竜崎桜乃が後悔する話【注意:恋愛関係を思わせる描写があります。】
私竜崎桜乃に人生で一番の後悔があるとするのなら、それはきっと越前リョーマくんのことです。
彼とは12歳の春に出会いました。いつもキラキラした世界を私にくれる人でした。移動教室ですれ違う眠そうな顔。部活中、隣のコートで汗を流す姿。彼のいた毎日は本当に鮮やかで私はいつも胸の中が忙しくて。彼のためにお小遣いをたくさん注ぎ込んで大吉が出るまでおみくじを引いたり、偶然街で会ってその足で二人でゲームセンターで遊んだり。キラキラとして、本当に美しい思い出でした。
リョーマくんはあるときから学校に来なくなって、そうかと思えばあっという間に世界的なテニスプレイヤーになり、手の届かない存在になりました。そして私は思ったのでした。ああ、あのとき想いを伝えていればよかった、と。
彼の活躍をテレビで、ネットで、追いかけます。鮮やかなプレイもさることながら、彼にはいつだってそのパーソナルな部分に注目が集まっていました。生まれた国、好きな食事のメニュー、テニスバッグの中の私物、そして恋の話。
そりゃあモテるに決まってます。知っていますとも。中学の時もファンクラブができて親友の朋ちゃんがいつも張り切っていました。
そしてある時、SNSに電撃報が駆け巡ったのでした。
…リョーマくん、恋人と別れたんだ。
ちょうどこのとき冬でした。一年のシーズンを終え、リョーマくんは日本に帰ってきているようでした。確かリョーマくんのお家はこの辺りだったかな、なんて、お買い物のついでに少し遠回しして閑静な住宅街を歩きます。まさかね。私の毎日に何かが変わったわけでもないのに、彼が帰ってきているのだと思うとそれだけで地元の道も鮮やかに見えました。すると、そのときでした。一軒の和風なお家の扉がガラリと開いて、一人のよく知った顔が出てきたのでした。
「リョーマくん…?」
「…?ああ、竜崎…」
「わ!あの!私と付き合ってください!!」
え?
彼もびっくりしていたし、私もびっくりです。何?私何言ってんの?頭が真っ白で、違うの、いや違うってことはないんだけど、でも違うの。こんなこと言うつもりはなかったの。
突然現れたすごく会いたかった人に、思いがけず会えたことで私の頭はどうにかなっちゃったみたいです。
「慌てすぎ。相変わらず落ち着きないよね。」
彼は優しく笑って、その話歩きながらでもいい?なんてラケットバックを背負って足を踏み出したのでした。
「で、付き合うって?それって恋愛の意味で言ってる?」
「ごめんなさい、言うつもりもなかったんだけど…」
「変なの。俺と付き合いたいんだ?」
「えっと…あの…はい。ずっと、好きで。」
道を歩きながらリョーマくんは何でもないような顔して言葉を紡ぎます。昔からそうだったよねリョーマくんて。落ち着いてて、肝が座ってて、なのに時々照れてみせたりして、そしてコートの上では誰より熱くて。そういうところが本当にずっと好きだったの。
「じゃあ、俺行くから。」
「え?あ、はい。え?」
「今日ここで打ち合わせあって。じゃあ、またね。」
駅前の、一つのカフェの前でリョーマくんは立ち止まり、呆気なく私に手を振りました。
待って。私返事もらってない。私はどういうつもりでいればいいの?
「リョーマくん…!さっきの話…!」
「ん?ああ。スマホ貸して。」
「え?」
リョーマくんは私のスマホを操作して、連絡先を入れているようでした。そしてすぐに私に返して「じゃあね。」と背中を向けました。だから、返事は?ねえ、これってどういう意味なの?
よく分からないまま時間だけが過ぎていきます。あの日の出来事は一体何だったのでしょう。いやそれを言いたいのは彼の方なのかもしれませんが。突然付き合ってなんて言われたら困るよね。
でもこんなチャンスきっともうない。彼はまた1月からツアーに出発してしまう。だから二ヶ月もない彼のシーズンオフを私は無駄にできないのです。連絡を入れます。「ご飯行きませんか?」そして半日ほど経って返信が返ってきました。「OK」と。これを私はデートと呼びたいと思います。
後日個室のあるご飯屋さんに、時差で入店しました。本当はどこかで待ち合わせしたかったけど、リョーマくんが先に行っててと言うので。遅刻しそうなのかな?なんて呑気に捉えていたのですが、あとから個室に入ってきたリョーマくんの様子を見てハッとしました。目深に被った帽子、小さなお顔を隠す大きなマスク。そっか、そうだよね。
「お待たせ。先飲んでて良かったのに。」
「ううん!一緒が良かったから…」
「そ。じゃあ俺も同じの飲もうかな。」
リョーマくんは無口な人なのかと思っていました。でもこうして話してみれば自然と会話を繋げてくれる。それが心地よくて。とりとめのない世間話を交わして、食後のデザートが運ばれてきた頃にリョーマくんは言いました。
「変な感じだよね。俺たちずっと友達だったじゃん。」
胸がキュッとします。いいえ。私はね、そんなつもりは一度だってなかったよ。
そんなデートを数回繰り返し、いよいよ1月がやってきました。彼がオーストラリアに向かった頃、一つの噂をSNSで見かけました。
“越前リョーマに新しい恋人ができたらしい”
そわっとしました。これって、私のことかな。でも恋人って、ちゃんと言われてない。でもでも私は好きと伝えて付き合ってほしいとも伝えて、それから何度も私と会ってくれた。言わないだけで彼はもうそのつもりなのかな。期待にドキドキする一方で、気になる意見も見かけます。
