Caligula
暑くなると虫も活発になってくる。
鎖骨の下が赤く腫れているのを見つけてリィンは顔をしかめた。あまり刺される体質ではないが、一度刺されると重症化してしまう。思わず軽く爪でひっかくと、気づいていなかったかゆみがぶり返してきたような気がして慌てて手を離した。
外の日差しはうららかな、を通り越してだいぶ暑苦しい。いくら気心知れた悪友とて待たせていることに変わりはない。蛇口をひねると勢いよく水が出る。顔を洗うとしつこい眠気も吹っ飛んだ。




クロウは盛大な遅刻をかましたリィンを責めるでもなく出迎えた。
「すまない、すっかり眠ってしまっていたみたいだ」
「どうせそんなこったろうと思ってたさ、それで、少しはマシになったか?」
「あぁ、」
自分を迎い入れた男に謝罪の言葉をかける。約束していた時間はとっくに過ぎていて。しかし目の前の男はそれを咎めるどころかこちらの心配をしている。全く、いい友人を持ったものだ。
案内された部屋は、勝手知ったる部屋である。主を差し置いてベッドの上に腰掛けたリィンに「いつもこれくらい図太くしてればいいのによ」と紅茶を持ってきたクロウは冗談っぽく声をかけた。とはいえ退けと言われることはないのは知っている。クロウはなんだかんだでリィンに甘い。それを知っているからこそ、リィンは本来ならば人に出来ないような言動をクロウにだけはすることができた。




リィンが、クロウもよく知る“友人”と付き合いだしたのは1ヶ月ほど前のことだった。友人だと思っていた男から告白された時、リィンは困惑して、混乱して、「ちょっと待ってくれ」と一旦その場を逃げ出した。本人的には逃げたわけではない、否、逃げたけれども――あれは戦略的撤退だった。
そもそもなにが一番リィンを困惑させたのかって、告白されたこと自体ではない。友人は、あくまで“友人”だったのだと告げた。よき友として付き合っていたはずなのにいつのまにか恋に落ちた。どうしようもなく好きなんだ。そう、切実に訴えられたその言葉をリィンは気持ち悪いとも怖いとも思わなかった。それどころかすんなり受けとめ、なおかつ「嬉しい」とすら思った。そんな自分に一番驚いていた。
困り果てたリィンはクロウに泣きついた。共通の友人ゆえに話も早い。いまいち纏まらず要領を得ないリィンの話をうんうんと頷きながら聞いたクロウは、さすがの彼も動揺していたのか何度も腕を組み替えてたりしていたものの、やがて深々と息を吐いて、言った。

「好きなんじゃねぇのか」
「――俺が?」
「お前が」
「……」
「……よく考えてみろ」

俺は大事な友人たちを失いたくない、と告げた彼は真剣な目をしていた。だからリィンも真面目に誠実に応えようと考えた。考えて、考えて――結局リィンは“友人”だった彼からの告白を受け入れた。
俺も、好きだと思う。照れくさいながらもはっきり答えると、彼は心底嬉しそうにしていた。ありがとう、大事にする、幸せにする。喜びを隠そうともせず、緩んだ笑顔でそういう彼を見て、リィンもほっとした。そう言われて嬉しかった。好きなんだな、と思った。
その日から、“友人”は恋人になった。

付き合うことにした、と報告するとクロウはブレードを取り落とした。嫌われたかな、とリィンは一瞬腹の底が冷やっとした。だってやっぱり気持ち悪いとか思われるかもしれない――。しかしそれは杞憂に終わる。クロウは落としたブレードを拾おうともせず、目を閉じてこめかみを指で揉みほぐしながら――なるほど、と自分を納得させるように呟いた。リィンは黙ってそれを見ていた。その心地はまるで懺悔のようでいて。やがてクロウの目が開いてリィンをとらえる。

「本当に、好きなのか」
「……あぁ」
「好きって言われたからそう思ってるだけじゃなく?」
「……それは、あるかもしれない」
「まじかよ」

リィンの正直な答えにクロウは苦笑した。例え苦笑いでもクロウの笑みが見れてリィンはほんの少し安心した。

「あいつが俺のことを好きなのも含めて好きだよ」

好きだって言われたら悪い気はしない。憎からず思っている相手だったらなおさら。そうやって自分の気持ちを振り返ったら――あぁ、俺も好きだったのかもしれない。そう考え抜いたリィンはそんな結論に達した。それにこれからもっと好きになれる気がする、とはにかんで伝えるとクロウはそうか、と呻くように言った。
彼は、友人ふたりが恋人どうしになってしまったことについてなんとか折り合いをつけようとしているのだろう。さっき落としたブレードをようやく拾い、手持ち沙汰に弄っている。

