三十三、恋草、腕よりこぼれる
桜子の顔を見た瞬間に、久々知は眉を顰めた。桜子が首を傾げる間もなく、久々知は足早に彼女に歩み寄った。桜子の隣でチヨ子がびっくりしている。
「保健室行ったか?」
「……行ってないよ。どうして?」
できる限りさり気なく聞こえるように答えた桜子を、久々知はじとりとした目で見つめた。
そういえば、と桜子は思い至る。以前腕を骨折して学園に戻ってきたとき、久々知は桜子が保健室に連行されていくところを見ている。少しばつが悪くなって、桜子は付け足した。
「あの……先輩が部屋で見てくださったの。煎じて飲むこと、と薬湯の元をもらったし、大丈夫」
「……部屋で?」
「うん」
「善法寺伊作先輩に?」
「うん」
大きな目と長い睫毛が桜子の前で何度も瞬かれた。チヨ子が物珍しそうな目を隠そうともせず、久々知を見た。忍たまの一年生たちが今日の夕食はと三人の傍らを駆けていく。
「桜子」
「はい」
「ちゃんと今度から、自分で保健室に行かないとだめだ」
「はい……」
「えー! 桜子どうしちゃったの?!」
私が言ってもちっとも聞かなかったのにとチヨ子は喚いている。桜子は両腕を組んだ。
「兵助はしっかりしてるから、言葉がしっかり響くの」
「えー!」
天井から降ってきた鉢屋があまりに自然に胡坐をかいたので、桜子もチヨ子も彼がそこへ留まるのを承諾するほか無かった。
「ええとー……不破くん? はこんなことしないよね」
「三郎だよチヨ子。ねえ、けろっとしてるけど私たち肝を冷やしてるの」
「そうか? いや、すまない」
鉢屋はちっとも思っていない様子で片手を上げた。桜子はため息を吐いた。
鉢屋が桜子の部屋へやってくるのは、おそらく二度目だ。チヨ子に変姿し、骨折した腕を抱えて帰ってくる桜子を廊下で待っていたとき以来だ。
しかし侵入者としては、善法寺と七松の来襲から一週間も経っていない。
(くのたま長屋の罠はそう何度もやすやすと破れるものじゃないのに……)
同期と先輩が末恐ろしい。そして罠はメンテナンスを加えるべきかもしれない。
桜子が淹れたお茶を、鉢屋はずずと飲み干した。未だ頭上に疑問符を浮かべたままのチヨ子がじとりと横目で見ている。
「桜子〜、あたしもう眠たい〜」
「わかったわかった。それじゃあお前は寝てもいいぞ」
「寝られるわけないでしょ!」
鉢屋はくつくつと笑っている。向かいに座って、桜子は首を傾げた。
「何だったの?」
「特に何も?」
「へ」
期待通りの反応だったのか、鉢屋は不敵に笑った。
「考えてもみろ。用があったらこんな危険を冒さずとも、日中に声をかけたらいいだろう」
少しの間黙って、桜子は無言で寝具へ向かった。
「チヨ子、もう寝よう」
「えっおい、それじゃあ私がわざわざここに来た苦労が水の泡だ!」
「知らない」
寝具に潜り込んでしまった桜子は、最早烏の濡れ羽の色をした髪と、その隙間からのぞく小さな耳しか見えない。鉢屋は深く息を吐いた。
「……で、何をそんなにじっと見ているんだ?」
チヨ子は、まるで人間を観察する猫のような目で鉢屋を見ていた。いたたまれず身じろいだ鉢屋へ矢のように言葉が真っ直ぐに飛んでくる。
「てことは、用が無いけど桜子に会いたくて来たってこと?」
部屋には、蝋燭の芯が焦げていく音だけが響いた。
「んん」
瞬きもしない内に眠りに落ちていた桜子が、寝返りを打って丸くなる。
「ねえ、そういうこ……」
チヨ子が視線を戻したときには、鉢屋の姿は部屋のどこにも無かった。
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