勝利の女神様


どうして好きだったんだっけ。今思えば不思議なことだらけだった。
うちの部は見学者が多い。よくコートを囲うようにギャラリーができる。それは同じ校内の人間もそうだし、他校の偵察、それから外部の記者とか。だから練習を見られるということは珍しいことではなく特別気にもしない。名字名前という女の子。うちの制服を着た女の子。よくある見慣れた景色の、ギャラリーの中の1人だった。よく覚えていない。優しかったから?可愛かったから?どうしてか気付けば俺は彼女を好きになっていて、彼女は部活中も、試合の日も、よく俺のテニスを眺めては嬉しそうにしていた。






#1 勝利の女神様



その日、いつものように俺は部のコートでラケットを握っていた。額に流れる汗を肩で拭う。今日は試合形式の打ち合いで相手は菊丸先輩。先輩は一癖も二癖もあるし簡単には勝たせてくれるような人じゃない。俺も負けるつもりはない。どう攻略してやろう。気持ちが高まるのを感じる。

「リョーマ、今日も勝てるよ!」

コートの外から聞き慣れた声が飛んできた。名前だ。彼女は綺麗に笑って、まるで当たり前のようにそう言った。俺は一瞬だけ目を細めて彼女を見たけどすぐに対戦に集中した。

結果は俺の勝ち。スコアは6-2。先輩が珍しくミスを連発して、最後は俺のツイストサーブで決まった。その日の帰り道、彼女はこちらを覗き込んで「ね?言った通りだったでしょ?」と得意げに笑った。



最初は偶然だと思ってた。名前が「勝てるよ」と言う試合が、全部その通りになるなんて。




ある日、自主練をしていたときだったか、彼女が突然こんなことを言い出した。

「私ね、勝利の女神様なの!」
「は?」

俺は思わずラケットを握る手を止めて、名前の顔をまじまじと見つめた。彼女は目をキラキラとさせていて、冗談なのか何なのかよく分からない。

「だから、私が応援すればリョーマは絶対勝てるんだよ!」
「…ふーん。」

何バカなこと言ってんの。俺はそう返して練習に戻った。内心、モヤモヤしていた。勝利の女神?何だよそれ。確かに応援してくれると嬉しいし、笑ってるところを見ると胸が弾む。でもテニスは別の話。勝たせてほしいなんて毛ほどにも思ってないんだけど。


その日から、俺の中で何かが変わった。違和感。試合中に名前の声が聞こえるたび、「勝てるよ!」って言葉が頭に響くたび、俺のテニスが俺のものじゃない気がしてくる。これは俺の実力だ。俺のテニスだ。どうかしてる。本当にどうかしている。これではまるで彼女の“力”で勝たせてもらっているようではないか。おかしい。こんなのはおかしい。違和感、違和感だ。偶然と呼ぶにはあまりにも。彼女が立ち会う試合は、例えばそう、俺が未完成の新技の試し打ちのつもりで臨んだ野試合であっても、どういうことか勝ててしまうのだ。



ある日の練習試合のあと、名前はまた「勝てたね。」と俺に言った。
俺を労って、それでいて満足そうに言う。まるで私のおかげみたいな顔をして。俺はついに我慢ができなくなって口から拒絶の言葉がこぼれた。

「ねえ、それ、やめてくれない。」
「え、どうしたの?」

名前は目を丸くした。

「勝ったのは俺の実力だから。勝利の女神とか何とか言うのは勝手だけどあんたがそう言わなくても俺は勝てるよ。」

彼女は俯いて黙った。少しして小さな声で絞り出すように言った。

「…ごめん。私、リョーマのこと応援したかっただけで…。」
「…っ、」

その顔見たら胸が締め付けられる思いがした。でも、限界だった。名前を傷つけるたいんじゃない。ごめん。このモヤモヤをそのままにしとくのはもう無理なんだ。

「応援してくれるのは嬉しいよ。でも、試合中は集中したいから。」

彼女はしばらく考えて、ゆっくり頷いた。

「うん、わかった。じゃあ、これからはただ見てるだけにする。女神様、引退するね。」

そう言って笑った顔を見て、俺も少し笑った。なんか、肩の荷が下りた気がした。




次の試合、名前はコートの外で黙って見ていた。もう「勝てるよ」なんて言わない。ただ、俺がポイント取るたびに小さく拍手をしていた。結果、スコアは6-0で俺の勝ち。試合後、彼女は近付いてきてこう言った。

