真夜中に帰ってくる美澄は、出て行く時よりも少しだけ機嫌が悪い。
 がたん、と扉を蹴るような音がして目が覚めた。深夜、今日は仕事を終えてすぐに店を出たのだろう。なにかイラつくようなことでもあったかもしれない。暗闇の中スリッパを探すのが面倒になって、ぺたぺたと冷たいフローリングの上を歩く。もう音はしないから蹴ったんじゃなくてただぶつかっただけかも。灯りの着いた玄関、煙草と香水の混じった気持ちの悪いにおい。しっかりとセットされて、家を出た時から少しも崩れていない美しい美澄が、いた。
 
「おかえり……」
「寝てていいよ」
 
 唇が、緩く弧を描いている。優しい言葉に、優しいんだなと思わなくなってからそれなりに経った。いつの間にか「ただいま」がなくなって、早く私をどこかにやってしまいたいという顔をする。いや、そんな顔はしていない。私が勝手にそう思っているだけだ。
 目を擦る私を、彼は少しも気にせずに通り過ぎた。ジャケットを脱いでソファに放って、綺麗にセットされていた前髪を乱した後、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して半分飲み下す。
 
「寝ないの?」
「ちょっと、目が冴えちゃったかも」
 
 突っ立ったまま眺めていた私に、彼は小さく呟いた。明日も普通に仕事がある私を、気遣っている。フリをしている。
 例えば、頭を撫でるとか。抱き寄せるとか。キスをするとか。そういうの、もうだいぶしてない。スリッパも履かないで、と呆れた顔をしながらベッドに導いてくれる彼もいない。
 
「明日、休もうかな」
「……どうして? 仕事、急に休むのは良くないんじゃない?」
「最近、あんまり一緒にいる時間ないから」

 彼は笑った。正確には、口角を上げた。
 一緒いる時間がないのなんて当たり前だ。私は普通に働いていて、彼は夜に働いている。私が帰ってくる頃にはもう彼は家を出ているし、彼が帰ってくる頃には、私はもう眠っている。
 一緒に住んでいる意味、ある? まだ一度も問いかけたことはない。

「あのね、樹帆」
「それ、やめて」

 お願いがあって、と言う前に遮られる。口角を上げたまま、彼は一歩私に近付いて、わざとらしく眉を下げた。気持ちの悪いにおいが濃くなって、前髪を触るふりをして口元を抑えた。

「ちゃんと美澄でいたいから。少しも気を抜きたくないって、前も言ったよね」

 そうだったっけ、ととぼけることはできなかった。

「私たちって、付き合ってるんだよね」

 最後に一緒にココア飲んだの、いつだっけ。
 何度夜を繰り返したところで、望む答えは返ってこない。

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