引っ越してきてから、それなりに経った。いつもと変わらない駅から家へと向かう道。コツコツと、低めのヒールが夜道に響く。街灯が多めの住宅街、まだ家主は帰宅していないのか、ぽつぽつと洗濯物が風に靡いていた。
(……あ、)
ぼんやり洗濯物を眺めて、あまり見るものではないなと目を逸らした先。微かに煙草の香りがする。暗くてあまりよく見えない、男性と目が合った気がした。
「……背、高そうだったなあ」
(あ、いる)
一本早い電車に乗れた日。がらりとベランダの窓が開いて、室内の灯りに男性の顔が照らされる。柔らかく垂れた目とばちりと視線が合った。ふんわりと微笑まれた気がして、曖昧に口角を上げる。
タイミングが同じだけ。残業で遅くなってしまった日には出会わないから。なんとなく、電車を降りてからはマスクを外すようになった。
(遅くなっちゃった)
ギリギリ間に合わなくて、一本遅い電車に乗った日。洗濯物の数が少なくなって、ぽつぽつとカーテンの隙間から灯りが漏れている。もういないだろうなってマスクを外さなかったのに、もしかしたらと期待を捨てきれずに、自然と歩くのが早くなった。
「え、いる……」
もうすっかり冷え込んでいるのに、上着も着ずに。煙草を咥えた男性と目が合って、今日は微笑んでも意味が無いと気付く。
(……え?)
男性が微笑んだ。そして、煙草を持った手が、左右に揺れる。
……今、手、降った? 私に?
(今日も、いないんだな)
季節が過ぎた。マフラーと手袋は必要なくなって、上着は少し薄手のものに変わった。もうすっかり年度末、少しだけ仕事は忙しいけれど、変わらない毎日が続いている。最近、お兄さんがいないことを除いては。
まあそんな日もあるだろう。必ずそこにいたことの方が珍しい。名前も知らない、何をしている人かも分からない。ほんの小さな繋がりが途絶えるのも、些細なことだろう。
「ああ、こんばんは」
マンションのエントランスを横切ろうとして、声をかけられる。聞いた事のないはずの声が、どこか懐かしい気がした。
「あ……こんばんは」
こんな声をしていたんだ。私よりもずっと背が高い。片手にはスマホとお財布、素足にサンダル。ほんのちょっとそこまで、そんな姿だった。
「いやー、煙草切らしちゃってさ。ところで、名前聞いてもいい?」
小さな繋がりが途絶えるのが些細なことなのだとしたら、繋がりを強くするのもまた、きっと些細なことなのだろう。
近くのコンビニまで並んで歩く。春が来るまで、もう少しだった。
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