三十二、膨れ面の月
夜着に着替えたチヨ子は癖毛の茶髪をとかしながら、珍しく呆れたように桜子の眠っている方を見ていた。
「もう。やっぱり桜子って、実は医務室苦手なんじゃないの?」
桜子から返事は無い。代わりに、布団の中で咳込む声が聞こえた。
チヨ子は眉尻を下げる。
くノ一教室にあてがわれた長屋の二人の部屋には、仕切りの衝立は無かった。もう一年生の頃からずっと同じ部屋で眠っていて慣れているし、寒がりのチヨ子は時々桜子の布団へ暖を取りに潜り込んでくることもあるからだ。しかし今日は、桜子の強い希望で、部屋の隅に追いやられていた衝立が大活躍している。
「チヨ子……やっぱりあやの達のとこ行った方がいいよ」
もぞもぞと動きながら、桜子のこんもりと膨らんだ布団が苦しそうに喋った。
「移っちゃう」
チヨ子は手を止めた。頬を膨らませて、彼女は桜子と自分とを隔てる木の板ににじり寄る。へりに手をかけてチヨ子はむすっと桜子を見た。
「や。というか、あたしを追い出すより桜子が医務室に行く方が先でしょ?」
「そんなこと言ってる場合じゃなくて」
普段鈴の音のように響く凛とした声が、今はとてもか弱い。再び咳込む桜子を、膨れっ面だったチヨ子は心配そうに見つめた。枕元の燭台で、蝋燭の火がちりりと揺れる。
天井で、音がした。
チヨ子の顔色がサッと変わった。鼠の音ではない。彼女は武器を油断なく構えて、桜子の枕元に控える。桜子は赤い顔で上体を起こしたが、いつもの覇気は無い。
チヨ子は生唾を飲んだ。
(こんなときに曲者なんて……あたしが桜子を守らなきゃ……!)
先程の音以降、天井は静かだ。木目を睨みつけて、チヨ子はぐっと顎を引いた。
「……チヨ子、チヨ子」
彼女の寝間着の袖が、弱々しく引っ張られた。チヨ子は目を逸らさない。
「大丈夫桜子、あたしが」
「違うの」
「へ?」
思わず桜子に目をやったチヨ子の頭上から、二つの影が降りてきた。咄嗟にクナイを振りかけたチヨ子の腕を桜子が引き留める。
「大丈夫、先輩方だよ」
目を瞬いたチヨ子の前で、殺気を向けられたにも関わらず七松がけろりとした顔で手を上げた。
「よっ」
その奥には、赤い顔の桜子を見て苦笑いの善法寺もいた。
「やっぱり……もう、だから医務室に来てって言ったのに」
「うわあっ! 七松先輩に善法寺先輩!」
上級生が二人も増えて、桜子とチヨ子の部屋は急激に狭くなった。チヨ子は珍しく衝立が先輩二人の邪魔になっていることに気がついた。混乱している彼女は、それ以外に自分のやれることを見つけられなかったのだった。部屋の隅へと追いやる。蝋燭の明かりがぼおっと部屋全体に広がった。桜子の赤い顔はますます色づく。
「あのー……」
チヨ子は眉を八の字にして、先輩二人を前におずおずと口を開いた。
「見ての通り、桜子、今大変なんです。また今度じゃだめですか?」
善法寺も眉尻を下げた。
「僕たち、桜子ちゃんが大変だから来たんだよ」
「へ?」
「私は違うぞ!」
「え?!」
チヨ子と善法寺が揃って七松を見た丁度そのときに桜子が咳込んだ。
一体何しに来たのと語る後輩と同級生の目線など豪快に無視して、七松は桜子のすぐ横に胡坐をかいて座った。彼をぐっと子供の印象に近づける真ん丸の目がくるりと瞬いた。桜子が映っている。
「折角遊びに来たのにー。つまらん!」
きゅっと口角が下がる。七松のふとしたときの子供のような表情は、正しく彼の魅力だった。
「小平太、だから彼女は病人なんだって」
「病気なんて楽しく遊んでたら治る!」
「ええ?!」
むちゃくちゃ言うなあ、と善法寺はがっくり頭を垂れた。
しかし保健委員会として、善法寺は桜子の安静については一切譲らなかった。根性で小平太を説得して、「まあ遊ぶのはまた今度でいいや」という言葉を勝ち取った善法寺は、桜子に向き直った。
布団に横たわって善法寺を見上げる桜子の目は、熱におかされていた。うっすら開かれた唇から吐息の音が聞こえる。善法寺は唇を噛んだ。思わず視線を逸らしたくなる。
「……もう!」
少し怒ってみせたのは、覚えてしまったいたたまれなさを吹き飛ばすためだった。
「桜子ちゃん、医務室苦手なの? 来てくれないと困るよ!」
「ごめんなさい……」
善法寺の呼吸は喉のところでつっかえた。まったくもう、と呟いて、広げた薬草に意味もなく目を凝らす。変だなあ、と善法寺は内心ため息を吐いた。善法寺は保健委員歴六年だ。風邪で掠れた声などいくらでも聞いたことがある。
何で今回に限って、こんなに落ち着かないのだろう。もしかして、彼女は自分が思っている以上に具合が悪いのだろうか。自分の保健委員としての勘が肩を揺さぶっているのかもしれない。
「……ちゃんと来てくれないと、これからも押しかけるからね」
熱にうなされ訳もわからぬままの桜子がぼんやりと口を開いた。
「ちゃんと行かない方がお会いできるってことですか……?」
善法寺は押し黙った。
動いたのは七松だった。桜子の鼻を、節だった男の指が摘まんだ。
「そういう顔しちゃダメだぞ、桜子」
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