『前の彼女と別れたばかりなのに』『心の隙間を突いた策士』
…うん。わかってる。それでいい。それでもいいの。リョーマくんってねポケットのスマホが振動するといつもすぐに取り出して画面を見るの。で、いつも期待外れみたいで少し寂しそうな顔でポケットにまた戻す。でも私と何度も会ってくれている。もしリョーマくんが私のこと、忘れられない恋を忘れるための、新しい風のつもりであっても、それでいいと思う。私を見てくれているのなら、それだけで。
でも言葉というものは呪いのようで、割り切ったつもりでいても胸に突き刺さって抜けない。いつも私の身にまとわりついてえぐってくるのです。「心の隙間を突いた」わかってるよ。気にしてないなんて上部だけで、街を歩けば誰からも石を投げられることはないのに、誰が言ったのかも分からない言葉に私はずっと縛られている。
[中略]
その年の暑い夏のことです。なんとリョーマくんがウィンブルドンで優勝しました。とても熱い試合でした。初タイトルということもあり日本のニュース番組は大盛り上がりです。
ウィンブルドンというのは伝統的な大会で、イギリスの王族の方が専用ボックスから観戦されるような、格式高いトーナメントです。そして優勝したリョーマくんは、試合の後すぐにウィンブルドンの各種目の優勝者を集めた祝賀パーティーに招かれ、ウェア姿から一転、黒のスーツに着替えての登場です。それを私はSNSに流れてくる写真や映像を頼りに情報を得ていたのですが、スクロールをする中で目に留まったそれに息が止まるかと思いました。リョーマくんが、女性の手を取ってダンスをしている動画の切り抜きでした。
男子女子それぞれのシングルスを優勝したプレイヤーが、ペアダンスを披露する。それがウィンブルドンのパーティーの恒例セレモニーだそうです。リョーマくんは女性プレイヤーをエスコートし、指を取り腰に手を回し、少し照れくさそうにステップを踏んでいたのでした。
別れてしまったらしい彼女さんの話題とはまた別のベクトルでの、えもいわれぬ衝撃。純粋なる嫉妬。そう嫉妬です。そして不安の波が襲ってきます。こんな煌びやかな世界で笑っている人と、私はきっと釣り合っていないんだろうな、などと。
一夜明け、リョーマくんにメッセージを送りました。優勝おめでとう!かっこよかったよ!すぐに既読がついてサンキュとだけ返ってきたので思い切って「電話してもいい?」と送ってみました。すると、リョーマくんから電話をかけてくれました。
「疲れてるところごめんね。優勝おめでとう。」
「平気。試合見た?」
「うん!すごかったよ!感動しちゃった。」
「そう。」
「その後のパーティーもね、動画見たよ。すごく華やかな場所で…楽しそうだったね!」
「まあ。でも流石に疲れたかな。さっきまで寝てた。」
「え、いっぱい寝たね!休めてよかったよ。……」
「…竜崎?」
頭をよぎる、パーティーで笑っていたリョーマくんの姿。電話越しの顔なんて見えないくせにリョーマくんは私が暗い顔をしたことが分かったみたいです。私はそれがすごく嬉しくて、つい欲張ってしまいたくなってしまいます。
「あのね、リョーマくん…」
「ん?」
「私、リョーマくんが活躍してすごく嬉しいの。勇気がもらえるし自分のことみたいに誇らしくなる。でもね…」
「…」
「遠い世界の人みたいで、なんか私自分が情けなくなっちゃった。リョーマくんて本当にすごい…」
これは本音です。ですが、もっと言うならば、私の真意は「そんなことないよ」と言ってもらうことでした。リョーマくんはすごいんです。昔からすごい人なんです。大好きで、その視線を独り占めできたならどんなに幸せだろうと何年も思い描き続けてきました。だから、そんなあなたから自信をもらいたい。そんなことないよ、大丈夫だよって私に言ってほしい。
「竜崎は、…俺といるとつらい?」
「つらいっていうか…やっぱり寂しくなるときはある、かな…」
リョーマくんの静かな声。心地よくてつい甘えてしまいます。ねえリョーマくん。私ね。
「じゃあさ、竜崎。」
「うん…」
「俺たちもう会わないほうがいいね。」
「…………え?」
静かな声のまま、リョーマくんはそう言ったのでした。待って、待ってそうじゃないよリョーマくん!
「つらい思いさせてごめん。もう連絡しなくていいよ。バイバイ。」
それだけ言って、リョーマくんはぷつりと通話を切りました。無機質な終話の音だけが耳元に響きます。
何、何が起きてるの。
その数ヶ月後、リョーマくんにまた恋の話題が浮上しました。それが新しい恋なのか、忘れならない恋がまた実を結んだのか、それは分かりません。ただ一つ分かるのは、そのお相手は私じゃないということでした。
欲張ってしまったことがいけなかったのでしょう。リョーマくんのことが好き、それだけでよかったのに、リョーマくんを私の肯定感のために利用しようとした。それをがっかりされてしまった、…というより、私には強い確信がありました。彼を傷つけてしまったのだと。
私竜崎桜乃に人生で一番の後悔があるとするのなら、それはきっと越前リョーマくんのことです。
ごめんねリョーマくん。ねえどうにかして時間を巻き戻せないかな。私は図らずも、身をもって苦しんだ言葉の刃を持って、大切な人を切り付けてしまったのでした。
≪前 | 次≫
←main