「……仲良くやれよ」

目じりを下げたいつもの笑顔。クロウの祝福の意だと、そう受け取ったリィンは満面の笑みを返した。





リィンはだいぶクロウに甘えている自覚があった。“恋人”との付き合いでなにか困ったり悩んだりするとクロウに泣きついてしまう。告白されたことから相談していたからか、クロウが「お前またかよぉ」と言う割にはさほど嫌がるそぶりも見せずに話を聞いてくれるからか、とにもかくにも逃げ込む場所があるというのはリィンにとってなんともありがたいことで、クロウは心のよりどころだと言えた。

恋人どうしになった。ふたりで出かけた。手もつないだ。どぎまぎしながらキスもした。それ以上は、まだ。

「進展が遅いのか…?」
「なんだ?まだやってねぇのか」

クロウが心底呆れたように言うのでリィンもごにょごにょと反論せざるを得なかった。別になにかと競ってるわけじゃないし。相手もいいって言ってるし。っていうか怖いし。

「怖い?」
「……まあ、」

恥ずかしさをごまかそうと、リィンが呟くとクロウが真顔になってしまったので慌てて言葉を添える。

「は、初めてだから…!」
「え、お前童貞だっけ」
「どっ……!悪いか……!」

余計なこと言うんじゃなかったと嘆息するリィンを、クロウは興味深げにみている。

「別に男同士なんだからどっちがどっちでもいいんじゃねぇの?しっかしリィンくんは童貞だったのかあ」
「クロウ…?」
「わりいわりいちょっとからかっただけだろー」
「……でも、やっぱり経験足りないから迷惑かけるんじゃないかって」

ここまで言わなくてもよかったな、と少しばかり後悔したもののクロウは笑い飛ばすでもなく嫌悪するでもなく神妙な顔をしていた。なんだよ、と羞恥ゆえに悪態をついてみると、彼はしみじみと頷きながら、

「お前ってやっぱり健気だよなぁ」

そう言ったので、遠慮なくはたいておいた。




クロウの部屋は、落ちつく。リィンはずっとそう思っていた。クロウは優しいし、居心地はいいし、とても安心できる。同じ造りなのにどうしてだろうか。リィンは自分だけの空間という自室も好きだけれど、クロウの部屋はそれに次ぐほどに居やすい空間だった。だから、クロウの部屋に行くとつい眠くなってしまうのはしょうがない。
最近は特に依頼も多かったり、会長の手伝いをしたりと忙しく疲れがたまっているのだろうか、必ずと言っていいほど寝てしまう。そのくせ、起きてもあまりすっきりしないことが多い。だからこそ部屋に帰ってもちゃんと眠れるから別にいいのだけれど。ただ、人の部屋に来ておいて爆睡したあげくなんかだるい、と言いながら帰ることはちょっとばかり気にしていた。別にクロウと居ることがつまらないわけじゃないんだけど、寝てしまうのだ。いつの間にか寝落ち癖がついてしまったのだろうか。
ある時、目が覚めたらクロウの顔が目の前にあった。もちろんリィンは心底驚いたし、クロウも目を丸くしていた。真剣な顔で眉を寄せて問いかけてくる。

「……大丈夫か」
「え、なにが?」

なにが「大丈夫」なのか分からず首を傾げるとクロウの方がきょとんとした顔を見せた。

「うなされてたぞ」
「……覚えてない」
「あっそ、」


ならいいんだけどよ、と小さく呟く姿にもしかして心配してくれたのか、と少し頬が熱くなった。クロウは、やっぱりリィンに優しい。知らず、額に浮き出ていた汗をぬぐってリィンは詰めていた息を吐き出した。




「んで、今日はなんなんだよ?」
わざとゆっくりを紅茶飲んで先延ばしにしていたのに、クロウはあっさりと本題に入ってしまった。そりゃそうだろう、いつものように「相談がある」と言って会いにきたのはリィンだ。あぁ、と自覚するほど歯切れ悪く言葉を返す。クロウは急かさない。頭の中で言葉を組み立てながらリィンは口を開いた。とはいえ話したかったことは多くない、一言で事足りる。


「1ヶ月経つのに、進展しないな、って」
「……」
「俺たち付き合ってるんだよな、って聞かれた」
「……なるほどなぁ」


まともにクロウの目が見れなくてリィンは自分の指先を見つめている。


「嫌なわけじゃねぇんだろ」
「あぁ」
「怖い、つってたよな」
「あぁ」
「それ言ったか?」
「…あぁ」
「したら、なんて?」
「……俺のこと信じろ、って言われた」
「そうか」


