竜崎スミレが進退を考える話


竜崎スミレは青学の名物コーチだった。定年後も外部コーチとして青学テニス部に関わり、その情熱を部員の成長に注いだ。しかし年齢というものは抗えないもので、体力的に限界を感じ彼女はついに引退を考える。

しかし、問題がある。後任がいないのだ。
青学は今やテニスの聖地としてプレイヤーの中で有名なスポットとなっていた。卒業生の二人、手塚国光と越前リョーマ。彼らは世界的なトッププレイヤーとして名を馳せたのだった。グランドスラム参戦をはじめとした華々しい実績。日本が産んだテニススターとして国内メディアも飛び付いて報道し、競技人口を増やすほどの影響力があった。

であるので、青学の入部志願者は後をたたず、そして、二人のあまりのビッグネームに「荷が重い」とコーチを引き受ける者は現れない。竜崎スミレは頭を悩ませていた。




手塚とリョーマはピークの年齢を過ぎ、それぞれのタイミングで現役を引退していた。

手塚は変わらずドイツを中心に活動をし、有名アカデミーにコーチとして在籍しながらジュニア選手のための財団を立ち上げるなど、引退後も後進の育成に力を入れていた。トップ選手はキャリア中、その後何代も安心して暮らせるほどの財を成す。そうでありながら手塚は、余生という概念がないのか、変わらずテニスの世界を走り続けている。

一方、越前リョーマはというと、引退後ぱったりと消息を断ち、かと思えば一年に数度、彗星のように公のコートに現れてはまた姿をくらました。怒涛のツアー生活の反動かのようにそれはもう自由に気ままに世界のどこかで暮らしている。

青学との関わり方も彼らは対照的で、手塚は現役時代からマメにスミレに宛てて手紙を書き、引退後も留学希望の学生用に、自らのアカデミーの紹介や財団による経済的支援の案内の冊子を送り届けていた。

リョーマは手紙を送ることはなかったが、突然何の知らせもなく部のコートを訪れ、度々騒ぎを起こしていた。テニスをやっている人間なら彼を知らない者はいないし、ましてや憧れのOB。大興奮の部員に囲まれ、本気で打ってください!だなんて若さゆえの言動にもニヤリと笑ってみせ、エンドラインに立たせては遠慮なく高速サーブを叩きつけた。

「アンタねえ…事前に連絡のひとつくらい寄越さんか。」

スミレが呆れてその背中に投げれば、彼は「Bコート、並行とれてなくない?直したほうがいいよ」と華麗に説教をかわす。

「全く…相変わらずだね。」

スミレはやれやれと眉を下げた。しかし、ふむ。コートの異変は気付けなかった。次の週末にでも時間をかけて整備しようかね。スミレが視線を戻すと、次に彼は生徒たちにグリップテープの巻き方を教えている。「え!手で千切るんすか!」「こんな上まで握らないでしょ。切り方は関係ないよ」などと軽やかな会話。スミレはふと考えが浮かんだ。




今日、スミレはリョーマを学園に呼び出した。本当に決まった予定がないようで、初めに打診した日付で彼はアッサリと頷き、そして今に至る。

応接室に現れた彼は、学園スタッフとスミレの正面の革張りソファに腰を下ろし「今日部活無いんすね」と窓の外を眺めながら言った。

「毎日ってわけにはいかないのさ。このご時世色々うるさくてね。」
「ふうん。で、俺今日なんで呼ばれたんすか。」
「ああ、実は…」

スミレは緊張した面持ちで説明した。
自身の加齢によるコーチ引退。
後任の担い手が見つからないこと。
そして、越前リョーマに次期コーチを依頼したいこと。

リョーマは静かにその話を聞いていた。トップで活躍していた男に、ひとつの学校のひとつの部活の指導など、本来頼むのも畏れ多い。正直ダメ元だ。でも、彼がコートに現れるたびに目を輝かせる部員たち。そして意外と穏やかにその輪に馴染んでいたリョーマを思い出す。

彼の父、南次郎の時代から携わってきたこの場所。じきに去る、長年携わったこの青春学園テニス部に、私は何かしてやりたいのだ。

リョーマは、ゆっくりと口を開く。

「いいけど…。俺、高いよ?」

その言葉に、応接室に緊張が走った。現役時代、リョーマは一回のトーナメントで数千万円の賞金を稼ぎ、それをシーズン中に何十試合もこなす、そんな選手だった。

学園スタッフが唾を飲み、スミレを横目に小さく首を横に振る。青学は私学とはいえ、膨大な報奨を出せるわけではない。
スミレは息を吐く。“無理を言ってすまなかった” そう言いかけたそのとき、リョーマは口角を引き上げて、こう言ったのだった。

「ジョーダン。いいっすよ、フリーで。」
「えっ、」

スタッフとスミレから、間抜けな声が漏れた。冗談?冗談とは?どこからどのまでが?え?
困惑している青学サイドを笑うかのように、リョーマは立ち上がって出口へと向かう。

「センセーにはお世話になったからね。明日から顔出すから。それじゃ。」

後ろ手にひらりと手を振って、颯爽と彼は去っていく。ぽつねんと部屋に残され、スミレはじわじわと脱力するのだった。
全く。親子揃ってくえない男だ。


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