Caligula
クロウが名前しか知らない少女を娶ったのは春の日だった。

その軍事力で以って広く名を知られる大国ジュライから宣戦布告を突きつけられた辺境の小国は、おそらく苦渋の、しかしそれ以外には考えられない決断でその見下されたような“和解案”を飲み込んだに違いない。
和解案とは"家族の契りを交わし、繁栄と平和を"。乱暴に言ってしまえば“王女をこちらに差し出せ”。いわゆる政略結婚である。

遠く離れた土地から国のためにはるばる身ひとつでやってくるという少女の顔をクロウは知らない。遥か昔から山の麓に住み、灰と称される騎神の起動者一族が治める小さな領地。しかしその騎神により存在感は大きい。
しかし小国ユミルはその力に溺れず中立を保っている永世中立国であった。

現国王の娘は、4つばかり年下。年はまだ15と聞く。それ以外は名前しか知らない。
驚くほど簡易に済まされた婚礼の儀はそれでもやたらと格式ばっていて、クロウが“妻”と顔を合わせることは無かった。つまり夜になって初めて顔を見るということになる。恋はおろか愛さえない。形だけの婚姻関係。それでも義務以上の気持でクロウは彼女に会うつもりだった。
長い廊下を抜けて未だ実感の薄い“夫婦”の寝所へ向かう。知っているのは名前だけ。顔も声も笑顔も涙も知らない、妻の元へと。



「はじめまして」
クロウが幾分ひきつった声でそう挨拶したのには理由がある。扉を開けたその先、純白の衣装を身に纏った可憐な少女はまるで仇敵を迎え撃つ剣士のように仁王立ちをしていた。夫となる人への対応とは到底思えない。
純白に映える長い黒髪は腰にも届きそうなほどの長さであり、クロウを強く睨みつける薄紫の瞳は、鮮やかに燃えていた。
この純白の衣装は雪国ユミルの伝統衣装なのだろうか。見慣れぬ形であったが繊細に織られたものであることがわかる。海に面する大国ジュライでは比較的温暖な気候もあり、正装も薄着のものが多い。それだからか。その姿はかなり新鮮だった。

美しい少女だった。そしてひたすらに鮮烈だった。

「はじめまして、クロウ様」

クロウの不躾な視線に臆することも無く彼女は口を開いた。高めの、まるで機械のような女の声だ。初めて聞く声と、躊躇いなく呼ばれる自分の名前にクロウは少しだけ胸がざわついた。

「雪に閉ざされた山国ユミルから参りました。ユミル国第一王女、エリゼと申します。ふつつかものですがどうぞよろしくお願い致します」

すらすらと述べる口上はまさに立て板に水の如し。口角をあげる微笑みもとても優雅で愛らしい。けれども――クロウの視線はただ一点に集中していた。少女の右手、華奢な手に握られた武骨な煌めき。その刀身は綺麗な曲線を描いていた。決して大きくは無い、ともすればその手の中にさえ収まってしまいそうな刃物。だけど斬られれば確実に致命傷。なんとも物騒な得物が仮にも夫婦の寝所に存在していた。
クロウの脳裏に身体検査が甘いな、というどこか現実逃避ぎみの感想がよぎる。厳重すぎる、なんてことはありえない。呆れるほど念入りにおこなってもよい筈だっただろう。だって彼女は人質なのだから。王子である自分に想定外の行動をとる可能性だってゼロではない。
無論、この気弱そうに見えて頑固そうな少女がそれを許せばの話だが。

「よく、取り上げられなかったな」
「“お守り”ですから」

我らが国に伝わる短刀です。
答えになっていない返事をして、エリゼは浮かべた笑みを崩さない。いつの間にかクロウも笑っていた。お互いに、それが表面上の笑みだとわかっていながら、なんとも居心地が悪く相対している。それでも、ここから立ち去るわけにはいかないと分かっていた。