クロウは友人の――即ちリィンの“恋人”を思い浮べているのだろう。あいつなら言いかねんなぁ、と呟いて、ブレードに手を伸ばした。しばらく沈黙が部屋に満ちる。それを切り裂いたのは、リィンの方だった。

「怖いものは怖いだろう?」
「意外と大丈夫かもしれねぇぞ?」
「でも怖い。途中まではいいんだ、でも、いざってなると――」
「ほーう、途中まではしたのか」


不意にクロウが楽しげな声を出す。あ、とリィンは今さら気がついた。うまいこと言わないでおきたかったことを迂闊にも口にしてしまった。かっと頬に熱が集まるのが嫌でも分かる。赤面してあわあわするリィンを、クロウがニヤニヤしながら見ていて、その視線が恥ずかしくてたまらずリィンは声を荒げた。

「と、に、か、く!」
「途中までしてるから尚更我慢できないんじゃねえのかぁ?」
「――クロウ!」

思わず睨むもののクロウは気にした様子はない。ブレードを広げ口元を隠しながらニヤニヤした笑いをひっこめる様子もない。

「まあなぁ、あいつの気持ちは分からんでもないが」
「俺ひどいことしてる――よな、多分」
「リィン、お前どういう風に言ってほしいんだ?」
「どういうことだ?」
「慰めてほしいのか、尻叩いてほしいのか、冷たいこと言ってほしいのか」
「それどう違うんだ……じゃあ慰めてくれ」
「怖いもんは怖いんだから仕方ねえ。ケアできないあいつに配慮が足りてないんだよ」
「尻叩くのは?」
「いいからさっさとやっちまえ。一度やったら案外こんなもんかって思うから」
「なっ……じ、じゃあ、最後。冷たくしてみてくれ」
「……本当に大事にしてるなら待てるだろう。お前愛されてないんじゃねえの」
「一番ひどいじゃないか!」
「だから冷たい、つったろ」

冗談で言ってるのだと分かってはいるものの、そんなことを言われて動揺しないわけがない。「大事にされてないのかな」としょんぼりして呟いたリィンに、クロウはちょっと呆れたように「流されすぎ」と釘を刺した。

「信頼してないわけじゃねえってことはもっとちゃんと説明しないとな。お前どうせあいつ相手にゃ未だに素直になりきれてねーんだろ」
「……悪かったな」
「悪いとは言ってねえぞ。ただ、俺相手にするみたいに素直になれってこった」
「……」

返事をせずに唇をとがらせたのはなにもかわいこぶったわけではなく、クロウ相手にはだいぶ素直になっているということがばれていて照れくさかったからなのだけれど、どうやらそこは通じなかったらしい。「かわいこぶってんじゃねえ」と笑いながらリィンを小突いたクロウはブレードを机に置き、カップを片手に立ち上がる。

「冷めちまったろ、新しいの淹れてくる」
「あぁ、ありがとう」

やっぱりクロウは、優しい。



クロウを待つ間、ごろりとベッドに寝転がったリィンは机の上に、導力ビデオがあるのを見つけた。ジョルジュ先輩にプロトタイプを譲り受けた…と言っていた気がする。クロウは器用だし、すぐ扱いにも慣れて使いこなしてるんだろうなと思いながら、その小さな機械を手に取る。するとビデオの画面がいきなりついた。どうやら持った時にボタンを押してしまったらしい。起動したビデオはどうやら撮影したビデオの一覧画面だった。多くの動画が保存されていて、サムネイルにはこの間食堂でみんなと撮ったものも含まれている。そんな中、リィンは数字の羅列されたフォルダを見つけた。"185114"と名付けられたフォルダ。クロウの私物を勝手に見るのは…、と一瞬考えるが、クロウなら許してくれるだろう。と思い直してそのフォルダを開く。
その中にはずらりと動画ファイルが並んでいた。どれも日付のような数字の羅列ばかり。あれ?とリィンは首を傾げる。不規則なその数字は、どうやら撮影日のようだ。数字順に並んだその最下部には、数日前のものらしき動画がある。なんなのだろう。好奇心が首をもたげる。クロウの個人的な動画だろうか。見てもいいかな、ちょっとだけなら。悪戯心がうずいて、もう一度ボタンを押す。一拍遅れて動画が開き、再生が始まった。


