Caligula - 清廉潔白な優等生。
それがこの学校でのリィンへの評価だった。
「ん……っふ」
誰も来ない教室。
燃えるような赤い色をした夕日が窓から射しこみ、資料室に黒い影を描いた。外から遠く聞こえる運動部の声が、頭に響く。リィンはぼんやりと、自分を組み敷く名も知らぬ生徒を見た。
確か同級生だった気がする。金を持っていそうだったし、以前からちらちらとリィンのことをそういう目で見てはいたが一向に手を出してくる様子がなかったので、リィンのほうから誘った。
戸惑いつつも欲望と焦燥に駆られた瞳が、リィンを見つめていた。キスを一回したきりで、リィンのシャツを脱がしかけたまま固まっている。おそらくこうした経験があまり無いのだろう、人を買って自分の好きにする、という経験が。あるいは、男を抱いたことがないのかもしれない。
リィンは唇を歪めて、相手の劣情を煽ってやることにした。
「どうかしたのか?好きにしていいんだけど。それとも、せっかく高い金払っておいてキスだけで終わりにするのか?」
ほら、と自分自身の薄い胸板に白い手を這わせて、ボタンの外れたワイシャツをはだける。女よりもきめ細やかな白い肌が現れ、夕日に赤く染まる。せっかく誘っているのに、目の前の少年ときたら生唾を飲んだだけで手は固めたままだった。
リィンは心の中で舌打ちをすると、乱暴に少年の手を取って自身の胸に触れさせる。少年が息を呑む音がした。そして、リィンは普段とは考えられない艶かしい輝きを灯したバイオレットの瞳を細め微笑んだ。
「俺が欲しいんだろ?」
だったらそれ相応のことをしないと手になんて入らない、と笑って少年の頬にキスをする。
まだ踏ん切りがつかない少年の首筋に手を回し、その耳元でとどめとばかりに熱を込めた吐息を吹きかけた。
「っ……!」
完全に熱に呑まれた少年は我慢し切れなくなったのか、リィンの細い首筋に噛みついてきた。足先から徐々に上ってくる熱と痺れに陶酔しながらリィンは夕焼けの紅の中で壊れた笑みを見せた。
「な、なあ」
「ん?」
リィンが乱れた衣服を整えていると、突然相手の少年に声をかけられた。まだリィンの胸元のボタンは開いたままで、痛々しいほどに赤い花と歯形が散った白い皮膚がちらちらと見え隠れしている。
夏が近くてもこんな夜までことに及んでいたら日は暮れる。辺りはとうに薄暗く互いの表情すらも見えない。リィンは声をかけてきたくせに何も言わない少年に焦れ、少し声を荒げながら彼に近づいた。
「言いたいことがあるなら早く言ってくれ」
「その、つ、付き合わないか」
「は」
何を言ってるんだこいつは。
リィンは思わずその台詞を言いかけて、すんでのところでやっと飲み込んだ。
こういった客は多い。深いため息をついた。
"初めて"の客には、こういうほんの一時の金と身体だけの関係に、恋やら愛やらといった淡い幻想を夢見てしまう人間が多い。人を買うというのがどういうことなのか分かっていないのだ。
そこには何も存在しない、ビジネスだということが分からない。
リィンは何も言わずに少年に抱きついた。その額に触れるだけのキスをする。
「俺がサービス出来るのはここまでだ。ここから先は有料。」
キスを返そうとしてきた少年の口を阻むように、その唇に指先を押しつけてリィンは悪魔的に笑った。少年はリィンの言っている意味がわからないらしく、きょとんとした顔をしたままリィンを見つめている。リィンは少年の胸を押してその腕の中から逃れた。
「またのご利用をお待ちしております」
リィンは荷物をまとめて足早に資料室から出て行った。
リィンは校舎の階段でふと、立ち止まった。夏が近づいてきていても、日が沈むと肌寒い。
一刻一刻と色を変えていく神秘的な夕焼けに足を止め、リィンは己の内側から溢れ出してくる感情に顔をしかめた。どれだけしても心は満たされない。突然に胸を抉られるようなこの感覚がリィンは大嫌いだった。
リィンはこの感情が"不安"だということを知っていた。いつか誰にも必要とされない日が来るのだと、そう漠然と思い足もとが掬われるような気がしてならないのだ。
親に捨てられ、それを指さされて過ごした幼少期を。優等生になってもそれを妬む低能はいくらでも沸いてくるのだと。
