学生最後の夏だった。
進路調査票を横目に、かちかちと小気味よいノック音を慣らす。どこに行くのが正解なのか、わからないままだった。
階下から、八千代の甲高い怒鳴り声が聞こえる。麗は溜め息をひとつ吐いて、それから毛足の長いピンクのラグに横たわった。冷えた部屋でもふわふわの毛は煩わしかった。
今、降りたら。顔を合わせた瞬間怒鳴り合いの大喧嘩が始まるだろう。何せこの進路調査票は、とっくに提出期限を過ぎたまま、夏休みに入ってしまったのだから。
「……だりぃ」
田舎の夏は、都会よりはまだ涼しい。日も傾いて、セミの鳴き声も大人しくなってきている。
だるい。これは夏の暑さのせいじゃない。
そっと扉を開けて、八千代が静かになったのを確かめた。足音を立てずに階下へ降りて、スマホだけを手に靴を履く。
夕飯時まであと少し。麗は理由もなく、田舎道を歩き出した。
18時を過ぎても、まだ明るい。
オレンジと紫のグラデーションに、一等星が光っている。情緒的な光景なんだろう、と麗はスマホを空に向けた。
センチメンタルになっている。馬鹿らしい。スマホの画面には一等星は映らなかった。
ああ、だるい。一等星に向かって歩いても、少しも近付かない。
ぱちぱちと、時折点滅する街灯が、一等星を隠した。空に向けていた視線を地面にゆっくり移して、小石を蹴る。跳ねた小石を目で追うと、人間の脚にぶつかった。
――裸足。
小石や砂利の地面に、不釣り合いな青白い裸足。爪は割れて血が滲み、足首は少し腫れて青い。
見てはいけないものを見たような気がした。それでも目を離せなかった。
「おまえ」
麗の声に反応して、ゆっくりと、制服のスカートが揺れた。街灯に、羽化したばかりの青白いセミが必死につかまっている。汚い脚の彼女は、青白いセミから目を離す。
「麻波くん?」
淡いソプラノ。か細い声には驚きが滲んでる。
驚くのはこっちだろうが。なんでこんな砂利道を裸足で。言いたいことは山程あった。
「血」
言いたいことのどれもが、麗には関係のないことだった。正確には、知る必要がない。
けれども麗には多少の良心がある。割れた爪を指さして淡々と一文字を放つと、彼女はぎこちなく答えた。
「あ、うん。おうち飛び出してきちゃって」
「飛び出すだけで足首腫れねえだろ」
あ、と掠れた声。足首を隠すように、彼女は一歩脚を引いた。
関係ない。麗は彼女から視線を外した。彼女、みょうじは同じクラスだけれど、日直の担当すら被ったことのない、他人だ。
「家、帰れよ」
くるりと背を向けた。もうオレンジ色も沈みかかっている。麗自身も、そろそろ帰ろうと思った。
後ろで、砂利を踏む音が聞こえる。靴で踏みしめるのとは少し違う、小学生の組体操で聞こえる音。その音は遠ざかることなく、一定の距離を保っている。
「麻波くんっておばあちゃんと暮らしてるんだよね」
絶対に振り返るまいと思った。田舎はすぐに噂が回る。みょうじも、その噂を聞きつけた一人なんだろう。
「うちはね、パパがいないの」
「は?」
麗の事情が回る分、他の事情も回ってくる。けれどみょうじのことは、一度たりとも聞いたことがなかった。
「結婚してない彼氏がいるんだけど、みんなにはパパと勘違いされてるみたい」
ほんのりと、父親にしては若い男性を授業参観で見かけたような気がする。参観日に男性が訪れるのは、八千代が来ているのと同じように珍しい。
自然と歩幅が狭くなった。聞きたいようで聞きたくない。この話の行き着く先が、容易に想像できてしまった。まだ誰も知らない、みょうじの家庭事情。そしていつかは広まって、関わってはいけないと耳打ちされる事情。
麗はついに立ち止まった。夏の空気が一気に重くなってのしかかった。
「だりぃ」
ほんの数十分前、大人しく八千代と怒鳴り合いをすればよかった。いつものように小言だらけのババアに歯向かって、地味に強い蹴りを食らっておけばよかった。
