帰れたらそれが一番だ」
「うん。それにたぶん奴ら、どこか人が多く通るところには出てこられないよ」
「ここから一番近いとなると、荷台の崩れたあの町か……」
竹谷が難しい顔をするのも無理はない。町に入るには、片側を崖に阻まれた山道を下りねばならない。山道を歩かないで町へ行くには地面を掘り進むしかないが、踏み鋤も無ければ七松もいない。山道は絶対に通らざるを得ない道となる。
山賊の頭に石が詰まっていたとしても、彼らは山道の近くで待ち伏せするだろう。
「戦うか?」
「勝てないことは無さそう。だけど、数が二倍以上の相手となると何が起こるかわからないから……」
桜子はふと思いついた。
「一度全員おびき寄せて捕まってから逃げれば、待ち伏せはされないよね」
「ああ、確かに! とすると、どうやって逃げるとき隙を作る?」
「相手は男。私に任せて」
桜子は不敵に口角を吊り上げたが、竹谷はえっと声を上げてうろたえた。
「八左ヱ門?」
首を傾げた桜子に「ち、ちょっと待った!」と竹谷は片手のひらを向けた。
「何かそう……こう、どちらかに負担が偏らない策にしないか?」
えっと、と続ける竹谷の目は少し泳いでいる。
歯切れの悪い竹谷は珍しい。きっと、何か思うところがあるのだ。桜子は竹谷の言葉を待った。
「相手は俺たちが忍だと認識しているし、桜子のこと、くノ一として警戒していると思うんだ。だから……」
触れると少しちくちくしそうな髪を混ぜるように掻いて、竹谷はうーんと言葉を探している。
桜子は、竹谷の言わんとしていることをぼんやりと理解した。
「つまり、奴らが私たちを男女の二人組だと認識していることを利用しようというのが、八左ヱ門の言いたいこと?」
首を傾げる。
竹谷ははっとしたように目を丸くして、猛然と頷いた。
「そう! そういうこと!」
続いて、竹谷は「ん?」と首を捻った。何か思考に引っ掛かりがあったようだ。
「ん、えーっと……ちょっと待てよ……」
竹谷がふと我に返ると、桜子は彼のすぐ目の前までにじり寄っていた。
竹谷の顔がさあっと青ざめていく。
「ちょ、ちょっと待ってくれ桜子」
「八左ヱ門が変わった方が虚をつけると思うの」
「いやっでもここには化粧道具が!」
「あります」
「なんで?!」
周囲に山賊の気配は無い。桜子は自分が、変装してささやかな悪戯に精を出しているときの鉢屋の目付きになっているであろうことを自覚した。白くたおやかな手で紅の器を転がして、桜子は竹谷へにじり寄る。
竹谷は気圧されたように後退るが、すぐに退路を幹に断たれた。
桜子は上目遣いに竹谷の瞳を覗き込んだ。竹谷の顔は二藍の衣のようだ。
「桜子、ちょ、ちょっと近い」
「近くないとお化粧はできないよ」
「やっぱりその方法で行くのか?!」
「早く忍術学園に戻らないと、食満先輩が心配なさるかも」
「うぐっ……それなら俺が自分で!」
「私の方が早くできる」
「ううー……」
たじたじになった竹谷に桜子は手を伸ばした。
「八左ヱ門、私の勝ち」

山賊は茂みに身を潜めて、山道を見張っていた。先程からちらほらと通る一人歩きの男にも、大きな荷を背負った商人にすらも、眉一つ動かさない。彼らはじっと待っていた。
「いいか、野郎ども。二人組だ。二人組の男女だぞ」
「へい親分! あの忍の二人組ですね!」
山賊たちには、大金が必要だった。新しく自分たちのアジトを作るために、莫大な資金が必要だった。忍を捕まえたら銭一千枚という怪しい広告につられて、真面目に忍探しをし始めてしまうほど切実な問題だった。
山で偶然見つけた忍二人は、山賊たちにとって千載一遇のお宝だったのだ。
目を皿のようにして見張りを続ける山賊たちの前を、山菜採りの帰りらしきぼさぼさ髪の女性が通る。
さらに石のように動かず山道を監視する山賊たちの前を、頭に鮮やかな頭布をすっぽり被った腰の悪そうな老婆がゆっくり歩いていく。
山賊は動かない。どちらも魅力的なカモではある。しかし二兎を追う者は一兎をも得ないのだ。
山賊は待ち続ける。日が沈んで昇っても、彼らは勤勉に二人の忍を待ち続けた。

(声が出ないのは風邪を引いたからで、風邪を引いたのは八左ヱ門に反物をあげて着替えられなかったからで、八左ヱ門の唇の端に私の紅が少し残っていたのは八左ヱ門が女装してたからなんだけど……)
桜子は心の中で独りごちながら、食堂へ続く廊下を行く。チヨ子たちの顔を見る限り、誰もまともに取り合ってくれなさそうだ。桜子は遠い目をした。




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