五、萌芽はずっと前だった


前日から二日ぶりに会った子狸は、ずいぶん体調が良さそうだった。竹谷に懐いたのか、彼が寄るとまるで猫のように尾を振る。竹谷が笑って撫でてやると、その手に擦り寄っていった。
「よかった」
桜子は、その様子に笑った。竹谷は桜子に目をやって、自身も嬉しそうに破顔する。
「怪我の方もだいぶ良くなったぞ。まだ歩けないけどな」
「そっか。早く治るといいね」
桜子が話しかけると、子狸は竹谷特製の寝床の上でじっと彼女を見つめた。尾が、僅かに揺れる。桜子は笑いかけるにとどめて、小屋を見回した。
以前訪れたときには、じっくり見ていられなかった。あまり訪れる機会が無いので、興味がある。
小屋の中では、怪我をしていたり、雨に弱かったりする動物を優先して飼育しているらしい。狼や鷲がいない。
並んだ檻と壺の近くには、捕獲用の網や道具が散らばっていた。何が入っているのか、木製の棚もある。
続いて天井を見上げ、桜子は思わず声を上げた。
子狸の包帯を替えていた竹谷が、桜子を見る。
「どうした?」
「穴が空いてる」
「え?! あー、本当だ……」
竹谷は天井を見て、肩を落とした。子狸が、竹谷の手を可愛らしい舌で舐める。
桜子は、踵を返した。黒髪がさらりと揺れる。
「用具の子呼んでくる」
「あっ、いいんだ! 俺が後で頼みに行くから……」
「子狸を拾ってきたのは私なのに、世話を任せてるから」
引かないと言外に伝えると、竹谷は目を瞬いた後、明るく笑った。
「じゃ、頼む」
「うん」
桜子は口元を緩めて、小屋を出た。

彼はいつもこの時間、用具倉庫に居た。
桜子は後ろ姿を見つけて、にやりと悪戯っぽく笑った。
気配を消して近づいて、桜子はその頭を優しく撫でた。
「うひゃあっ?!」
富松は飛び上がった。
続いて彼は、顔を真っ赤にして振り向く。
「せ、先輩!」
桜子は、思わず頬を緩めた。自分より低い位置にある頭を撫でる。
富松は赤い顔のまま、むっとした。
桜子は、この可愛い後輩が大好きだった。満面の笑みが、富松の前では惜し気など無く溢れてくる。
「もうそろそろ私の気配くらい読めなきゃ」
「読ませる気なんて、無いくせに」
富松は少し拗ねたように桜子を睨んだ。
桜子は、笑声を零した。富松はますます赤くなって、そっぽを向く。
「うん。作兵衛が可愛いから、まだしばらくは読ませない」
富松は、ちらりと桜子を見た。
桜子は、富松の頭から手をどける。
富松は一瞬固まり、何やら真っ赤になった。続いて彼は、ぶんぶんと首を横に振る。
桜子の口角が、その様子にまた、ゆるゆると持ち上がる。
富松の想像力が少しずれた方向にたくましいのは、既に知っていた。
可愛いなあ、と内心呟きながら、桜子は口を開いた。
「作兵衛、今大丈夫かな。生物小屋の天井に穴が空いてるの」
一人百面相をしていた富松は、きょとんと目を瞬いた。
「生物小屋?」
桜子は頷く。
と、富松は青くなって、桜子の手を掴んだ。
「先輩生物委員会に入られたんすか?! ま、まさか毒虫に噛まれて……?!」
桜子は苦笑した。
「くノ一教室は委員会に入らないよ。噛まれてもいないから大丈夫」
ありがとう、と桜子が笑いかけると、富松は再び耳まで赤くなる。
彼は桜子の手を離して、何やら小さく早口で呟いた。
「何?」
「なんでもないです」
富松は、桜子から目を逸らしたまま言う。
道具を取りに行くと言って倉庫の奥へ駆けていく富松の後ろ姿に、桜子はやはり自然と笑みが浮かんでくるのを感じた。
(三年ろ組の迷子達を、あのとき見つけて良かったな)
くのたま達の悪戯を経験した後だったのか、富松は最初桜子を警戒していた。桜子自身も、これきりの縁だろうと思っていた。
棚の方から、用具を担いだ富松が歩いてくる。少し赤みがかった茶髪が揺れる。
意思の強そうな瞳が、無防備な表情で桜子を見ていた。
(これっきりにならなくて良かった)
「行きましょう、桜子先輩」
「うん。ありがとう」
桜子は上機嫌で、富松の隣に並んだ。



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