「俺のババア、うるさいから覚悟して来いよ」
麗はみょうじを放っておけない。八千代もきっと、そうだから。
「麗、あんた消毒液どこ置いたの」
「あ? そこにあんだろ。ボケてんのか」
テーブルの下でゴッと音がした。八千代の踵が思い切り脛に落ちて、麗は静かにテーブルにうずくまる。消毒液は確かにそこにあった。最近、八千代の足癖がいつにも増して悪い。
帰宅してすぐ、八千代は大きな声で麗を叱った。けれど、その背後にみょうじがいることに気付いて、途端に険しい顔が柔らかくなる。けれど裸足に気付いたのか、またも顔は険しくなって、それから悲しそうな顔をした。百面相だと思ったけれど、みょうじを前にしたらそうなってしまうのも無理はないと思った。
「この火傷、先生にはお話したことある?」
うずくまっている麗を無視して、八千代はそっと話しかける。みょうじの顔から表情が消えて、消毒の終えた腕を長袖のYシャツで隠した。
みょうじの傷は脚だけではなかった。八千代は傷一つ見逃さずにすべてを手際よく消毒して、必要があれば絆創膏やガーゼを被せた。夏だというのに長袖を着ているのはそのせいだった。
振り子時計の音がいつもより大きい。踵落としを食らった脛をさすりながら、麗は耳を澄ます。どう見ても料理や理科の実験なんかで負う火傷ではないし、血まみれになるほど爪が割れることも早々ない。丸くて赤い火傷はいくつも腕に散らばって、長袖でないと見えてしまう。
どれだけ待っても、みょうじは何も言わなかった。言えなかったのだろう。麗や八千代にだって、人に言えないことのひとつやふたつはある。
「親御さんに連絡できる? このままじゃ、誘拐になっちゃうから」
みょうじが息を呑んだ。麗はカッとなって、拳を握りしめる。
「は? 追い出したの親だろどうせ」
「あんたは黙ってなさい」
手も足も出てこなかった。八千代は大事な時ほど、お得意の足を出さない。みょうじがこのまま拐われたいと思っていることなど、八千代もよくわかっている。
「……すみません。帰ります」
泣きそうな声だった。みょうじにとって自分の家は安全じゃない。八千代にも麗にも明白な事実で、けれど一同級生が割り込めるほど簡単なものでもなかった。
みょうじは立ち上がる。まだ痛む脛を無視して麗もすぐに立ち上がった。八千代は立ち上がる麗を止めなかった。
「泊めてあげられないけど、昼間なら、いつでもうち来ていいから」
八千代がゆっくりと囁いた。なんだか初めて出会った五年前を思い出す。
みょうじは確かに頷いた。
確かに、昼間ならいつでも来ていいと言ったけれど。
翌朝、長袖のYシャツに学校指定のジャージ姿でみょうじは現れた。今日は裸足じゃなかった。
重そうなスクールバッグには、近所の神社の小さなお守りが揺れている。
「ほんとに、来ちゃった」
はにかんで、首を傾げながら笑う。少し湿った前髪が揺れた。
麗は驚かなかったけれど、八千代は少しだけ驚いて、それから嬉しそうに「今日のお昼どうしましょ」なんて小躍りをする。きっと今日は、張り切って天ぷらを揚げるだろう。普段はネギや大葉を刻むくらいの素麺なのに。
殺風景な自室に人を入れるのは、八千代を除けば初めてだった。面白いものなんて何ひとつなくて、陽射しで焼けた八千代の古本が数冊本棚にしまってある。学習机の上には無造作にプリントや教科書が広がっていて、一番上には進路調査票が白紙のまま置いてあった。
進路調査票が、スイッチを入れた扇風機にさらわれた。拾ったみょうじは、興味無さそうに呟く。
「先生、怒ってたよ。出してないの麻波くんだけだって」
まあ、そうだろう。中学最後の夏なんて、運動部の大会の話と、受験の話で持ちきりなのだから。大した部活もやっていないのに進路が決まっていない方が異端なのだ。
「お前は?」
興味があるわけじゃなかった。麗はただ、世間話のつもりで問いかける。
「うちは……お金ないから、公立の近いとこ」
