脱走




そうだ旅に出よう。朝、目を覚ましたときにそう思った。隣で眠る恋人の肩に布団を掛け直して、そっとベッドを抜け出す。黙って出て行くなんてリョーマは心配するだろうか、なんて。玄関の扉をバタンと閉め、早朝の静かな空気を歩く。

足がなんとなく向かったのは、中学の頃よく来ていたストリートテニス場だった。スタンドに座って無人のコートを眺める。時々どうしようもなく不安になる。リョーマは優しいと思う。でも私ばかり彼のことが好きなのではないかと悲しくなって、こうして私の脱走劇は度々発生していた。そう、私ばっかりなんだ。だってわざとらしく音を立てて玄関を出たってすぐに追いかけてくれることもない。

「…ったく、やっぱりここかよ。」
いつだって、こうして私を見つけてくれるのは桃先輩だ。

「勘弁しろよ。俺だってねみいんだからな。」
「リョーマは何て。」
「“猫が逃げた”だとよ。」

自転車の荷台に乗せられて涼しい住宅街を抜ける。桃先輩の後頭部には寝癖がついていた。

そう、所詮は猫と一緒。だから私が気まぐれに家を出ることを特別気にしていないし、誰かが捕まえてくれるし、放っておいても勝手に帰ってくると思ってる。その通りだ。桃先輩が来てくれなくたって、どうせ私は勝手に寂しくなって勝手に彼の元に戻るんだ。

「ほらよ、お前んのとこ猫だろ。」
「サンキュー桃先輩。」

玄関先で引き渡されて、そのまま何を言われるでもなくベッドに連れられた。でも何をするわけでもない。布団を私の肩までかけ直して「もう少し寝ようよ」と目を閉じる。

意味なんてない。私がどうしようもなく逃げたくなるのも、追いかけて欲しいのも、追いかけてくれなくてまた不安になるのも。その全部がリョーマの思いのままだとしても。きっと私はまた意味もなく旅に出るんだ。



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