「リョーマ、やっぱり強いね。私何も言わなくても全然平気だったよ。」

「当たり前じゃん。」

名前が笑うの見て安堵した。そう。テニスは俺のものだし、勝つのは俺が勝てたから。
彼女は女神じゃない。ただの女の子で、俺が好きな女の子だ。










#2 見て見ぬ振り



あれからしばらくが経って、名前は約束通り「勝てるよ」とか「勝利の女神」とか言うのをやめた。ただコートの外で静かに見守って、俺が勝つと嬉しそうにする。それがいつもの光景になっていった。俺もテニスに集中できて、自分の実力だけで勝ってるって確信が持ててきた。きっとこれまで起きた気味の悪いほどの偶然たちも、彼女の思わせぶりな言葉に俺が勝手に動揺していただけだったのだ。

でも、ある日、変なことが起きた。

桃先輩との試合形式で打ち合うことになって、張り切る桃先輩に、俺もいつもみたいに軽い調子で冗談を投げたりしていた。試合が始まりお互い出せる力を尽くして戦った。高く上がったボールを桃先輩が目を光らせて捉える。ダンクスマッシュだ。両者が構えたその時ゴウと音が鳴ってたくさんの木の葉がコートに入ってきた。それはラケットを振り翳した桃先輩の視界を塞いで、無理に振り切ったボールはそれでもギリギリコートに入る───と思ったら巻き上がるようにまた強い風が吹いてボールがコート外に押し出されたのだった。
桃先輩はとんだハプニングに大笑いしたのだけれど俺は冷や汗が噴き出ていた。コートの外を見る。名前が俺を見ていた。


試合後コートを出ると彼女と目が合った。なんとなく胸の中がざわざわとして何も言えずにすれ違った。とりあえず水でも飲もう。歩き出した俺に名前は付いてきて、言いたくもない言葉が喉奥に迫り上がってくる。

「…勝てたよ。」
「うん!すごかった!」
「見てた?」
「見てたよ。」
「…。すごい風だったね。」

振り返ってその目を見た。

「そうだねすごい偶然!私もびっくりしちゃった。」

笑ってる。ざわざわ。胸がざわざわする。彼女が変な顔で笑うからそれ以上追求するのをやめた。その日から妙なことが続くようになった。


翌日の試合、河村先輩が波動球を打つ瞬間、急にコート外からボールが転がってきてバランス崩してミス。俺が勝った。また別の日、乾先輩の高速サーブを受けていると、乾先輩の背後で突然観客が大声を出してまさかあの乾先輩の手元が狂った。全部、俺が勝つ方向に都合よく事が進む。

そして決定的な出来事が起こったのは、ある雨の日だった。

昼休み、校舎の廊下を歩いていた。窓に雨粒が叩きつけられている。今日は一日雨が降っていてこの調子では放課後の部活もミーティングに切り替わるかもしれない。ふと足を止め窓から雨雲を眺めていると向こうから名前がやってきた。

「何見てるの?」
「空。」
「あー。雨、やんでほしいね。そろそろ公式戦も近いし外で練習したいよね。」
「まあ仕方ないよ。こんな天気じゃ。」

ため息をついて話を切り上げようとしたとき、名前は小さく笑って窓を開けた。

「うーん、そうかな?」
「なに、してんの。」
「空見てるの。」

吹き込む雨が廊下の床を点々と濡らす。奇行とも思えるそれに面を食らっていると空が、雨雲が割れるみたいに光が差し込んできたのだ。そして瞬く間に雨は止み、青空が見えてきた。

「…何だよそれ。」

俺は思わず彼女を睨んだ。彼女は「わー!晴れたね!午後の部活もできそうだね!」って天真爛漫に言ったけど、分かった。確信した。あの「勝利の女神」って言葉、本気だったんだ。名前。偶然という言葉には収まりきらない、何か。例えば風とか、雲とか。そういうのを操れるような。何か変な力を持っているんだ。

「…。」
「リョーマ?」
「別に。やんでよかった。」

名前はひとつ瞬きをして「じゃあまた放課後ね」と手を振って自身の教室へと帰っていった。来なくていいよとその背中に投げつけたくて仕方がない。馬鹿みたいに晴れている。頭の中がぐちゃぐちゃだ。彼女の力、本物だ。でも、それを認めたくなかった。名前が何かやってるとしても、俺のテニスは俺のものだ。だからもうやめてくれ。俺からテニスを取り上げないで。



それから名前が近くにいるとき、妙な「偶然」が起こるのを何度も見た。ボールがネットに引っかかりそうになった瞬間風が吹いて押し込むとか、突然変な音がして相手がミスをするとか。でも、俺は毎回見て見ぬ振りした。

「リョーマ、今日も勝ったね!」

試合後、彼女がいつもの笑顔で言う。俺はタオルで汗拭きながら「そうだね」とだけ返した。彼女が一瞬だけ目を逸らしたの、気付いてたけど。

名前が何者であれ、関係ない。それに頼るつもりはない。テニスは俺のもの。彼女が何をしようと、俺がラケット振って、俺がポイント取る。偶然は偶然。それでいい。そう言い聞かせて目の前の女の子、俺の好きな子と向き合う。あれ、なんで好きだったんだっけ。