ぱ、と写ったのはベッドだった。何の変哲もない、白いシーツのかけられた、ただのベッド。少し斜め下から仰ぎ見るような視点だ。おそらくベッドよりも少し低めの台にでも乗せて撮影されているのだろう。カメラが映すベッドの上には丸まったなにかがいる。手と足が見えた。その骨格から、身動き一つしないそれが男性であることがわかる。まるで死んだように眠っている。
不意に画面が動いて切り替わる。手持ち撮影に切り替えたのか、特有のぶれ方をしているカメラは眠る男のつま先から頭のてっぺんまでを舐めるように通り過ぎていく。下半身にはなにも身につけておらず、無防備にさらされていた。白い脚、細い腰、はだけたシャツから見える薄っぺらい腹、浮き出た鎖骨、不気味に映えるアザ、あまり目立たない喉仏。それらをゆっくりとよぎっていたカメラは顔を映したところで不意に止まる。人がまじまじとその顔を見るように、目を閉じたその顔をじっくりととらえている。にゅっと画面外から出てきた手が、白い頬を撫でる。壊れものに触れるような、愛しいものに触れるような優しい手つきで頬を包んだ指先は何度か頬の上を滑り、やがて名残惜しげに離れていく。

百歩譲って微笑ましいと思えたのはそこまでだった。

むき出しの太ももを手が撫でる。たいして肉もついていないそこを愛おしげに撫でさする。撫でる手は太ももから腰を通ってわき腹にたどりつく。薄い腹を軽く押して、また腰を掴む。やがて踊るような指先が胸元にむかって、片手で器用にシャツのボタンを外していった。すっかりさらけ出された胸をぺたぺたと触れた手は、当然のように乳首をつねる。指の腹で押しつぶし、指先でつまむように弄ぶ。片方だけで済むはずもなく、気まぐれに左右を往復する様はまるで遊んでいるようだった。人差し指が円を描くように乳首をなぞり、やがてついっと下に向かった。からだの中心を辿って、行きついたさきの陰茎を当然のようにゆるく握る。何度か上下にしごくけれど、くたりとしたままのそれに落胆するでもなく、相変わらず手は踊るように動いていた。

切り替わった画面で、その手は再び陰茎を弄んでいた。さっきまでと違っていたのは、ビデオの焦点がぐちゅりと水音を立てる結合部に合わせられていたことだ。脚を割り開かれたその間に撮影者がいる。ふたりのからだが一点で繋がっている。性急に快楽を追い求める様子はなく、ゆっくりと抽挿されていた。どちらのものともつかない体液で、それはぬらぬらと光っている。ゆったりとはいえ揺すぶられても男が起きる気配はない。反応を見せない体など、無機物を抱いているのと変わらないだろうに撮影者がそれを厭う様子は見られなかった。ぺたりと薄い腹にまた手を置いて撫でる。あくまでも優しい手つきで愛撫する。
そうして、再生が始まってから初めて、声が聞こえた。言葉にならない、熱く息を吐いたような喉の震える音だった。笑ったのだと気づくのは一瞬遅れた。誰が?犯されてなお眠り続けている男ではない。答えはもとよりひとつしかなかった。意識のないからだを凌辱し、この卑劣な行為を録画している撮影者――つまりは“彼”が。


「『リィン』」


スピーカーと、背後からと。同時に名前を呼ばれてリィンは弾かれたように振り返った。
いつからいたのだろう、その手の中のカップからもう湯気は立っていない。
見上げた彼はいつもみたいに笑っていた。その笑顔に鳥肌が立つ。

「クロ、ウ」

喉がからからに乾いていた。口から漏れ出たのは随分かさついた名前だったけど、不格好に呼ばれたことを気にすることもなく彼は笑った。喉を震わせた低い音。喜びをこらえた笑いだったのだとその表情で気がついた。呆然とクロウを見上げるリィンはきっとぽかんと口を開けて間抜けな顔をしていたのだろう。画面の中ではいまだ目を覆いたくなるような行為が続けられている。自分と同じ顔をした男が“誰か”に犯されている。
「自分と同じ顔をした男」なんて間違えようもなくリィン自身で、“誰か”の手だってよく見知った指先で、そして画面に映るあのベッドは今自分が座っている場所に他ならず。

「なに、何なんだ、これ…」

それでもリィンは問うた。現実を受け入れたくなくて、縋るように問いかけた。クロウはすぐには答えず、冷めた紅茶の入ったカップをことりと机の上に置いた。それからベッドに腰かけるリィンの目の前にしゃがんで、目線を合わせて――優しく優しく頬に触れた。避けることもできたのに、まるで蛇に睨まれた蛙のように一切身動きできなかった。

