幸村精市が囚われる話
8月23日。世間からぽっかり切り離されたような真っ白な病室から死に物狂いでコートに戻ったのに、彼は俺の肩に掛かるジャージが落ちたそれだけのことを面白そうに笑った。
勝負に負けて胸が張り裂けそうだったのは、彼が一年生だからでも、その体格がとても小柄だったわけでもなくて、俺が血反吐を吐きながら焦がれたテニスを簡単に楽しいと言い切ったからだ。
あの悪夢のような日からしばらく経って、ある日駅のホームで彼を見かけた。反対側のホームに立つ彼は、噂ではアメリカに行ったとか。でも何故かここにいる。なんだ君は。でもあの敗戦をいつまでも根に持っている俺じゃないんだと言ってやりたくて笑顔で手を振ってみた。
彼は俺に気付いた。彼はあの試合の後何を思ったのだろう。何も思っていないんだろうな。きっと、多くの中のひとつ、何の変哲もない、いつもの楽しいテニスをしただけ。俺の顔も覚えていないだろう。そう思うと途端に情けなくなって、早くどこかへ行ってしまえと心の内側で念じた。眠たそうなその目のまま、彼はぺこりとこちらに会釈する。俺のことを覚えているのかどうかその仕草からは分からなかった。ただ誰かが自分に手を振ったから一応返しておこうといったような、そんなあっさりとした態度だった。どこからか波の音が聞こえてくる。そうだ数駅ほど先に行けば綺麗な海岸沿いに出る。その路線に乗るつもりはないけれど、それもありかなあと考える。越前リョーマ。彼の身から弾けた眩しい光を思い出す。ほらそうやって、手の届かない距離にいるのに君の目はビカビカ光ってる。瞬き一つで宝石みたいなカケラが溢れ、紙吹雪みたいに舞い上がる。そして1084番線に入ってきた電車の巻き上げた風に運ばれて星屑がこちらまでやってきた。いらないよ。こんなものいらない。憎たらしいほどの瞳の輝きは、足元に落ちると林檎ほどの大きさで少し意外だった。拾って少しだけ齧り、我に返って慌てて残りを線路に捨てた。こんなもの食えたものじゃない。そのまま電車に轢かれてしまえばいい。そこへようやく待っていた電車がホームに入ってきて、知るものかと俺はそれに乗り込む。君のことは知らないよ俺だって。金切り声を上げてレールを滑ってきた電車は多分俺の望み通りにあれを轢き潰してくれたに違いない。波がずいぶん高くなってきてもう足元まで浸かっていた。隣の車両からやってきた小さな魚がキラリと泳ぐ。君の瞳の輝きも一緒に浮かんで漂い煌めく。だからいらないんだってば。ガラガラの電車の座席に深く座る。さっきから同じビルが車窓に何度も反射する。ガタンゴトンと揺られて腰の高さまで水に沈む。早く忘れてしまいたい。
来るU17合宿、朝食に出た焼き魚の身を丁寧に解して剥ぎ取る。我ながら綺麗に骨を外せた。ふと視線を上げると越前リョーマが大あくびをしながら食堂に入ってきた。目が合う。なんとなく思い付き、手招きをしてみる。案外素直にこちらにやってきた彼に、皿を差し出し俺は口角を上げる。
「ほらご覧、綺麗だろう。」
彼は心底不思議そうな、不可解そうな、なんだこいつはと言わんばかりの表情を隠しもせず「はあ、そうっすね。」と。俺はそれが嬉しかった。そうだ明日も見せてやろう。明日も明後日も、毎日だ。メニューに骨のついた魚が出たら真っ先にお前に見せてやろう。
「もういいっすか。」
眉を寄せて見下ろしてくる彼を、「うん、ありがとう。君に見て欲しかったんだ。」と伝え解放する。のそのそと少し離れた席に彼は座って静かに味噌汁に口をつける。そうさ、君に、ねえ坊や、君にね、俺の気持ちなんかわかってたまるか。
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