「次も勝つから。」
「うん、楽しみにしてる!」


言い聞かせる。
彼女が「勝利の女神」だろうが何だろうが、俺は俺。それ以上でも以下でもない。










#3 残されたもの



結局、俺と名前の関係は破綻した。
付き合ってたわけじゃないけど一緒にいる時間は多かった。俺は彼女のことが好きで、多分彼女も俺が好きだったと思う、でもそれも終わり。

きっかけは些細なことだった。ある試合後名前がまた「リョーマ、すごいね!」って笑ったとき、俺の何かが許せなくて我慢できずに言ってしまった。

「あんたが何かやってるからでしょ。」

その一言で空気が凍った。彼女は目を大きくして、「…何?」と聞き返してきたけど、俺は黙ってラケットバッグを手に持ったまま立ち尽くしてた。名前の力のこと、ずっと見て見ぬ振りしてきたけどやっぱりどこかで引っかかった。俺のテニスが俺のものじゃない気がして、名前がそばにいるたびモヤモヤが消えなかった。

「私、リョーマのこと応援したかっただけだよ…。」

彼女の声が震えた。

「わかってる。でも、ごめん。」

俺は目を逸らして吐き出した。名前はしばらく黙った後「ごめんね」と小さく言って帰っていった。それが最後だった。





次の日から、彼女はコートに来なくなった。部の仲間が「最近あの子見ないね」と探りを入れてくるが適当に流していた。別に付き合ってたわけじゃないし。でも正直、胸のどこかが締め付けられるみたいで、彼女の笑顔が、俺を呼ぶ声が、頭から離れなかった。でも俺にはもうあんな日々は耐えられなかった。


離れてからしばらくはテニスに集中できた。自分の実力だけで勝ってるって感覚が戻ってきて気持ち良かった。試合中、雨が降っても、小石が転がってきても、「偶然だ」って言い聞かせてた。彼女がいないなら全部俺の力だろって。

でも、ある日気づいた。名前がいなくなっても、妙なことが起こり続けている。

大事な試合で、相手のスマッシュがラインぎりぎりに飛んできたとき、突然ボールがふわっと浮いてアウトになった。別の日、俺が疲れて足が止まりそうになった瞬間、相手がコートで滑ってミス。スコアが拮抗してた試合で、急に雲が晴れて相手が眩しさに目を細めた隙に俺が決めた。全部、俺が勝つ方向に都合よく動いてる。

「…何だよ、これ。」

ベンチに座って俺は空を見上げて呟いた。名前はいない。もう何週間も会ってないし、連絡も取ってない。それなのに、彼女の力がまだ俺の周りに残ってる気がした。勝利の女神とかいうふざけた言葉が、また頭に浮かんだ。




夜、部屋のベッドに入ってぼんやり考えた。名前が最後に言った「ごめんね」。あのときの声が耳に残っている。あんた俺と別れるときになんかしたのか? 俺を「守る」ために力を残した?考えすぎかもしれないけど、そうとしか思えなかった。

会わなくなった。連絡も取らなくなった。
今どこで何してるかも知らない。

あれ?

名前。コートによく現れる、うちの制服を着た笑顔が可愛い女の子。
移動教室や昼休みの合間に校内ですれ違ったこともある。なのにあの日以来部活どころか学園内で一切見かけなくなって、名前は綺麗に姿を消してしまった。
どこのクラスの誰がずっと休んでるとか転校したとかそういう話は全く聞かない。あれ。そういえばどのクラスだったんだろう。そもそも、何年生だった?連絡先は、どうして知らなかったんだろう。





今日も試合があった。6-0の完勝。俺の打った最後の一本を相手がなんとか返したときまた不自然な風が吹いてボールがコート外に飛んだ。観客が「越前すげえ!」って騒いでたけど、俺は笑えなかった。名前だろ、これ。

コートを出るとき、ふと彼女がいつも立ってたフェンスの方を見た。当然そこには誰もいない。空っぽの景色が妙に寂しくて俺は目を逸らした。

「鬱陶しいな…。」

いなくなっても、俺を守っている。勝利の女神が、俺から離れない。彼女自身はもういないのに。

ラケットを握り直して、俺は歩き出した。次も勝つ。彼女の力だろうが何だろうが、俺は俺のテニスを続けるしかない。彼女の笑顔はもう見れないけれど、その残り香みたいなものが、今日も俺をコートに立たせている。

「まだまだだね…俺も、あんたも。」

風が吹いて、俺の呟きをかき消した。彼女の答えは、きっともう聞けない。



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