八、千五百(ちいほ)に彩り


手のひらの上で、深紅の紅が転がる。
桜子は、この紅の色があまり好きではなかった。以前購入した深紅より、下品な印象を受ける色の濃さだった。
桜子は、ため息を吐いた。
引っ掛ける男は、選んだつもりでいた。懐具合が良さそうで、女性に対し妙に優しくしようとする、そして山本シナ先生が指定した、自分とは別の女性に声を掛けようとしている男だ。
男は、桜子の思惑通りに行動してくれた。思った通りの甘やかし具合だった。
しかしそのセンスの悪さは、桜子には読み切れなかった。
桜子はため息を吐きつつ、山本の元へ、戦利品を携えて報告へ向かった。

桜子は非常に疲れていたが、同時に上機嫌だった。
山本の凛とした声が、耳の奥で繰り返し柔らかくほほ笑む。
微笑を浮かべたまま、彼女は門を潜る。
「ただいま戻りました」
箒を携えた小松田が、彼女を見てへらっと笑った。
「おかえり〜。何だかとってもご機嫌だねえ」
「山本シナ先生に、褒めて頂けたんです」
あなたが毎回町での実習で成功するのは、天性と努力の賜物だと心から思うわ。
再び山本の声が脳裏で響いて、桜子は花が綻ぶように笑った。紅の色で不服があったことなど、尊敬する師の一言で一瞬にして吹き飛んでしまった。
よかったね、と小松田はにこにこ笑う。桜子は頷く。
と、こちらへ歩み寄る足音がした。
小松田がそちらの方を向く。桜子もつられて、小松田の視線を追った。
とたんに、彼女の頬がさらに緩んだ。
「小松田さん、小屋の修理終わりました」
「あ、ありがとう〜! じゃあちょっと様子を見てくるよお!」
「はい」
「作兵衛」
桜子が呼びかけると、彼はぱっとこちらを見た。
所々汚れた頬が、少し赤い。
「おかえりなさい、桜子先輩」
「ただいま」
桜子は富松に笑みを向けた後、その隣に立つ先輩に、頭を下げた。
「こんにちは、食満留三郎先輩」
食満は、桜子におう、と笑った。吊り目の鋭い印象を打ち消すような、人の良い笑顔だった。
「確か三町……だったな。作兵衛から話は聞いている」
「私もです。あの学園一ギンギンに忍者している潮江文次郎先輩と互角に渡り合う武闘派だけど、面倒見の良い先輩だとうかがっています」
「はは、そうか。まあ面倒見が良いというより、うちの委員会は俺以外みんな下級生だからなあ……」
そう言って、食満は富松の頭に軽く手を置いた。
本当に面倒見が良いんだろうな、と桜子は思った。
彼女は以前、合同で行った実習で、食満と組んだことがあった。やるからには一位を目指そうな、と笑った食満は頼もしかった。非常に安定した状態で臨むことができたのは、ひとえに食満のおかげだった。
「あの、食満先輩」
ん?と桜子を見る食満に、彼女は頭を下げた。
「この前の実習では、本当にお世話になりました。ありがとうございます」
桜子の言葉に、食満は目を瞬く。
覚えていないのかもしれない。桜子は内心、感嘆の息を吐く。
流石だ、それだけ彼にとって一位は当たり前の結果なのだろう、と桜子が思考を巡らせるのを、食満の声が遮った。
「いや、こちらこそ感謝している。くノ一教室との合同実習で一位を取れたのはあれが初めてだ」
食満は、そう言って笑った。
桜子は目を丸くした。
食満の隣で、富松も驚いたように先輩を見上げている。
食満は、二人の視線にきょとんとした。
「何だ?」
桜子と富松は、顔を見合わせた。
「いや、てっきり」
「食満先輩は毎回のように一位を取っているんじゃねぇかと……」
「いや」
食満は笑った。
「俺の戦い方はくノ一教室の子には合わないことが多くてな。気づいたらチームになった子を置いてけぼりにしてしまうなんてことがしょっちゅうなんだ」