みょうじの学年順位は知らない。特別悪い印象はないけれど、良いとも思えなかった。家庭事情によくある、学費問題。麗もきっと、八千代を思えばその選択になる。
紫の、グリップが柔らかいシャーペンで、第一志望に学校名を記入する。八千代を思ったわけではない。とりあえずで記入するには十分だった。
「麻波くんもいっしょなの?」
本当に15歳なのか疑うような、幼い声でミョウジが笑う。少し不気味にさえ思った。同い年のようで、同じ世界を生きているようで、みょうじはどこか遠くにいる。
みょうじはクッションを抱えてラグに座った。少しだけYシャツをまくって、それからバッグから夏休みの課題をローテーブルに取り出す。
丁寧に数式を書いて、ひとつずつ解を出す。みょうじの印象は薄かったけれど、どうやら真面目な生徒ではあるらしい。数字はひとつひとつ綺麗で、カリカリと筆記音が心地良い。
「麻波くん、終わりの方にまとめてやるタイプ?」
「そんなの答え写せばすぐ終わるだろ」
「お、ワルだねぇ」
みょうじは楽しそうにけらけら笑う。なんだか今日はセミの声がおとなしい。麗はなんだかソワソワして、結露で濡れたグラスの麦茶をゆっくりと飲む。
こんな夏は知らない。同い年の人間と、冷えた部屋で課題をこなす夏。漫画やドラマの世界にしか存在しないと思っていた空間が、今ここにある。
シャーペンを握るみょうじの手首に、真新しそうな火傷がひとつある。丸くはないから、きっとコテかアイロンでできたものだ。
「みょうじは真面目なのに、」
頭の中で思うだけのつもりが、ぽつんと口からこぼれた。声を発していることに気付いて、麗は中途半端に口をつぐむ。
どうして。ワルでもなんでもない、真面目なお前が、どうして。
階下にいる八千代の顔が頭に浮かんだ。麗はじっと八千代の顔を見つめる。怒ったり怒鳴ったり険しい顔をしたり。でも八千代はいつも優しく微笑んでいる。
みょうじの、母親は?
「ママはね。いい子の私が嫌いみたい」
数式を書き続けながら、なんてことないようにみょうじが呟いた。
「でも悪い子になっても、ぶたれたりするんだよ」
筆記音が止まった。全て解き終えて、今度は正答を見ながら赤い丸をつけていく。
麗のグラスが底をつきた。喉がカラカラでいつまでも潤わない。今ここに八千代がいたら、みょうじになんて声をかけるのか。
「本当は、どっか遠くの学校行きたい」
テーブルに出しっぱなしの、記入したばかりの調査票をみょうじは撫でる。
「おうち帰りたくないよ」
手首の火傷の肉色が、やけに痛々しく見えた。
麗は角の丸くなった消しゴムを取り出して、志望校の欄をきれいに消した。消しカスをまとめて、ティッシュの上に避ける。
「どこ行きたい」
「え?」
「だから、遠くの学校」
もうみょうじはとっくに進路調査票など出し終えている。それでもよかった。
みょうじは、ぽつんと学校名を呟いた。名前からしてキラキラとした都心の私立学園。きっと幼稚舎から大学までのエスカレーター。学費がどれだけかかるものなのかはっきりとはわからなくても、そこは確かに高額なのだろうという想像がついた。
麗は学校名を記入する。丁寧に、綺麗な文字で。一文字たりとも間違えないように。
「あのね、そこって女子校だよ」
みょうじが笑う。
麗は自分の名前を消した。それから代わりに、みょうじなまえと、数学の課題に書かれた文字を真似して書いた。
「私の名前、ちゃんと覚えてくれたの?」
みょうじは泣いた。ここにいることを、認められたような気がした。
みょうじなまえは、そっと紙を抱きしめる。夏休みが終わったら、麻波くんがくれたこれを大事に提出しようと思いながら。
麗は何も言わなかった。きっとみょうじが泣けるのは、うちに来た時だけだと思ったから。
「あんたたち、少しは外にも出なさーい!」
宿題も終盤になってきて、みょうじのスクールバッグが軽くなった。代わりに小さな駄菓子を持ってくるようになって、みょうじはちびちびと甘辛い駄菓子を食べている。