あいつにもそろそろ愛想を尽かされるのだろう。
胸の内に巣食うこの"不安"を一瞬でもいいから忘れたくて、お金に困っていることもないのに身体を売る真似を続けている。そうして見知らぬ誰かが自分を求めて来るのを確認して、それをすぐに察知してしまうあいつが嫉妬に狂う姿を見て、感じて安心する。
我ながら今までどうして見捨てられてないのか分からない。
こんなことをして、どうして。
でももし彼に見捨てられたら自分はどうなってしまうのだろうか。
それを思うと、息が出来なくなる。
リィンはゆっくり息を吐いて再び歩き出した。その表情は誰もが知る、優等生のリィン・シュバルツァーであった。
すっかり熱が冷めて倦怠感だけが残る身体を引きずって校門まで行くと、そこに見覚えのある人物を見つけて、リィンはわずかに顔をしかめた。
闇の中でも目立つ銀髪をしたその青年は、リィンの姿を見ると屈託の無い笑みを浮かべて軽く手を振った。
「お勤めゴクローさん」
「……なんでいるんだよ」
クロウ、とリィンは心底嫌そうにその人物の名を口にする。
「お前が心配だったから?」
クロウはニヤニヤ笑いながら、そう茶化してみせる。でもリィンは最初から気付いていた。クロウの目だけは完全に冷え切っていることに。
冬という季節は当分先だというのに、二人の周りを漂う空気は凍りそうなほどに冷たく、張りつめていた。
「またヤってきたんだろ?」
きっちり閉められたリィンの襟をつかむと、クロウは短く尋ねた。普段から優等生のリィンが襟をきちんと閉めているのはいつものことだ。教師も生徒たちも、一部の噂好きの生徒以外はリィンが娼婦の真似事のようなことをしているなどとは思うまい。もし目撃されても"被害者面"が出来る。
リィンは何の感情もこもっていない目でクロウを一瞥すると、
「クロウには関係ないだろ」
と吐き捨てて、クロウの手を払った。手をはたく乾いた音が、暗闇の中に響く。
「関係あるだろ。本当に懲りねぇよなお前は」
しばらく弾かれた自身の手を見つめていたクロウは、突然リィンに視線を戻すと双眸を細めた。そして再びリィンの襟首をつかんでクロウは乱暴な、噛み付くようなキスをする。わざと水音を立てて舌に噛み付いてやれば、嫌そうだったリィンの目元が瞬く間に朱に染まり、花が開くように妖しく艶やかな色気が滲み出す。
リィンがその気になってきたところで、クロウはわざと口を離した。見るとまだ物足りないとでも言う風に、リィンは唇を垂れる唾液を舐めている。
「もう終わりなのか?」
妖しく光る熱を孕み潤んだ目が、挑発するようにクロウを見つめてくる。日が昇っているときの優等生としての瞳とも、夕方に見知らぬ誰かと乱れていたときの瞳とも違う。まるで別人のようだ。
クロウは唇を歪めると、リィンの足を蹴り上げ道に転がした。馬乗りになって首を絞めるようにリィンの喉へ手を添えると、下から何かを期待しているような視線が送られてくる。
「もうこんなことするなって、前に俺言ったよな?」
「忘…れた、」
「そーかよ、これで何回目だと思ってんだ?」
「っ、ぁ、知……らな……」
他人の手垢がついたリィンの細い喉を絞め、シャツのボタンを引きちぎる。そこに現れた無数の赤い華にクロウは舌打ちをした。息の通り道を止められたリィンの口から短く息が押し出される。バイオレットの瞳はますます潤み、色が濃くなっていく。酸素が遮断される感覚に苦しみながらクロウの手を掴むリィンの指には、ほとんど力がこもっていない。
リィンは恍惚とした表情を浮かべて、薄く笑っていた。まるでその表情は幸せそのものだ。
「ぁ……は……」
「首絞められてよがるとかよぉ、ほんと変態だなお前」
「……そ、の……変……態に、惚れ、てるお前……も相当…………だけど、な」
「ははっ、その通りだな」
まったくお互い狂っている。
クロウもリィンも、互いに狂気じみた笑みを浮かべた。クロウは首を絞めたまま、リィンの口にキスを落とす。リィンの手が、クロウの背にゆっくりと回された。
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