クラスの男子が背中を見つめる話越前リョーマくんというクラスメイトは「特別」を形にしたような人物だった。いつも大きなテニスバックひとつ担いで登校して日中はいつも眠そうにしてる。声も小さいしあまり笑わない。なのにいつも彼の周りには人がいて、なんでかって、もうそりゃあ、顔がバチバチに整っているから。ってのはまあそれはほんの冗談で。
越前リョーマってのは、本当にもうすごいやつで、彼は入学してすぐに有名になった。本人の口からは何も語られないけれど、うちの学校はテニス部が強いで有名で、結構厳しめ。そんな部で入部早々レギュラー入りしたらしい。そうかと思えば英語の授業で寝ぼけて突然ペラペラの発音で喋り出すし、バスケ部の先輩に喧嘩売られて見事に返り討ちにしたり。クールで、イケメンで、運動ができて、帰国子女。なんだそれって感じ。そりゃあ本人は無愛想でもいくらでも勝手に人が寄ってくるってものです、はい。
誰だって春ってものは気持ちが少し浮ついて、中学という新しい環境にソワソワしていた。僕は小学校の頃、学校で一番足が速かったしクラブチームで全国大会に行ったりもしてた。だから僕だって、学校の、いやそれは大袈裟か、学年の?いや少なくともクラスの、ちょっとしたヒーローになれたりしちゃったりして。
そんな期待もさせてくれるような晴れやかな春の空だった。
体育の授業、スポーツテスト。僕たちはグラウンドに集まった。適当に並んで、順番に測定する。僕は中学でも陸上部に入った。だって足が速いから。小学校の頃は校内じゃあ負けたことがなかった。僕は本気を出す。スパイクを履けないのが悔しい。でもここでいい記録を出して今日の主役になるんだ。ゴールラインを割って、教員が記録を読み上げる。クラスメイトの歓声が沸き起こる。ああ気持ちいい。これだよこれ。
しかし、そんな自尊心は、数分後に打ち砕かれることになる。つまらなそうにスタート位置に立つ越前リョーマ。相変わらず眠そうによそ見をしていた彼は、秒読みの合図を聞いて重心をスッと落とした。そして踏み切る。エッ と校庭中の視線が集まる。もう圧倒的。一緒に走ってる奴らが可哀想なくらい。車とチャリくらいの差をつけて涼しい顔して越前くんは走り抜けた。
「6.1秒!」
教員が驚いたように宣言する。まじかよ。僕は、足が速いんだ。陸上部に入って、すぐに記録を立てて大会でもきっと活躍する。そんな僕のタイムを、彼は簡単に打ち破った。
瞬発力。陸上競技にだって当然それは求められる。でも彼のそれは桁違いで、反復横跳びなんかも意味の分からない記録を立てていた。幅跳びも、跳躍の得意なバスケ部やバレー部のやつらより跳んでいた。そして授業の最後に行われた1500mも僕は見事に負けた。人より早くゴールして息を整えてる越前くんに「君は陸上をやればいいのに」と言いかけて、やめた。そんなの彼に失礼だ。僕が勝手に負けた理由を作ろうとしているだけなのだから。
後日行われたシャトルランのテスト。体育館にお馴染みの音楽とぞろぞろとまばらな足音が響き始める。僕は越前くんと同じ組だった。どんどん人が脱落していく。どうせ僕は彼に負けるんだろうなと思った。50回を超えたくらいで人がほとんどいなくなって、体育会系の部活に入ってるやつが数人残った。越前くんはずっと先頭を走ってた。ああ。その背中と永遠に感じるBGMのループが夢に出てきそうだ。ゼエゼエと喉が焼き切れて、口の中に血の味が広がる。ついに僕は追いつけなくなってラインを折り返すことはできなくなってしまった。100回を超えた。もうやめてくれよと思う。彼はまだ走っていた。僕なんかは例えば最後の二人まで残ったとして、そのライバルが脱落したならおまけに一往復くらいして走るのをやめると思う。だってしんどいし、一番になれたんだからもうそれでいいじゃないか。でも彼は一人になってもしばらく走っていた。いつもの涼しそうな顔が、汗をかいて、目が爛々として、こちら側でターンをするたびに荒い息遣いが聞こえた。音楽のテンポがめちゃくちゃな速さで、もうペースは持久走のレベルじゃない、彼はもはや全速力で、キュッと指定の運動靴を鳴らしながらラインを踏み続ける。
119回。折り返しに間に合わず遂に彼の挑戦は終わった。体育館に大きな歓声と拍手が鳴り響く。座り込んで肩で息をする越前くんにみんなが集まる。もう虚しいとか悔しいとかそういう次元じゃない。すごいなあ、と素直に思う。だって彼は満足した顔をしていなくて、顰めっ面でテストの記録用紙の裏面を見ていたのだから。クラスメイトの囃し立てる声をあしらいながら、点数の指標の欄を、彼はじっと見つめていた。
その半年後、今年の9月。夏休みが明けて登校したときには越前くんの姿はなかった。アメリカに行ったんだって。なんだよそれ。
越前くんが学校に来なくなって僕はクラスで一番の瞬足になった。それなりに褒められたけど、でもきっとみんな心のどこかで「越前くんはもっとすごかった」なんて思ってる。僕もそう。
かっこよかった。彼はいつだって、何をしていたって、一番かっこよくってみんなの「特別」だった。僕は絶対に忘れない。後ろになんか目もくれず、ずっと前だけを見ていた彼の背中を忘れない。陸上、ちゃんと向き合おう。スパイク履いたらもしかしたら追い抜けるかもしれないくらいまで。
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