階下の八千代が、まるで小学生相手のように叫ぶ。そういえば小学生の頃、雨の日以外は昼休みに外遊びをするルールがあったのを思い出した。
「だりぃな……駄菓子屋でも行くか」
ファスナーの開いたバッグの中には、もう駄菓子はない。
「あの、ごめん。お財布持ってない」
「駄菓子くらい買ってやる」
小さな折りたたみの財布をポケットにつっこんで、扉を開ける。むわっと夏の湿気が飛び込んで、一気に汗が吹き出した。
麗は不意に振り返った。みょうじはじっと麗を見つめたまま、立ち上がる様子がない。
「行かねーとババアがうるせえぞ」
怒鳴られるのは麗の方だ。そんなのはごめんだと、眉をしかめる。
麗と裏腹に、みょうじはみるみる笑顔になった。とてつもなく嬉しい、そんな顔で立ち上がる。
「アイス食べたい。ガリゴリくん。パピオもいいな」
それは駄菓子じゃない。麗は財布の中身を思い出しながら、まあいいかとゆっくり歩く。
雲一つない晴天は、陽射しが強くて攻撃的でさえあった。長袖だと暑いだろうに、確か傷に日光が当たるのは良くないのだと思い出す。長袖のYシャツと生地の分厚いジャージは、みょうじの傷をすべて覆い隠している。
鮮やかな色彩の氷の暖簾が揺れている。クーラーが逃げないように締め切られたガラス戸を引く。入口のほど近くに置かれたアイスストッカーにみょうじが駆け寄って、それから眩しい笑顔で振り向いた。
「パピオ、新しい味出てる!」
隣に並んで麗もアイスを覗き込む。定番のコーヒー味の隣に、爽やかなブルーのソーダ味が並んでいる。夏季限定と大きく書かれたそれは、駄菓子とは桁が違う価格だった。
「…………」
「ソーダ味、嫌い?」
みょうじが不安げに首を傾げた。麗の財布は歳相応だ。八千代にお小遣いをねだれるような性格でも関係性でもない。
麗はアイスをひとつ手にとって、誰もいないレジにちょうどぴったり小銭を置いた。みょうじは不安そうにしたまま、麗の後ろをついて歩く。
「麻波くんは食べないの?」
「お前な……半分よこせ」
麗がお金を出していることを、すっかり忘れている。それとも買ってもらったという自覚がないのか。
ぱきんとアイスを半分にして、みょうじに手渡す。湿度の高い気温で、みるみる結露で水浸しになっていく。ぽたりと雫が落ちた。
「すごい。はんぶんこって初めてした」
みょうじは嬉しそうに笑ってアイスの封を切った。今日のみょうじは笑顔が多い。
麗も封を切って口に咥える。さっぱりとしていて、清涼感のあるソーダ味は夏にぴったりだ。定番のコーヒー味も甘くて美味しかったけれど、夏に食べるにはややくどい。
大して食べていないのに、キンと頭が痛んだ。まだ四分の三残っているアイスから口を離して、こめかみを揉む。
「私、麻波くんのこと好きだな」
さっさとアイスを食べ終えたみょうじが、ぽつんと呟いた。
は、と空気が口から抜けていく。音という音が紡げなくなる。麗は残りのアイスが溶けていくのを無視して、みょうじを凝視した。みょうじはいつもと少しも変わらない顔で、アイスの容器を手持ち無沙汰に揺らしている。
「麻波くんとずっといっしょがいい」
泣きそうな声だった。まるでもういっしょにいられないと言っているようだった。
なんて答えるべきなのか、何かを聞くべきなのか、麗にはわからなかった。セミの鳴き声がうるさい。夏の陽射しに照らされた緑が眩しい。
突然、みょうじが動いた。勢いよく腕を引かれて、一口分しか食べていなかったアイスがぼとりと地面に落ちる。
溶けたアイスが地面に広がっていく。麗には見えなかった。
唇が一瞬重なった。
「みょうじさん、最近来ないねえ」
八千代はくだらないバラエティ番組をぼんやり眺めながら、夏だというのに熱いお茶をすすっている。
みょうじが麗の家に来なくなって、一週間が過ぎた。アイスを落としたあの日から、音沙汰がない。
