九、輪郭をなぞって笑った


「ご馳走様でした」
桜子は手を合わせて、盆を持った。
食堂には、既に人気は無かった。台所でおばちゃんが洗い物をする音が、静かな食堂によく響く。
桜子は暖簾を潜って台所へ行き、おばちゃんの傍らにそっと盆を置いた。
「遅くなっちゃってごめんなさい」
おばちゃんはにこにこと笑った。
「いいのよ別に。実習はどうだった?」
「シナ先生に褒めていただけたんです」
「そうなの! 良かったねえ」
「はい! あ、お手伝いします」
「ああ、いいからいいから。お風呂まだなんでしょ? ほらほら」
桜子はおばちゃんに半ば追い出されるようにして、食堂を後にした。
誰も居ない渡り廊下を、ゆっくりと歩く。夜の涼風が快い。
桜子は思わず立ち止まった。手摺りにもたれて、夜空を見る。月が明るい。
状況によっては忍の敵となる白い影は、相変わらず美しかった。
ぼんやりと、月の光に包まれていた桜子は、少しして小さな音を聞いた。
桜子は、姿勢を正す。瞳を閉じて、桜子は耳に神経を集中させた。
風に揺られて、木々が鳴く。遠くで、梟の声がした。
忍たま長屋の方から、笑い声が聞こえてくる。
そしてその間を縫って、心細そうな声が、桜子の耳に届いた。
桜子は目を開けて、ふわりと手摺りを乗り越えた。黒髪が踊る。
桜子はそのまま、神経を研ぎ澄ましてゆっくりと歩む。忍たま長屋の笑い声が近づく。
桜子は、一本の木を過ぎたところで立ち止まった。
彼女はそっとしゃがみ込んで、足元を三回、小さくノックする。
地面の下で、息を飲む声がした。
「誰か居るの?!」
「はい」
桜子は言いながら、周囲の地面を目と手で探る。
彼女は二箇所に印を付け、両方を思い切り叩いた。
足元で、小さく音がした。
桜子ははっとして、叫ぶ。
「頭を守って、しばらく目をつぶって息を止めてください!!」
その直後、地面が円形に、音を立てて崩れた。
中にいる人物の動揺が、空気を介して桜子の方へも伝わってくる。
桜子は木へ縄をくくりつけ、その端を手に持った。口布を上げて、穴へと飛び降りる。
「善法寺先輩」
土煙に咳込んでいた善法寺は、涙目で桜子を見た。
桜子は、彼に縄を手渡す。
「先に上がってください」
「ごめん、ありがとう」
善法寺は咳込みながら、素早く土壁を蹴り上がった。

チヨ子が仕掛けた罠だ。穴の底に落ちていたクナイや千本を見て、桜子は確信した。
善法寺は、全て打ち落としたのだろう。彼は無傷だった。
「ありがとう。見つけてくれて、本当に助かったよ」
そう言って、彼は弱々しく笑った。緑だった忍装束は、砂に塗れてほとんど土の色に変わっている。
桜子は恐る恐る、善法寺に問うた。
「あの……先輩はいつから、あの中にいらしたんですか?」
「うーん……」
善法寺は苦笑した。
「もう一刻半は経つかなあ」
桜子の顔から、さっと血の気が引いた。
「チヨ子に後で謝らせに行かせます!!」
「あはは、いいよいいよ」
善法寺は、桜子の言葉に柔らかく笑った。
夜闇に優しく灯る、蛍火のような笑顔だ。
桜子は、己の心が一気に、安心感に包まれるのを感じた。
「それより、見事な罠だと伝えておいてほしいな。一瞬で上が塞がれた上に、クナイが四方から飛んできたから、出る隙がちっとも無かったよ」
そう言って、善法寺は片目をつぶってみせた。
桜子は思わず、彼女も笑顔になった。
それを見て、善法寺は笑みを濃くする。
「三町さん、だったよね」
「はい。子狸のことでは、本当にお世話になっています」
「いいんだよ。僕は保健委員なんだから。三町さんは、生物委員なのかい?」
「違うんです。あの子狸も、私の同室の子が仕掛けた罠に掛かってしまっていて」
「そうなんだ。あはは、それじゃ今のところ二回とも、僕が君と話をする機会を作ってくれたのはその子だね」
「言われてみると、そうですね」
涼しい風が頬を少しくすぐって、通り過ぎていく。
聞こえる木や草の声は、優しい。
桜子は、善法寺を見つめた。
彼女は、己がひどく、穏やかな気持ちであるのを感じていた。
善法寺の持つ雰囲気が、桜子の心を優しく撫でるのだ。
「あの、先輩」
桜子の口が、自然と開いた。
「また、お話しにうかがっても良いですか?」
善法寺はきょとんとした後、柔和な笑顔を浮かべた。
桜子の胸の奥が、温かい手にゆっくりと撫でられる。
「もちろん。いつでもおいで」



2012.03.28(投稿)




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