「仕方ねぇだろ?」

クロウはやっぱり穏やかに笑ったまま、しみじみと言った。指の腹が頬を撫でてするりと離れていく。それを横目で追って、リィンは口を開こうとした。だけど乾ききった喉からは引きつった吐息しか出てこない。クロウは呆然と自分を凝視するリィンに対して優しく、言い含めるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。

「俺はな、ずっとお前が好きだったんだ」
「――」

予想もしなかった言葉に、ひゅと息をのんだ。血の気が引いていく音が聞こえた気がする。顔面蒼白のリィンと対照的に、クロウはますます笑みを深くした。

「あいつがお前を好きになる前から、お前を好きだって言う前から、俺はずっとお前が好きだった。なのにお前があいつを好きだなんて言うから――それじゃ仕方ねぇって思ったんだよ」

低い声で語られる言葉がじわじわと染み込んでいく。語るクロウから目線が外せない。

「仕方ねぇから――手に入るものだけ、先に貰っとこうってよ」

よく撮れてただろ?とクロウが嬉しそうに言った。わけがわからない、とリィンは思った。腹の底からわきあがるような、恐怖感。だけど体は動かせない。なんで、どうして。あの動画でだってそうだ。あんなことをされてぴくりとも動かず目覚める気配すらないなんてどうかしてる。まるで麻酔でも打たれてるみたいじゃないか。麻酔。薬。――くすり?
まさか、と唇だけで呟いた。リィンの目に浮かんだ光を見てクロウが目を細める。

「この頃効きが悪くなってきたよな」
「そ、んな…」
「今だって、まだ眠くないだろ」
「――っ」

あの紅茶だ、と気がつく。思えば、眠くなるのは必ずなにか飲むなり食べるなりをしてからだった。どれもこれもクロウから手渡されたもの。

「いっぺん、お前が思ったより早く起きたことがあってな」
「……ぁ」
「あん時はまじで焦った」

と言う割には楽しそうな顔をしていた。思い出をひとつひとつ掘り起こしている顔。きっとその日のこともあの無数の動画の中のどれかに収められているのだろう。フォルダの中にずらりと並んだ動画を思い出してぞっとした。あれ、全部。全部、そういう、こと。
息がうまく吸えない。ひ、と引きつった声が喉から漏れた。パニックに陥りかけたリィンを抱きとめたクロウの手が宥めるように背中を撫ぜる。やめろとも触るなとも言えなかった。体がだるい。規則正しいリズムで触れるぬくもりに瞼が重くなってきた。違う、それだけじゃない。さっき飲んだ紅茶に、また。

「リィン」

名前を呼ぶ低い声が耳をくすぐる。なけなしの力を腕にこめ、なんとか体を遠ざけた。わずかに開いた距離をクロウはすぐには埋めない。やだ、と後ずさるも背後はすぐに壁だ。緩慢に振り返るとベッドに転がされた導力ビデオから再生されっぱなしだった画面の中に、リィンの白い腹にクロウの精液が飛び散っている様が映しだされていた。頭の奥ががんがんする。やだ、とまた呟いた。クロウの手がリィンの肩をとんと押すと、抗うこともできずあっさりと体が傾いだ。もう瞼は限界まで重くなっていて、今にも目を閉じてしまいそうだ。
クロウ、と最後に呼びかけた名前に彼はあくまで優しく笑んで答えた。

「大丈夫。怖くねぇぞ」

リィンの意識はそこで途切れた。


そして残されたクロウは、あられもない姿を見せる動画を止め、ビデオを再びをスリープモードにした。

「俺はお前を大事にしてっから、待ってたろ?お前が気づくまで」

返事がないことを分かったうえでそう言いながら柔らかいくせっ毛を撫でる。こうして眠っている間に何度触ったことか。髪だけじゃない、唇も頬も手も脚も首もアザも背中も腰もなにもかも、いまや知らないところは何ひとつないほどにリィンの体を暴いている。知らないことと言えば最中にそのバイオレットの瞳がどんな色を浮かべるのか、それからその手はどんな風に縋りついてくるのか、それくらい。だがそれも今日までだ。次からは眠らせなくとも構わない。だってもう知られてしまった。隠す必要はなくなった。リィンの瞳が自分を見つめることを思うとものすごく興奮する。無論、閉じられた瞼の下に隠された光を思いながらの行為もまた、格別なのだが。

「――ったく、かわいい顔しやがって」

リィンの目の端からこぼれた涙をぺろりと舌で舐めとって、クロウはいそいそといつもの撮影準備に取り掛かった。



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