麗も八千代も、みょうじの家を知らない。あの日街灯の下に立っていたから、きっとほど近い場所にあるのだろうけれど、一軒ずつ表札を確認して歩く勇気はない。
「あんた、なんかしたの?」
「はあ?」
そんなわけない。むしろ、向こうが。
みょうじとの最後を頭の中で繰り返す。当然と言えば当然のような成り行きだった。何せあの日偶然出会ったときから、漫画やドラマのような日々が続いていたのだ。次はこうなると、まったく予想しなかったといえば嘘になる。
もういっしょにいられないと言っているようだった。この物語の結末が浮かんで、頭を振る。八千代は訝しげに麗を見て、麗の分も熱いお茶を淹れた。
「後悔しても遅いからね」
後悔って、なんだ。じゃあどうすればいい。
麗は言いたいことのひとつも言えずに、舌を火傷しながらお茶を飲んだ。みょうじはきっと、この何倍もの痛みを身体中に抱えていた。
八千代はやかんに水を入れて、火にかける。
八千代はとっくに知っていた。もうすぐ夏が終わってしまうことを。
夏休み明け、空調のない体育館は地獄だった。きちんとスーツを身に着けている校長はもっと地獄だっただろう。
出席番号順に並んだ列に、みょうじはいなかった。遅刻か、それとも欠席なのかはわからない。誰もみょうじの不在に気付いていないのか、それとも久しぶりの登校に興奮しているのか、喧騒が煩わしかった。
始業式を終えて、扇風機とクーラーの効いた教室に戻る。全員が自分の席に座った。やはりみょうじの机は空席のままだった。
「お前らーいつまでも夏休み気分でいるなよー」
前から渡されたプリントを後ろに回す。意識しているのが馬鹿らしくなって、麗はみょうじの席から視線を外した。
「先生ー、みょうじさん休みですか?」
せっかく意識をそらした麗を無視して、保健委員が手を上げた。休みなのであれば、このプリントたちを届けに行かねばならないのだろう。
「あー、みょうじな。実は――」
セミの声が、突然大きくなる。うまく聞き取れなくて、麗は勢いよく頭を振った。
雲一つない空から、教室に強烈な陽射しが降り注ぐ。窓際の生徒が、薄いカーテンを引く。
解散を告げる声と共に、日直が号令をかけた。身体に染み付いた行為は、自然と麗を立たせてお辞儀をさせる。
生徒たちがバッグを手に取り教室を飛び出した。女子はひとつの机に集まって、夏休みのおみやげを交換している。
みょうじの席が、集まった女子に追いやられている。そこにみょうじはいないのに、麗は怒鳴りつけたい気持ちになった。
「おい麻波、進路調査票書いたか」
教室を二歩出た先生が、ひょこりと教室に顔だけ覗き込んだ。
麗は無言のまま、端の折れた調査票を持って、ゆっくりとした足取りで廊下に向かう。
先生に押し付けるように渡して、麗はバッグも持たずに通り過ぎようとした。
「なあ、麻波」
進路調査票を受け取った先生が、麗を呼び止める。
小言を言われるのかと警戒して振り返ると、先生は小さく笑っていた。
「みょうじが、お前に渡してほしいって。お前らいつの間に仲良くなってたのか」
爽やかな青い便箋が、小さく折りたたまれている。
無造作にポケットに突っ込んで、屋上扉まで一段飛ばしで階段を走った。
今日は、夏の中体連で好成績を残した生徒の横断幕を垂らすために、扉が開いている。
まだまだ終わらない夏の陽射しが、青い便箋に反射した。
――麻波くんへ
急に引っ越すことになって、挨拶できなくてごめんなさい。
引っ越し先の住所を教えてもらえなかったの。
でもきっと、また会えるよね!
八千代さんにもよろしくお伝え下さい。
ビックリマークのインクが、滲んでいる。便箋に影が落ちた。
「会えるわけねえだろうが」
コンクリートの上に死んだセミが転がっている。
麗の夏が、終わった。
2025.09.05
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