「そうなんですか」
桜子は目を瞬く。
その隣で納得だというようにうんうん頷いている富松を、食満は小突いた。
「そんなに頷かなくて良い! それより作兵衛、そろそろ用具を片づけに行くぞ」
「あ、はい!」
富松は、地面におろしていた荷物を持ち上げた。
桜子は、口元を緩めた。ゆっくりと手を伸ばす。
「作兵衛」
こちらを見上げた富松の頭に、桜子は柔らかく手を乗せた。
富松は、びくっと肩を強張らせた。
「またね」
「は、はいっ!」
「食満先輩、お疲れ様です」
「おう」
桜子は、最後に富松の頭を二、三度撫でて、踵を返した。
校舎はすっかり、美しく夕日色に染まっていた。
桜子は一つ、欠伸を零す。
(こんな時間まで作業してるなんて、用具委員会ってやっぱり大変だ)
校舎へ歩んでいた桜子は、足を止めた。
「……やっぱり動きにくいな」
桜子は、そっと腕を持ち上げる。
一先ず、自室へ戻って着替えよう。
桜子は、美味しそうな匂いの漂ってくる方へ、背を向けた。
「おーい!」
再び歩みだそうとした彼女は、足を止めた。振り返る。
手を振ってこちらへ歩んできたのは、久々知だった。長い黒髪が、歩に合わせて揺れる。
「久々知くん」
目を瞬かせた桜子の前までやってきた久々知からは、仄かに火薬の匂いがした。
「お疲れ」
桜子は微笑む。
久々知も笑った。
「三町さんも。今日実習だったらしいな」
桜子は、きょとんと目を瞬いた。
本日は、表向き授業が全て休みの日となっている。くノ一教室が実習を行うと、忍たまに悟らせないためだ。
「……久々知くんって、優秀だね」
現在在籍しているくノ一教室の上級生に、実習があるということを簡単に悟らせてしまうような人間はいない。彼女たちはごく自然に、なんでもない日常の空気へ実習を溶かしこむ。
自分自身が引っかかるか、忍としての能力に優れていなければ、本日がくノ一教室のみ実習を行っていると勘づくことはほぼ不可能だ。
久々知は、困ったように笑って首を振った。
「いや、俺は偶然、くノ一教室の子が罠を仕掛けてるのを見たからさ」
「その子、食堂から忍たま長屋への近道に罠仕掛けてなかった?」
「あ、うん。仕掛ける位置が絶妙だよな」
「その子、間違いなく私と同室の子だよ。その子は罠が得意分野なんだけど、他人に罠を仕掛けるところを絶対に見せないって信条があるみたいでね。くノ一教室の中でも、見たことがあるって人は少ないんだ」
「へえ……」
「同室の私も、初めて見かけたのは四年生になってからだよ」
「えっ?!」
「うん。だから久々知くん、本当にすごい」
久々知は、照れくさそうに笑った。
「ありがとう。でも、本当に偶然だ」
桜子は微笑んだ。
久々知は、謙虚だ。彼が滅多にくノ一教室の罠に掛からないのも、頷ける。
久々知は人差し指で頬を掻きながら、口を開いた。
「三町さんは、実習、町でだったのか?」
「あ、うん。そうだよ」
桜子は頷いた。小袖の袖を、少し持ち上げる。
水色の上で、白と淡い黄の花びらが、風に踊っている。遊郭で煌びやかな色を見飽きた者の目につきやすく、その上で自分に合った色を、桜子が時間を掛けて選んだものだった。
山本シナが言うように、桜子は実習の準備に、どんな細かなことでも手を抜いたことは無かった。
「三町さんによく似合ってるよな。その小袖」
桜子は、顔を上げた。
久々知は、長い睫毛の、大きな瞳を瞬かせて、にこりと笑った。
桜子は、二三度目を瞬く。
続いて彼女は、綺麗に微笑んだ。
「ありがとう」



2012.03.13(投稿)





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