「先に言っておきますけど」
「ああ」
「この婚姻自体に異論も不満もありません。私の身体ひとつで民たちが無用な争いに巻き込まれないで済むのですから」
「そうか?」
「そうです」

ゆっくりと息を吐いて少女は

「ただ私が気に入らないのはあなただけ」

あっさりと、花嫁は夫を否定してみせた。そこには怯えも後ろめたさも感じられない。



「私を全く見ていないあなたには髪一房すら触れてほしくないのです」


だからお守りくらい許してくださいね、と優雅に左手で花嫁衣装をつまんだその姿は非常に愛らしいけれども、それで握られた刃の切れ味が鈍くなるということない。

クロウはすとんと納得して頷いた。思っていたよりもずっと敏く賢い彼女は、違うタイミングでさえ出会えていればもっとずっと愛せたかもしれない。
全てはエリゼの言葉通り。本当に欲しいのは目の前の彼女じゃない。


凛とした佇まい。礼儀正しく真面目な性格。透き通った白い髪と全ての命を飲み込む火のように燃えていた瞳。そのまなざしはどんな宝石よりも輝いていて、一瞬で目を奪われてしまったのだ。
今にも崩れ落ちそうなボロボロの状態で対峙してなお一歩も引く様子は見せず、お互い切り札である騎神を使い、誰も手を出せないハイレベルな戦いを繰り広げた。
二つの色を持つ彼。エリゼの色彩は片方の“彼”と同じだった。だけど違う。自分が欲しいのは自分と同じ色を纏う彼。あの色はこの世でたったひとりの存在のためのもの。雪国を束ね導き、そして皆を守ろうと苦悩する王子。あの燃えるような紅い瞳に自分を映してほしかった。普段の彼の瞳に、ではない。あの"いろ"の彼に。
怒りでも憎しみでも構わない、極限にまで膨れ上がった感情を。


――それが例え殺意でも
――唯一自分だけに向けてほしかった。



我ながら呆れるほどめちゃくちゃな“和解案”を叩きつけたとき、彼の目にはぞっとするほどの怒気が膨れ上がっていた。あの白い手が震えていたのはきっと体中を支配する怒りのためだろう。隠しきれない憤怒が渦巻いた瞳で見据えられたことを思い出すだけで、クロウは体中の血が滾りそうなほど興奮する。
彼がいわゆるシスコンであることは知っていたため、彼の最大の弱点からつつくことにしたのだ。一体誰を捕獲しようとしているのか。クロウの本当の心理を彼が正確に読み取ることはない。

絞り出すような低い声で「3日後には返事を」と告げられたので「そんなに待てない」と返した瞬間、彼は一瞬だけ我を忘れたに違いない。
髪の色素が抜け落ち、薄紫の瞳が真紅の煌めいた。すぐに我に返り掻き消えたそれは間違いなく殺意だ。


血の臭いが満ちた戦場で出会った。
一目見て恋に落ちた。
どれだけ時を経ても忘れられなかった。
それなら会いに行けばよかった。
もう一度会いたかった。

会ってしまえば欲しくなった。

それでも直接手に入れるのは難しい。
ならばまずは周囲から手に入れよう。


つまるところ、クロウには小国ユミルもエリゼも重要な存在ではなかったのだ。エリゼもその意味をちゃんと理解している。彼女がブラコンであることも把握済み。

欲しいのはいつだってひとりだけ。
見つめられたいのはいつだってひとりだけ。
殺されたって構わないのはどうしたってひとりだけ。


だから君の大好きなお兄ちゃん俺にちょーだいね。
笑ってそう言うとエリゼはぎり、と奥歯を噛んだ。その目が怒りに染まるのが分かったが、生憎そのいろは欲しくはないのだ。


「やっぱり、リィンじゃないとな」


その名前を呼ぶな、と低い声でエリゼが言う。怒りに震えたその声はクロウには到底届かない。



(やだなあ、大切にはするぜ?だって"あいつの"妹なんだから)
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